あなたの読解がわたしの真意、神のネタには全力マジレス


 muse-A-muse 2ndさん「善悪の彼岸 (飽き味?)」「人に感謝しない者は、神にも感謝しない」についてこう書いてくれています。

まず最初にishさんのエントリを誤解してるように受け取られてるんだろうなぁと思うのでちょっと補足。ishさんのこれまでの流れ(考え)をおってきた人なら分かると思うけど、ishさんのアレは「宗教に依存」って感じではなく「敢えて踏み込む」って感じでの宗教回帰(あるいは利用)って事なんだと思う。(・・・)なんつーか、「全力で釣られる」って感じなんだと思う。

 こんな風に理解して下さる方がいるというのは、有難いことです。感謝します(笑)。
 muse-A-museさんは「suVeneのあれ: 「釣り」について」も引き、以下のように続けます。

 ぼく流に解釈すれば、「釣りかどうかが重要なのではなく、その話題をきっかけとしていろいろ考えた時間が大切なんだ」、ってこと。(・・・)
 つまり、「結果よりも過程」ってことなんだろう。「神様を信じたからってなにかしてくれるの?」っていう人がいるけどこういう人は「結果(見返り)」を求めていることになるんだと思う。そうではなくて信じることで得られる心理的安定や、それを通じて得られるコミュニティとの繋がりが大切なのだ。そしてそういったことを通じて「善く生きていく」ということ。

 少なくとも前半については、概ねわたしの意図を代弁してくれています。そしてこういう「冷静な人」がいてくれるお陰で、わたしは好き勝手言えるわけです。美人って得で困っちゃう♪
 一つ付け加えれば、「誤解」が生じることはわたしも分かっており、かつそれで良いと考えています。


 別の人からも「極右的なことを書いて、文字通りに極右的に取ってしまう人もいるのではないか(むしろそちらが多数派ではないか)」という指摘を受けたことがありますが、そうした可能性は大いにあり、極右的に受け取ってもらって構いません。なぜなら、わたしは極右だからです。
 もちろん、そこに至りつく過程や経路については思うところがありますが、普通は「過程」など見てくれるものではありません。そしてわたしが結果として「極右」を選ぶとしたら、それは大多数の人に単に「極右」と見なされることを選択することです。より深く読む方から「誤解」と見なされる見方であっても、それは「正しい誤解」なのです。
 あんまりこういうスネたことは書きたくないのですが、圧倒的多数の人には、常に「真意」など伝わりません。そして「誤解」こそがディスクールを導くのであり、むしろ「みんな(≒神)の見ているわたしこそわたし」「あなたの読解がわたしの真意」1という引き受けがなければ、言葉は力を持たないでしょう。ここで「いや、わたしの言いたいのはそういうことじゃなくて・・・」という無限背進を演じることもできますが、それもまた「わたしは吝嗇な相対主義者です」というパフォーマティヴなメッセージを伝えるだけです(手紙は常に宛名に届く)。
 もちろん、人はそんなアッサリと「去勢され切る」ことなどないし、あってはならないので、何か余りがあります。「限られた人々」に「伝わる」(伝わったと思える)ことは大切です(ナルシシズム)。そして「限られた人々」には伝わっているので、わたしの失敗は成功しています。
 翻せば、圧倒的多数になど大いに「誤解」されて結構、というより、「誤読」を通じてヴァリアントを生み出す「ミスリーディングな」言説の方が、洗濯機の取り扱い説明書などより遥かに意義深いでしょう。どっちに転んでも元は取れるのですから、大変オイシイ語らいです(笑)。
 ただし、こういうオイシイ役が取れるのは、muse-A-museさんその他の冷静な知性が「深読み」してくれているお陰なので、わたしをサヨクなどと「誤読」する人たちも、それはそれで大事にしなければなりません。人間と寄生獣は合わせて一つ、家族です。わたしは断固寄生獣ですが。

 後半については、半分認めつつ半分はツッコミ返したいです。
 確かに「全力で釣られる」(suVeneさん的には「ネタにマジレス」)よう心がけてはいるのですが、「過程が大事」というほど相対化してはいません。そういうツッコミ力を喪失しはしませんが、できれば喪失したい、ネタをネタと気づかずマジレスしたい、と「本気で」思っています。
 もちろん、「ネタをネタと気づかずマジレスしたい」などと言っているうちは絶対本気で釣られられないのですが、そうやって「自分は冷静」などと思っている瞬間にこそ隙はあるもので、端から見たら既に別のポイントで完璧釣られていたり、ツッコんでいる姿自体が「ヤラレ」ていたりするものです。そしてこれも、釣られていたら釣られていたで「成功」なわけで、どっちに転んでも元が取れます(笑)。

 念のためですが、神様も外山恒一もマイク・グラベルも「ネタ」ではありません。
 「本気の本気が結果としてネタになってしまう」「さておかれない冗談」です2
 後者二件はともかく、神様を「さておかれない」とはいえ「冗談」と言うのは涜神的と思われるかもしれませんが、真の信仰者とは常に信仰に対して懐疑を持つ者、つまり普通の人(神経症者)です。
 このことはmuse-A-museさんの仰る「(広義の宗教的)コミュニティ」とつながっていて、「善き信仰」の実態とは、自称「無神論者」がナイーヴに想像するようなドグマティックなものではなく、(結構いい加減な)宗教共同体そのものにあります。それは「宗教の実態」として取り出すことができないものであり、宗教そのものにとっては本質的に「外部」であるはずのものですが、常に「宗教」に還流し、これをdriveしています。
 ジジェクは「父・子・精霊」の精霊を「宗教共同体」と解し、これこそ< 現実的なもの>であることを指摘しています(「宗教共同体」は宗教的には存在しない!)。
 ただし、わたし自身は信仰者ではなく狂信者であり、「原理主義者」ですから3、疑いを差し挟まず全力でマジレスしますが。

 もう一歩踏み込めば、そもそも世界は「釣り」なのです。「ボケ」と言っても良いかもしれません。
 世界はツッコまれるのを待っています。その多くはそんなに面白い「ボケ」ではないので、大人はテキトーにスルーするわけですが、それでもうっかり釣られてしまうことがあります。逆に言うと、マジレスしてしまった「釣り」として見出されたもの、それが「世界」です。まるで釣られもしなかったものなど、眼中にも入っていない(象徴化されていない)のですから。

 ただ、こうして話を大きくしてしまうと、一面の真理は得られたとしても、どこか相対主義的で頼りなく、激烈な宗教的パワーが減じられてしまいます。
 愛は具体的でなければなりません。そして取り返しの付かないほど、マジレスしなければいけません。
 幸いにも、わたしはそれほどタフな精神の持ち主ではなく、砂漠のような日常や醜悪な人間ども(主に見た目)への憎悪、睡眠不足などから、本気で宗教的だったりファッショ的になっていることがしばしばあります。ファッショは最冷静レベルまで頭を冷やしても美しいと思いますし、ドトールでアラビア語を筆写する姿は普通に狂人です。

 「善く生きていく」は、結果として、本人の預かり知らない場でのみ、現実態となり得ます。
 わたしは原理主義者なので、コミュニティの水準で「善く生きて」いこうとは思っていません。その背中を何と評するか、墓標にいかなる名を刻むか、それはわたしの決めることではないですし、誰にとっても自由にはならないものです。翻せば、(ちっとも自由ではないにも関わらず)自らの自由とし選び意志せよ、と命じられた範囲でできる限り欲望し、潰えた先のことは主におまかせします。「潰えた先」はそんな大層なものでもなく、大抵ちょっと端から見れば丸分かりなのですが。
 裸の善などどこにも転がっていません。わたしたちは、悪から善を作らなければなりません。それも「善のために」と思った瞬間にただの悪になってしまいますから、徹底的に「悪」であり、意志の政治性が挫折する場所まで走らなければなりません。

 最後になりましたが、muse-A-museさんが引用されているニーチェの英訳を孫引きしておきます。

What is good? All that heightens the feeling of power in man, the will to power, power itself. What is bad? All that is born of weakness. What is happiness? The feeling that power is growing, that resistance is overcome.
-Friedrich Nietzsche, The Antichrist, section 2

  1. 「あなたが見ているわたしが『本当のわたし』」と言えば、転移関係がわかりやすいでしょうか。鏡像段階は反復されます。わたしがバラバラの部品に分解してしまわないのは、「あなた」が「わたし以上」のファンタジーを抱いてくれるからです。 []
  2. 「さておかれない冗談、外山恒一」「大川周明とイスラーム、日本のイスラーム化と「さておかれない冗談」」参照。 []
  3. 「わたしが原理主義者です」参照 []