識字化と脱宗教化、頸の血管より近き者


 『文明の接近』のエントリで触れた、識字化の進んだ社会が脱宗教化される、というトッドの指摘について、もう少し考えてみます1
 お断りしておきますが、トッドは識字化が脱宗教化をもたらし、その結果出生調整がなされる、と言っているのではありません。脱宗教化は近代化の一側面にすぎませんし、出生調整に影響はしますが、それだけで出生調整が行われるわけではありません。
 また、脱宗教化は「無宗教」や「無神論」を意味しません。脱キリスト教化されたキリスト教圏や脱仏教された仏教圏は可能ですし、現に存在します。
 ここでの脱宗教化とは、「個々人に付きまとって寝台の中にまで忍び込んでいた、自分とは別の者がすべてを律する他律の世界の崩壊」です。「現在静かに進行している」とトッドが考えるイスラーム圏の脱イスラーム化と、ラマダーンやザカートといった宗教的行為が盛んに行われている事実が「矛盾しない」と指摘されているように、識字化による脱宗教化を経験しても、社会から「宗教的」行為が消えることはないでしょう。

 次いで、前のエントリで触れた「識字化が啓蒙的効果をもたらし、その結果脱宗教化が進行する」という素朴な見方ですが、これも一定の範囲では妥当と思われます。別段「無神論」を掲げる著作を読んで影響される、ということではなく、アクセスできる情報の幅が広がれば、必然的に自らの環境に対する見方が相対化され、宗教に限らず環境に根ざした文化的風習全般について、「一歩離れた」考え方を持つようになるのは当然でしょう。
 しかしこれだけでは、逆に「字が読める」「字が読めて当たり前の社会に生まれた」が故のバイアスに囚われすぎています。宗教色が薄く、「無宗教」自認者が極めて多い日本からの見方であれば、なおさらでしょう。
 ここでの「思い込み」とは、何でしょうか。文字が運んでくる情報の「内容」が、人に何らかの影響を与える、という視点です。
 それ以前に、とにかく文字が情報を伝達してくる、という段階があります。つまり、情報の内容ではなく、情報の伝達自体のインパクトです。

 識字化以前の社会とは、「クチコミ」が圧倒的な力を持っている世界であり、情報は原則として人の顔を持ち人の口を介してやってくる世界です。
 「他人の記憶を思い出すこと、「覚え書き」を覚えていたのは誰なのか」でも触れましたが、情報とは「死者からの手紙」です。実際上の「作者」の生死を言っているのではなく、言語が< 他者>そのものである、< わたし>たちがその語らいの海の中に産み落とされる何千年にも渡る今は亡き者の声の集合である、ということです。
 ですから、情報は常に「死んで」いるもののはずなのですが(変わらない情報こそ優れた情報である)、クチコミの世界ではそれが顔を持ち、生者に憑依しています。クチコミの情報は変化する、つまり「生きて」いる傾向が強いです。つまり、死者の生者からの分離が明瞭ではない、ということです。
 だからこそ明確に死を刻印されているもの、不変にして透明な絶対的第三者が求められます。言わばクチコミという雲の向うにある「純粋なる情報源」です。この「情報源」は、発生論的には後から想定されたかもしれませんが、権利上は「始原」になくてはならないものです。それは「情報そのもの」という手の届かない領域を保証し、死者がうっかり生き返られないよう、確実に「死なせる」審級です。
 「向う」であると同時に、それはとてもわたしたちに近い。クチコミ世界ではわたしたち自身も死者に憑依される「媒体」なわけですから、絶対なる第三者とは「わたしの口を借りる者」でもあるからです。クルアーンの中に「われは汝の頸の血管より近い」という文句がありますが2、絶対的第三者は彼岸にあると同時に身体的な「近さ」を備えたものです。

 一方、「書かれたもの」もまた「死者からの手紙」ですが、生者に憑依する必要がないものです。憑依しないでやってくるにも関わらず、書を読むというのは、「死者の声が< わたし>の内に響く」という体験です。正に「頸の血管より近い」です。神と読書はとても似ています。似ているからこそ、代替される可能性があるのです。
 クチコミと違い、書は一旦閉じてまた開いても、同じ言葉を< わたし>の中に発生させることができます。憑依が用いられなかった時点で、情報の「十分な死」が担保されているのです。これはつまり、< わたし>が神様の目を盗むことができるようになる、ということです。
 < わたし>が死者たちの語らいから十分に分離され、神の目すら盗もうと思えば盗める、「書かれたもの」を読む経験には、そうしたことを可能にさせる力があります。耳を閉ざすことができない一方、目は閉ざすことができ、しかも再び開いてもまだ同じ世界が続いているように。
 ただし、書が< わたし>たちを神から「解放」したというより、書においてようやくわたしたちの考える< わたし>が目覚めた、と理解すべきでしょう。「なんだここは、わたしは奇妙な場所に紛れ込んでしまった」。< わたし>とは、神の目を盗んだ時に初めて生まれたものです。
 トッドは識字化と同時に自殺率が向上することを指摘していますが、これについても、現代的な視点から「宗教による道徳的拘束が緩んだ」と考えるより、自-死を選ぶ主体自体が識字化により分離・強化された、と解したいです。

 念のためですが、以上は発生論的・歴史的「事実」を推定するものではありません。「書かれたもの」と宗教とのよりエロティックな関係を明瞭にするために、模式的でラディカルな見方を示したまでです。現代的な< 主体>が、字の読めない人間にはない、などということはあり得ないでしょう。ただ、その形態は等しくはなかったはずです。
 そして、上のような識字的主体個々より重視されるべきは、社会が識字化される、つまり「読まれる」主体がまた「読む」識字的主体でもある、そうしたものとして世界が期待される、ということです。現代的な識字化以前でも、字が読める人は存在しました。ただ、「字が読める」ことが当然のこととして期待されていなかったのです。
 そうした社会では、「字が読める」こと自体が特権として機能します。リテラシー的な意味でのアドバンテージも勿論あったでしょうが、(憑依を用いない)「純粋なる情報源」という視点で言えば、限られた人々だけが「絶対的死者の集合」にアクセスできた、ということです。これは「聖別化されたもの」の分離による聖的権威の世俗権力化を想起させます。「わたしたちには神の言葉が届くが、お前たちにはわからない」というわけです3
 正確には、神の声が届くのは、常に「< わたし>たち」です。「お前たち」の方は、十分に< わたし>ではないのです。ここで、< わたし>は押入れから性行為を覗き見る主体のように、安全な場所に隠れていられます4。気をつけなければならないのは、修道院の中の目だけです。
 少し話がズレますが、これは「見られることは見ることに先立つ」という「まなざしregard」の機能と相関します。聖別化されざるものとは、見られるだけで見ない者です。見ないにも関わらず、「どう見られるか」については先回りして装おうとします。視覚を持たない捕食生物であったとしても、捕食者の「目」が淘汰圧となり、擬態的進化を遂げるように。生まれたての子供が、視覚を持たず、ただ母の眼差しを受けるように5
 識字化が進行するということは、< わたし>が修道院の外にあふれ出し、皆が「彼もまた< わたし>ではないか」と読みあう世界が生まれることです。これは、フーコーのパノプティコンが近代的転換を遂げる瞬間を想起させます。監獄を一方的に監視する塔には、必ずしも監視者がいる必要はありません。「見られているかもしれない」という内面化があれば、監視は機能するのです。それでもまだ、塔はありました(聖別化の特権)。しかしいよいよ、塔が取り払われる時が来ます。明示的な権力はどこにもありません。「名もなく貧しい」無名の権力が全体を支配するのです。
 識字化された世界とは、人というものが「逃れようと思えば神の目を逃れることができる」者として想定される世界です。「純粋なる情報源」にアクセスできるということは、情報を得られるというより、むしろ得ないでいる、つまり「目を閉ざす」力を個々人が所有してしまうことです。
 こうした社会が「脱宗教化」されるのは当然のことでしょう。「聖別化されたもの」という世俗的なもの(!)が、憑依の媒介者として人々にパワーを発揮することができなくなってしまうのですから。
 もちろん、識字化されたらされたで、「純粋なる情報源」そのものの権威が大衆化されます。「書かれたもの」の歴史は書の信憑性の歴史でもありましたが、書もまた常にその向うに「純粋なる情報源」を期待されます。「他人の記憶を思い出すこと、「覚え書き」を覚えていたのは誰なのか」で書いたように、いかに文字を連ねても、最終保証者との間には必ず論理的時間差があります。ですから、人には常に神に向かう契機が残っています。
 十分に識字化された世界で、カルトが興るのは、これと並行的です。かつて特権的な場に温存されていた「聖別化されたもの」が手垢にまみれてしまえば、神を求める者は神秘主義や身体性に訴えるより他になくなってしまいます。「信頼できるのは神に与えられた身体と直截性だけ」というわけです。識字化以前でも、神秘主義とは知性化された宗教や哲学の向かう先でした。

 最後に、まったく個人的な関心について付言しておきます。
 徹底的に識字化され、十分に知性化され、文字と情報が地に墜ち、それでもなお信仰に向かおうとする者、つまりわたし自身のような者についてです。
 こうした人々が、しばしば身体性やラディカルな性向に吸い寄せられてしまう所以は、上でご理解頂けたかと思うのですが、そのラディカルさが憎悪の袋小路へと陥らないために、わたしたちはかつての体制的宗教に代わる新たな自制を備える必要があります。
 それを自-制と呼んでしまうことには逡巡します。わたしたちは誰も自-制などできないし、していないのですから。すっかり神から遠くなってしまった神の僕は、何を拠り所にして進めば良いのでしょうか。
 わたし個人は、いっそ身体性でも構わない、と考えています。わたしはタウヒードを信じる者です。純粋に抽象化された一なるものが、具象化されたのが「わたし=世界の開き」という具象性だと考えています。わたしたちは、具体的で有限のものの中に、無限の一を発見し実践しなければなりません。
 だからこそ、具体的な身体所作を伴う礼拝、食事の制限といった行為は、その個々の行い自体が到底「神の指定したもの」とは思えなかったとしても、十分にわたしたちを地上に繋ぎ止める効果があります。身体でできることは限られていて、痛みを伴い、やがて眠りがわたしたちを救ってくれるからです。
 哲学的学究により、知的信仰を維持する可能性を、もうわたしはほとんど信じていません。スイッチ一つで自らの力を増大させる、バイクやインターネットのような道具は、もう要らない。身体性に自らを縛りつけることによってこそ、神の僕はもう一度彼の者の声を「頸の血管」より近く聞くことができる、と信じています。
 もちろん、これはわたしという一つの具象において現れた一者の表現形にすぎず、神秘主義的アプローチを絶対化する気は毛頭ありませんが・・。

関連記事:
「音読と黙読、「内面」と読誦」
「『神々の沈黙』2 書かれたもの、交易、欺き」

  1. 念のためですが、わたしはトッドのシンパでも何でもありません。基本的にただの胡散臭いオッサンだと思っていますが、胡散臭いオッサンが大好きなので、絡みたいだけです。 []
  2. 正確にはここでの神様の一人称は複数、つまり「われら」なのですが、この複数は敬称としての複数で、神様が複数いるわけではない。 []
  3. 「聖別化されたもの」が地上に存在すると想定される限り、聖的なものは常に世俗的なものに変換される。「聖俗二元論こそ政治と宗教を癒着させる」参照。 []
  4. 「『オナニーマスター黒沢』と眼差し、ホルバイン『大使たち』」参照。 []
  5. 眼差しについては、以下参照。
    「『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』 ノイズと完全な視覚」
    「奇跡を見たならば、それはあなたの奇跡だ」
    「「わたしのことどう思う?」という問いは何を隠すのか」
    「岩明均『ヘウレーカ』 科学のディスクールと< 真理>の鏡」
    「アンドリュー・パーカー『眼の誕生』と対象aとしての眼差し」 []