奇跡を見たならば、それはあなたの奇跡だ


 先日表題作を取り上げたミヒャエル・エンデの短編集『自由の牢獄』。その末尾に「道しるべの伝説」という物語が収められています。
 商人の子として生まれた主人公ヒエロニムスは、空想的な物語を語る乳母の影響などから、奇跡を信じる信心深い少年に育ちます。彼は世界をどこか居心地の悪いものと感じ、自分のあるべき真の世界と「不思議」を求めます。
 実業の人である父は、宗教を重んじながらも、そこで語られる奇跡や不思議を否定し1、空想に耽る息子を叱咤します。
 父の死後、莫大な遺産を放棄したヒエロニムスは、奇術師に弟子入りします。しかしその奇術師も、忌の際に「奇跡などない、人は騙されるのが好きなのだ」と言い残し世を去ります。
 彼は「不思議」を信じていた心を裏切り、天才的「詐欺師」へと転進します。彼の奇術に人々は心地よく欺かれ、一国の財政の采配を委ねられるまでに至ります。
 ある時、騙された人々から逃れる途上、彼は偶然「真の奇跡の世界へと通じる清き心の門」を見つけます。奇跡を信じるのをやめた時、はじめて真の世界への道に出会ってしまうのです。その門をくぐるに自分は値しない、と考えた彼は、インディカヴィア、つまり「道しるべ」と名を変え、下界へと戻ります。
 インディカヴィアは奇術を続けますが、今度はそれがトリックに過ぎないことを明らかにし、「真の奇跡を証すためにこそ、芸を見せている」と語ります。「騙されるのが好き」な人々は、「率直」になった彼には魅了されません。落ちぶれたヒエロニムスは、ただ限られた人々にのみ、真の世界への道を示すことに専心します。

道しるべとは、それだけでは一片の板であり、値打ちもない。(・・・)道しるべはそこにかかれたことを自分では読めず、読めたとしても、何かわからないだろう。それに、道しるべはそれが指ししめすところへ決して自分では行けない。それどころか、道しるべの意義とは、それが立つところにとどまることにあるのだ。それはどこでもいい。ただ一箇所をのぞけばどこだって適所なのだ。その例外とは、それが指ししめすところである。そして、道しるべはそれが指ししめすところに立たないからこそ、そこへ通じる道をさがす人々の役に立つのだと。

 現代思想に少しでも触れたことのある人なら、ナイーヴとは知りながらも、シニフィアンの概念について想起しないでいられないでしょう。
 「道しるべ」として俗世に留まることを受け入れることで、物語は収束するかに見えます。ところが、インディカヴィアは、真の世界に旅立ったとばかり思っていた可憐な少女と、意外な場所で再会することになります。場末の売春宿です。彼女は売春宿の醜い女主人となり、真の世界などなかった、お前のせいで身を持ち崩した、と彼を責めるのです。
 希望を失った彼は、酒に溺れ、気が付くとあの「門」の前に立っています。門は「おまえが自分自身を裁けると思ったことへの仕置き」を与えた上で、彼を受け入れます。彼が道を「示した」人々は門を見つけることができず、信じる心を裏切ったインディカヴィア自身が、最終的に門をくぐるのです。

 この寓話が示しているのは何でしょうか。
 「自身であるところ」に直接に立つことができず、背中に書かれた「本当の名前」を、自分だけは読むことができない。それが「人間」です。人間は、道しるべのように、自分で自分の名を読むことができません。
 だからわたしたちは、「ねぇ、わたしの背中に何て書いてある?」「わたし彼のことが好きなのかな?」2と他者に尋ねるのです。もちろん、他者が本当のことを言ってくれるとは限りません。そういう疑いの余地を、わたしたちは「知って」います。そして他者もまた、彼の名を知りたがっています。こうして、わたしたちは他者と全体性、< 意味>のゲームに巻き込まれるのです。インディカヴィアは、宙吊りにされ、余白に向かって欲望し続けることを命じられた、至極「真っ当」な生き方です。
 しかし、彼が多くを犠牲にして必死で示した道は、誰も導きませんでした。やっと「本当のこと」を伝えたと思ったら、期せずして欺く結果となってしまったのです。
 なぜでしょうか。
 門が、本当の奇跡だったからです。

 「現実界のかけら、アブラハムの羊、鏡に映らなかった物質」で、奇跡のことを書きました。

 預言者はよく奇跡を起こします。イエスが水の上を歩くと、神の子の顕現だと言って人々が信じます。
 ですが、百歩譲ってイエスが本当にパンや魚をどんどん増やせたとしても、冷静に考えれば、神の国の到来とは全然関係ありません。それくらい、頑張ったらミスター・マリックでもできるかもしれません。「確かに水の上を歩くのは凄いけれど、それと神様が何か関係あるの?」と、いつでも問うことができます。
 ですから、奇跡は無意味です。
 重要なのは、その無意味から人々が意味ある物語を紡ぎ出した、ということです。出来た物語から振り返ると、奇跡は意味の源泉であり、語らいを保証するものです。ですが、この意味は遡及的に発見されるものであって、奇跡自体は何の意味もありません。

 もちろん、奇跡などありません。不思議なことにも、種や仕掛けがあります。
 しかしそうした無意味なもの、単に因果の連鎖の中継点にすぎなかった現象に、意味の源泉が見出されることがあります。それが奇跡です。
 ですから、奇跡はありませんが、奇跡に出会うことはあります。

 『アイアム・レジェンド』は、人類の大半がウィルスに冒され、死ぬかゾンビのような化け物へと変貌してしまった世界で、治療薬を求め一人生き続ける男の映画です。
 男がやっと巡り合った生き残りの女は、「生存者の村」の伝説を語り、彼を誘います。しかし研究者である彼は、そんな村の存在を信じません。
 物語の終盤、とうとうワクチンを発見しながら、男と女は、怪物に追い詰められてしまいます。その時男は、女の二の腕に蝶の刺青を見つけ、突然確信を得ます。そして「生存者の村」にワクチンを届けるよう女に託し、自らは怪物と共に死を選びます。
 蝶とは何でしょうか。
 それは、男が幼い娘を最後に見た時、去り際に少女が示した手の形です。「パパ、ほらチョウチョ」と少女は手で蝶の形を作り、ヘリコプターで去っていき、二度と会うことはなかったのです。
 少女の「蝶」と、生き残りの女の刺青は、何の関係もありません。
 百歩譲って両者に関係があるとしても、それと「生存者の村」の実在はまったく別の問題です。
 ですが、男は確信してしまったのです。
 冷静に考えればただの偶然に過ぎないものを、「考える時」が流れる前に、「決断の時」を踏み出してしまったのです。
 これが発見された奇跡です。

 ですから、奇跡は鏡に映りません。
 鏡とは< 他者>、個々の他者の集合自体としての< 全体性>です。それはメッセージを逆転して返す「言葉の鏡」であり、人間たちが位置付けられる星座です。
 鏡には「像」が映ります。奇跡がそこに表れないのは、それが「像」を結ばない「不可能なもの」、モノ自体だからです。
 言葉の世界に住むヒトが、モノ自体に直接触れることは「不可能」です。奇跡とは「不可能なもの」です。だから「奇跡はあるか」と問われれば、どこまでも「奇跡などない」と答えざるを得ないのですが、それでも人は(致命的なことに)奇跡に出会ってしまうことがあります。
 その奇跡は、「像」を結ばない、つまり言葉の世界に場所を持たないものですから、「示す」ことができません。一度示して、もう一度戻ってみると、そこに奇跡はないのです。奇跡とは「再現性」のないものです。
 奇跡を発見したら、それはあなたの奇跡です。
 道しるべが唯一示すことができず、道しるべ自身がそこに立たなければならない場所です。
 門は自らくぐるしかありません。「生存者の村」にたどり着いたのが、結局女自身であるように。蝶を示した娘の元に、男が帰ったように。豚の群れに魔法をかけられた部下の姿を見出したオデュッセウスのように3

 意味の連鎖の始まりにある無意味、それは「わたしの本当の名前」です。奇跡は、読めないはずの背中の文字が、発見されてしまうことです。「何だこの奇妙なものは、これはわたしだ!」4
 あなたの奇跡は、「あなた専用の」奇跡でありると同時に、「あなたという」奇跡でもあります。
 それは、宙吊りのまま生き続けるホメオスタシスの揺りかごを一瞬、あるいは永遠に切断してしまう致命的な出会いではありますが、気づいた時にはもう決断してしまっているのです。

4006021283 自由の牢獄 (岩波現代文庫)ミヒャエル・エンデ 岩波書店 2007-09-14
  1.  こうした宗教の「二重性」はとても重要で、一般に多数派となった宗教は常に「ホンネとタテマエ」の構造を成し、「言行一致」させようとするファンダメンタルな態度や神秘主義を弾圧します。しかし、これは単に宗教的権威の実体が世俗的だからではなく、信仰そのものの本性に根ざしたものです。わたしたちが日常で「現実」と呼ぶような現実性、つまりイマジネールなものを宗教は否定しようとしますが、それが完全に無になってしまっては、信仰そのものが成り立たない。疑義の可能性を理屈上残し、これに抗いながら続く運動が宗教なのです。 []
  2.  「好きかどうか一番知っているのは自分」というタテマエになっているにも関わらず! これについては「騙される練習」などにも書いています。 []
  3. 「オデュッセウスは豚の声を誤解したのか、魔法にかけられたのは誰だったのか、魔法は誰がかけたのか」 []
  4. 「「わたしのことどう思う?」という問いは何を隠すのか」 []

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