死後の生は信じるが、死んだ後のことなど知らない


ハーリジャ・ブン・ザイド・アル・アンサーリーによると、預言者に忠誠を誓っていたアンサールの女、ウンム・ル・アラーゥは語った。アンサールがムハージルーンの住まいについてくじを引いたとき、ウスマーン・ブン・マズウーンが当り、彼は私たちの元に留まることになったが、しばらくして病気にかかり、看病の甲斐もなく遂に死んだので、私達は彼を衣に包んで葬った。このとき神の使徒が私たちのところに入って来たが、私は死者に向かって「アブー・サーイブよ、アッラーがあなたを憐れみ給うように。そしてアッラーがあなたを栄えあるものとされたことを私は証言します」と呼びかけた。すると預言者は「アッラーが彼を栄えあるものとされたとどうしてわかるのか」と尋ねたので、私は「神の使徒よ、私にはわかりません」と答えた。そこで彼は「ウスマーンはもう死んだので、彼の冥福を祈るのだが、わたしは一介の神の使徒の身、アッラーが彼に何をなさるか、わからない」と言った。これを聞いてわたしは非常に悲しく思い、それ以後決して死者を褒め讃えることをしなかった。ところである晩、私は夢でウスマーンがこんこんと湧き出る泉のほとりにいるのを見たので、これを神の使徒に話した時、彼は「それは彼の行いの賜物だ」と言った、と。
(ブハーリーのハディース)


 「死後の生を信じるか」と問われれば、もちろん「信じる」と即答するが、本当のところ、死んだらどうなるのかなど、わかるはずもない。
 死んだら何も残らないのかもしれないし、正直、単に消滅するだけなのだろう、という気持ちの方が強い。また、そうあって欲しい、とも思う。
 わたしが死んだら、燃えるゴミの日に出して欲しい。審判の日に蘇るとしても、ヒトの形などもう飽きた。
 だから、「死後の生を信じる」というのは、単に死の後に続くもう一つの生というメタ的な次元を信じることではない。そんな調子ではただのドラゴンボール的無限背進に陥るだけだ。
 「死後の生を信じる」とは、望みもしないのに生み出されてしまったこの< わたし>という生について、わたし自身の生を越えて責任を持つ、ということだ。
 勿論、そんな責任を負う義務はないし、負うと宣言して負いきれるものでもない。多分、約束倒れになるだろう。
 だから、この約束は、< わたし>というまったく取るに足らず、どう考えても失敗作にすぎない偶然を作り出した「わたしの生を越えるもの」に対し、精一杯報いる、ということだ。
 < わたし>という偶然的でつまらない通過点、そこに至ったのは「大いなる失敗の連続」であって、理性ではない。人の理性を越えるものに、人の理性などあるわけがない。神は合理的でも道徳的でもない。だからこそ平伏するし、それ以外何もできないのだ。

 重要なのは、そういう馬鹿げたことを信じるわたしが今生きているといことであって、信じている人として振舞っている、ということだ。死後の生は信じるが、死んだ後のことなど知らない。
 神の使徒が言いたかったのも、そういうことではないのか。