貴族 ヤンキー 立ち入り禁止


 メレ子殿が大久野島に行かれたようです。わたしが行った時とびっくりするほど見るポイントがかぶっているので、面白くなってきます。本当に小さな島で、写真を撮る場所も自ずと決まってくるのですが・・1
 わたしが一番カッコイイと思った発電所跡ですが、ここは彼女の書いている通り、内部は立ち入り禁止になっています。わたしは迷うことなく柵を乗り越え、震度3くらいで崩壊しそうな内部の写真をバシバシ撮ってきてしまいました。「入るな」と書いてあると、デフォルト入ります
 で、この内部ですが、刑事ドラマの銃撃戦がありそうなカッコイイ廃墟っぷりだけでなく、実はもう一つ予想もしないものが出迎えてくれます。

 大量のヤンキーの落書きです。
 「○○命」「夜露死苦」といった類の、絵に描いて額に入れたようなヤンキー落書きです。スプレーで大書きしたのではなく、油性マジックで描いたようなものがほとんどなのですが、これが壁面の至るところを埋め尽くしています。
 現在の大久野島は車両の乗り入れが禁じられていますし、仮に許されていたとしても暴走族が船で渡ってくるとも思えません。大久野島は研修施設としての機能もあるので、大方地元の中学や高校が合宿でもした時に、抜け出して落書きしていったのでしょう。あるいは、現在のような「保護エリア」ぶりが出来上がる前に書かれたものかもしれません。
 別段「嘆かわしい」などと説教臭いことを言いたいのではありません。
 むしろ「あの廃墟にしてこの落書き」とストンと胸に落ちます。ああいう中途半端な「観光地」に団体中学生がやって来て、落書きする子が一人もいなかったら、その中学は病気です。

 廃墟とか遺跡というのは「何かがあった場所」で、それが残っているということは、今は開発から取り残されている、つまり周縁化されている、ということです。マージナルな場所では、中心では隠されている真理が露出しています。時の断層のように、過去=真理が剥き出しになっているのです。
 運転免許試験場のあるような都市周縁、街と街の境界の峠、沼を埋め立ててできた郊外のニュータウン。そういう周縁とは、実はヤンキーの集う場所でもあります。
 京都の広沢池のあたりは、昼間はのどかな場所ですが、夜にはヤンキーがバイクで集まるエリアです。かつてわたしの先輩が「昔貴族の遊び場だったところは、今ヤンキーの溜まり場になっている」という名言を吐いたことがありますが、周縁化した過去には夏の虫のようにヤンキーが群がっているのです。

 そうした「○○ゆかりの地」の類は、大抵「立ち入り禁止」にされています。しかしほとんどの場合、これらは「遺跡」「観光地」としても一級ではなく、本気で警備にコストをかけるほどの値打ちもありません。「立ち入り禁止」の立て札からは、「すんなり入られて何かあったら面倒だから」という本音が透けて見えます。「立ち入り禁止」は、価値あるものの存在故に主張されるのではなく、むしろそこにあるもの無価値を暗示しているのです2。どうでも良いが故に打ち捨てられ、開発されることもなかったもの、時の崖に引っかかるかのように辛うじて埋没を免れたもの、そうしたものを現世に辛うじて繋ぎ止めているのが、「立ち入り禁止」の看板なのです。
 ヤンキーはもちろん、「立ち入り禁止」に入ります。この種の「禁止」は「禁止って言ったからね」と主張するためだけのものですから、立ち入ったところで怖いオジサンがやって来ることも滅多にありません。しかもカタギな方々は額面通りに立ち入りませんから、ある意味ヤンキー的精神の聖域になるわけです。

 「立ち入り禁止」とあるととりあえず入ってみるワタクシも、基本的にヤンキーと変わりないでしょう。違うのはわたしが一人だ、ということくらいです。
 かつて京都に住んでいた時、京都大学の時計台の改修工事が行われたことがありました。ひと夏、時計台の周りに足場が組まれた状態だったのです。
 周りはもちろんシートが備え付けられ、「立ち入り禁止」になっているわけですが、ロープ一本潜れば時計台の天辺まで登ることができます。天辺というのは、時計台の時計のある部分ではなく(そこは多分内部からでも到達できる)、時計台の「屋上」に相当する部分です。
 屋上というのは、都市内部にあって「立ち入り禁止」な、「内の外」とも言える特異点的な周縁空間なのですが、京大時計台の「屋上」となるとなかなかレアです。そして京都で夏と言えば五山送り火。わたしは送り火の日に時計台に登ってみることにしました。
 点火少し前に「登頂」。送り火の日には、このルートに気づいた人が大勢くるか、わたし一人か、いずれかだろう、と思っていたら、誰もいませんでした。そのまま一人かと思いきや、少し経ったところで一人だけビール持参の登頂者がやって来ました。
 「同じこと考えてる人がいるんですねー」と一瞬は盛り上がりますが、狭い屋上で初対面が二人きり。結構気まずいです
 微妙すぎる送り火を楽しんだ後、彼に誘われて吉田の飲み屋さんに行ったのですが、合う話題も全然なく、覚えていることと言えば、そこのウィスキーがとても不味かったことだけです。

 「立ち入り禁止」は、いつもうんざりするくらいリアルです。

4838103433 PARIS GRAFFITI―パリの落書き
藤田 一咲
光村推古書院 2004-12

関連記事:
「兎と毒ガスの島 大久野島 廃墟写真篇」
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「運転免許試験場 ブルース・真理・小池」
「平日昼間にはマージナルな真理が宿る」
「革命家は制止を振り切ってゴミを拾え」

  1. 天と地ほども違うのが、写真のレベルです。自分と同じ場所でうまい人が撮った写真を見ると「良い写真とはこういうものだ」というのを見せ付けられて、惚れ惚れします。万人の認めるところでしょうが、メレ子殿の写真はマジ素晴らしいです。 []
  2. 「無価値」というのは、合理的観点からの「無価値」ということです。例えば、原子力発電所の「立入禁止」は、ここでの「立入禁止」とは別モノです。「とりえあず立入禁止しとくか」な「立入禁止」対象には、原子力発電所的な価値はありませんが、むしろその虚無故に、「図らずも残ってしまった」リアリティ、マージナルな真理を備えています。ある意味、合理的価値がないからこそ、別種の「評価不可能な価値」のあるものです。人間が使うためではなく、神様が自分用に作って放置している感じがします。
    上で挙げたもの以外で、周縁的領域によく見かけるもの、むしろ真っ先に挙げるべきだった象徴的存在が、墓地です。普通、街の真ん中にお墓は作りません(結果的に開発が進んで街中になってしまった古い墓所もありますが)。山を切り崩して造成したような大規模霊園などは、「宗教的」尤もらしさが追いつかなかったが故に、むしろ「団地的リアリティ」が剥き出しになっています。
    府中の運転免許試験場のすぐそばにも確か霊園がありましたが(調布だったかな)、峠にもよくお墓があります。その手の場所には大抵ラブホテルもあるのですが、「貴族の遊び場がヤンキーの溜り場になった」と言った例の天才的先輩が、お墓とラブホテルが隣り合わせになった風景を指して「生と死が隣り合わせ」と、これまたヤバすぎる真理を指摘されたことがあります。
    街中で暮らすわたしたちは、峠から来て峠に帰っていくのでしょう。 []