草さんの『「語られたこと」の外部としての「語ること」、記号論の向こう側』が素晴らしいです。このエントリはsho_taさんの『私たちはいつも、「不完全な贈り物」を届けたがっている』を受けたものなので、こちらから辿られることをお勧めします。
問いは「コミュニケーションの不完全性」を巡って展開します。メッセージはエンコードされ、宛先でデコードされます。「不完全性」は、一見デコードの失敗であるかのように見えます。しかしそもそも、「正しいコード」はいかにして伝えるのでしょうか。
最後に「真意の伝達」があるのではなく、「真意の伝達」のあとから、メッセージ/コード/コンテクスト等等が見出されるのです。(・・・)メッセージを伝える前にコードを渡しておかなければならないとしたら、コードを伝えるためのメタコードをあらかじめ伝えておく必要が生じ、メタコードを伝えるためにはメタメタコードを渡しておかねばならず、以下同様の事態が無限に連なるため、私たちは永遠にメッセージの送信を始めることができません。
とにかく、どういうわけか、真意が伝達されます。海と言ったら海のことなのです。
これは「独立したコードは存在せず、メッセージに練りこまれた形で習得される」という意味ではありません1。
なぜ斯くも「コミュニケーション」とは不完全なのか?
ショータさんは、これに対する答えを二つしか思いつかないといっていますが、私は答えをもう一つ知っています。コミュニケーションはつねに完全である、というものです。そう、手紙はつねに宛先に届きます。
デコードは成功しています。ただし、届く宛先は< わたし>ではありません。郵便屋さんがこっちへやって来ると思ったら、わたしをスルーして背後の宛先に届けてしまうのです。
わたしはあっけにとられ、背後の誰かを振り向きます。本当の宛先を確かめようと。正確には、この時振り向いてしまったもの、それが< わたし>です。
以前『ブログ記事評価におけるテクストの自律性を問おうとして人格概念と意味についての議論にはまりこんでみる』の脚注で、こんなことを書きました。
ラカンがどこかで「砂浜に足跡があれば、それは単にsigneだが、その足跡を消した跡があれば、signifiantだ」といったことを書いています(と思います)。足跡だけなら、わたしは安全圏です。しかし消した跡があるということは、何者かがその足跡を「読む」であろうと、予め想定されていたわけです。無人島で「消した跡のある足跡」を見つけたとしたら、なかなかゾッとしないでしょう。なぜこれほど無気味なのでしょうか。その跡は< わたし>に呼びかけているからです。そして「え、わたし?」と呼びかけに振り向き目覚めてしまうもの、それが< わたし>です。
「消した跡のある足跡」の引き起こす「ハッとする感じ」は、ぼんやりと夢想しながら人ごみを歩いていて、「ちょっと!」という声に「ハッとする」のと等価です。わたしが呼びかけられるのではなく、振り向くものが< わたし>です(足跡を消した主は、わたしのことなんて全然知らないかもしれない)。
このことは、呼びかけが実はわたしに向けられたものでなかった時を想像すればよくわかるでしょう。「ちょっと!」が隣にいた見知らぬ女に対する呼びかけだった時の、あの置いていかれたような気分、夢から覚めたばかりでここがどこだかわからないような寄る辺なさ。
本当の宛先は、夢の中に消えました。郵便屋さんの背中を追って振り向いた瞬間、わたしは目覚めるのです。
わたしは目覚めたばかりで、さっぱり事情がわかりません。わたしはただの結果であって、何も知りません。ですから、わたしに不足しているのは、いつも「理由」です。わたしには理由が足りません。
この不足、差分こそ、論理が倫理へと接続される地点です。倫理は、わたしが完全なコミュニケーションから取り残された場所で成立することに由来するからです。
そう考えれば、草日記の次のエントリ『「言い訳するな」と神は言い、私は「なぜ?」という問いに答えきれない』への、橋渡しができるはずです。
私は「なぜ?」という問いに答えられません。言い訳にしかならないから。あるいは、私は「なぜ?」という問いにいくらでも答えることができます。しかしそれは「すべてではない」。責任が、自由が、存在しうるとすれば、この余白においてです。「なぜ?」-「言い訳するな」のダブルバインドは、語りえぬもの、「語られたこと」の外部としての「語ること」、記号論の向こう側を指し示します。その余白で私を突き動かす法の名が、欲望です。
わたしたちは「なぜ?」と問われ、とめどなく理由を答えます。しかし、その理由が完全なる充溢に辿りつくことはありません。なぜなら、本当のところ、わたしは理由など知らないのですから。
だから「言い訳するな」です。
知らない理由を必死で考えたのに、答えてみると「言い訳するな」。そこでわたしたちに許された回答は、最初から一つしかありません。< わたし>そのものを、理由として差し出すことです。
< わたし>とは、決定的な理由不足を負って世界に呼び出された者です。うっかり振り向いてしまった者です。「なぜ?」が求めるのは、< わたし>に辿り着いた流れ、「どうしてこんなことになってしまったのか」を背後から見つけてくることではありません。まさにその理由の不足こそが、< わたし>なのですから。
そうではなく、前を向いたまま「なぜ?」の問いに自らの存在で答えることです。「わたしが・・・したかったから」。その欲望が< わたし>の欲望だとしても、欲望を欲望したのは< わたし>ではありません。わたしが青よりピンクが好きだったとしても、なぜピンクが好きなのかなど、わたしは知りません。だからこそ、問いを終わらせるには、「それがわたしの欲望である」と答えるしかないのです。
理由=原因causeは、いつも足りません。
だからわたしたちは尋ねます。「なぜ?」。
問われたわたしは、後ろを振り向きそうになります。わたしではなく、本当の宛先こそが、理由を知っていたに違いないからです。
しかし振り返っても、そこには誰もいません。宛先はもう、夢の中に見失ってしまいました。
背後の深い闇に、わたしたちは叫びだしそうになります。「知りたいのはわたしの方だよ! どうして?」2。
不安を鎮める方法は一つしかありません。振り向くことから生まれてしまったわたしを、もう一度振り向くことで、理由として、一つの物質として差し出すのです。
わたしはあなたを振り向く。理由なく、あなたの理由であるものとして。
関連記事:
「オデュッセウスは豚の声を誤解したのか、魔法にかけられたのは誰だったのか、魔法は誰がかけたのか」
「空気が読めない者、その罪状と判決」
- 後期ウィトゲンシュタイン的な視点で、「世界を眺める点」としての< わたし>のみを思考するなら、尤もな解釈だと思います。 [↩]
- 「原因はうまくいかない時にだけある」といったことをラカンが語っていますが、うまく行っている時、わたしたちは原因についてあまり考えません。「どうしてこんなことになってしまったのだろう」という時、原因が問われるのです。
これと同様に、わたしたちは普通、背後で「本当の宛先」が保証してくれているのを信じて、前を向いたまま生きています。ですが、何か「うまくいかないもの」「どう受け止めてよいのかわからないもの」に出会った時、うっかり後ろを振り向いてしまうことがあります。人生の節目などで、よくあることです。
ところが、支えが欲しくて振り向いてみると、そこにはぽっかりと黒い穴が開いているだけなのです。「うまくいかなさ」が神経症的症状へとつながるのは、この「振り向き」によってです。ただうまくいかないだけで、人は病気になりません。
答えのないところに立てられた問いは、歯止め無く「なぜ」を繰り返します。「考えないように」「忘れるように」は、穴の吸引力の前ではまったく無力です。
この穴はわたし自身が蓋になることによってしか、塞ぐことができません。つまり、もう一度前を向いて、誰かの問いにわたしが答えることによって、です。わたしたちは、< わたし>の「理由」を知らないし、知っているフリすらうまくできないのに、誰かの「理由」についてなら、実に無責任に責任を負うことができるのです。 [↩]

郵便屋配達夫は通り過ぎ、わたしは目覚め、理由になる
『精神病』 ジャック・ラカン
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