草さんへの返答も兼ねて、転移ネタを続けます。
彼が指摘されている通り、転移を「擬似恋愛」としてしまっては、「本当の恋愛」がどこかにあるような幻想を引きずってしまいます。
また、muse-A-muse 2nd:「えらさ」と「センス」と「面的思考(認識)」についてに
(・・・)「作品の後ろに『なんかすげぇなコイツ』的雰囲気があるかどうか(その雰囲気に惚れる)」、って話だと思うんだけど、ちょっと思うのはなんか雰囲気ありそげ(頭よさげ)に演出する人とほんとに偉い人の違いって見分けるのめんどくさいだろうな、ということ。
っていってもそんな感じで演出された偉さ(中身は空っぽ)的なものってしばらく接していればメッキがはげるものだしなぁ。ってか、けっこう一瞬で見分けられるものかもしれない。
という下りがあるのですが、「メッキのエラさ」と「真のエラさ」を分けて考えてしまっても、同様のトラップに嵌っていきます。
しかし、言いたいのは「幻想を打破せよ、現象しかないのだっ」などというポストモダンくさいことでは全然なく、むしろこのトラップ自体、「本質的弁別」という夢にこそ、本質的意味がある、ということです。
擬似恋愛と「本当の恋愛」の間に本質的な差異はありません。しかし「本質的な差異がある」ように見える、ということには本質的な意味があります。
転移を「転移」と言ってしまうことは、用語として括りだしてしまうこと、言わば「診断名」をつけて疎外してしまうことです。
そして転移、あるいは愛とは、上辺の「診断名」の向うにある「本物」を見出すことです。その「本物っぽさ」が疑われては、そもそも愛が成り立ちません。ナショナリズムが近代の幻想であっても、ナショナリスト自身はこれを認めないでしょう。
と、言ってしまうのは簡単なのですが、語っているこのわたし、それは何者なのでしょうか。いかにも「上から目線」で、わかったような相対主義的言説を振りかざしています。見るからに怪しいです。
そういう怪しい人が「愛こそ転移の効果」などと知った口をきけばきくほど、「ナショナリスト」たちはますます「ルーツ」への信仰を深めます。一周周って、これもまた「愛を深める一つの方法」というわけです。
muse-A-museさんが「しばらく接していればメッキがはげる」と仰るような身体性への還元もまた、一周周って「正しい」ことになります。
「メッキのエラさ」ではない「真のエラさ」を保証するものは何でしょうか。ここでは「直観」のようなものが挙げられていますが、要するに「これ以上先のないもの」として想定される身体です。
この身体性とは、もちろん< 他者>の視線の中に結ばれた想像的な鏡像にすぎないわけですが、わたしたちはこれをとても信じている。信じていなければ、ニンゲンでいられません。
鏡像段階論を「作者」のコンテクストの中でパラフレイズしてみるなら、わたしたちは真意を司る「作者」の作り出す物語の中で、一人の登場人物として統一像を得ているのです。そして「神様に恋しているから、瞬きしても世界が終わらない」で書いたように、この究極の「作者」こそが神様です(狭義の宗教的「神」を想定する必要はない)。
もちろん、わたしも身体を信じています。小賢しさと一瞬後に世界が解体してしまうような強烈な不安に悩まされてきたからこそ、人一倍強力なアンカーを求めてきました。もう、普通の愛なんかじゃ全然満たされないくらい、ド変態です(笑)。
「作者」の作品が物語ではなく絵画だと考えれば、眼差しとtableauの文脈に車線移動できます1。
私は、私が私を見るのを見ます。私の見ている絵のなかから、私が私を見返します。私は絵の中にいて、私は絵を見ています。この幻想において、私は私であり、ニンゲンであり、世界を記述する権利を得ます。眼差しは、曖昧な染みとして機能します。私が私を見る、という錯覚のもとに、眼差しの外部性を忘れ去り、世界の全体性を維持するのです。
草日記:転移、知っていると想定された主体、対象aとしての眼差し、「作者」であること
「私が私を見る」が一つの幻想としてわたしたちを支えている、ということは少しわかりにくいかもしれません。
わたしたちは、鏡を見れば「わたし」が見られる、と考えています。しかし、そこで目にすることができるのは、常に「わたしを見ているわたし」でしかありません。「見ているわたし」だけが常に見えるのであって、「見られているわたし」は鏡像のどこにも映りません。
では、「見られているわたし」は絶対に見ることができないのでしょうか。セミネール11巻的には、サルトルであればそう言うのでしょう(笑)。
しかし驚くべきことに、ラカンはある意味、「見られているわたし」が見られる、と言っています。それが「見る者の目以前のなにものかの隠喩」たる眼差し、絵画の中に映りこむ不吉な形、光点です。
デパートのコスメコーナーなどを歩いていると、時々ハッとすることがあります。複雑な形に鏡が置いてあって、鏡像の鏡像として、意外な角度からの自分が目に入ることがあるからです。
自分と同期して動く鏡像に吸い込まれ、次の瞬間に「あ、わたしか」と気づきます。
この時意識から消失したもの、一瞬前まで確かに見えていたはずの無気味なドッペルゲンガー、それが絵画に映りこむ髑髏としての眼差しです。
そして像が消失し、光そのものとして世界を満たし、それ自体としては目にすることができなくなったとき、「私が私を見る」が安らかなるファンタジーとして成立するのです。
「メッキのエラさ」と「真のエラさ」(あるいは「擬似恋愛」と「真の恋愛」)に戻ると、「メッキ」という可能性があるお陰で、「真のエラさ」「真実の愛」が成り立ちます。翻せば、メッキが足りなかったり、多すぎてしまうと、「真」への「信」がグラつくことがあります。「作者」が改めて問われるのはこういう時ですし、神経症者が分析家を訪ねるのもこの時です。
神経症者(普通の人)とは、答えのないところに問いを立ててしまった人です。問わない人は、答えを知っているから問わないのではありません。ただ問わないのです。
「本当のこと」は、問われた時にだけ遡及的に出現します。ただし、これは自然科学者が現象の背後に見出そうとする「本当のこと」ではありません。「本当のこと」は、事実ではなく「真意」です。つまり、「欺き」という次元の背後に想定されるのが、ここでの「本当」です。
『ジャック・ラカン 精神分析の四基本概念』 ジャック・ラカン
- 眼差しについては、以下参照。
「岩明均『ヘウレーカ』 科学のディスクールと< 真理>の鏡」
「アンドリュー・パーカー『眼の誕生』と対象aとしての眼差し」 [↩]

擬似恋愛と本当の恋愛、メッキの逆説

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