「かわいい」と言われること


 「兎美味し 蚊の山」さんが「かわいい」と「うつくしい」で、須田英之の独り言:可愛いと称される事は良いことなのかというエントリを引いて、こんなことを書かれています。

「かわいい」って言葉は力関係が下であるものに対して、「保護したい」「大切にしたい」という欲求を発する言葉だと思われる。と言ってもその「力」っていうのは経済的なことや会社での地位だけでもない。表向き会社という場の中で最も正しいロジックはあるけど、それとは別に地位は下でも影響力を持つ人がいたり、そのロジックでの評価が「くだらん」と思っている人が結構いたりするのが世の中だと思う。

 これは上の須田さん(多分男性)が「女性に『かわいい』と言われるのを喜んでいいのか。もしかして馬鹿にされてるの?」といった発言をされていることに対するものです。
 まず、「かわいい」が力関係が下のものに対する言葉である、ということを「一男一女の母」であるusauraraさんがサラリと書いて始めていることに、ドキッとしました。
 こういう身も蓋もない切り方というのを、わたし個人はしばしばしてしまうのですが、「かわいい」使用率が圧倒的に高いはずの女性のほとんどは、大抵こういう言説化をしません。そして「かわいいって弱いものに対する言葉だよね」等とふっても、どこか釈然としないような様子を見せ、それでも「よくわからない、そうかなぁ、言いすぎちゃう」といった反応しか得られないことがほとんどです。
 これは「『かわいい』が下に見る見方」であることがまったく間違っている、ということを示しているわけではなく、むしろ「かわいい」の「下に見る力」を最も効果的に発揮するには、それを意識化しない必要があるためであると思われます。丁度、「良きナショナリスト」がナショナリズムが近代のファンタジーであることを決して認めなかったり、一万円札を本当に紙として扱う人間が日本社会で生きていけないようなものです。

 しかし、「かわいい」は、「表のロジック」を脱臼させるワイルドカードとして用いられるだけではありません。


 「かわいい」は多くの女にとって、「言われて悪くない」言葉であると同時に、「言われてムカツク」言葉でもあります。この「ムカツキ」加減について、逆に少なからぬ男性がほとんど意識化していない(気づいていない)現象があり、これはこれで興味深いです。
 女性は一般に、「対象として評価されよ」という命令(「対象として評価されたい」と欲望せよ、という命令)を受け、そして実際、倫理的にも(!)「対象として評価されたい」と欲望するわけですが、同時に「対象になりきってしまったら、主体としてのわたしはどうなるの」という二律背反を背負っています。多くの女は思春期にこの葛藤を潜り抜け、ほどほどの対象っぷりと主体っぷりを使い分けることを学習するのですが、中にはこじらせて食べたり吐いたり手首切ったり、いつまでも引きずってしまう人もいます。
 もちろん、男性であっても同様の葛藤は想定できるわけですが、少なくとも現代日本の社会においては、相対的に女性の方が圧倒的に多くこの二律背反を味わうことになります。
 そして「かわいい」と評価される(評価されてしまう)ことは、愛でる対象へと堕すことであり、そうした「人類学的余波」を括弧に入れて参画しているはずの「表のロジック」(会社等)でこの評価を得ることは、「ナメられている」と同義になってしまう恐れがあります。
 一方で、言わば「ナメられたい」という欲望もあるわけで、例えば恋愛という場に「ナメられ」欲を押し込め切り分ける、という対処法などがあるわけですが、これもそう簡単ではなく、「ナメられ」切らない程度に「ナメられ」るには、「自分をナメない人にだけはナメられたい」という逆説的目標を達成する必要が生じたりもします。
 また、「表のロジック」の中で適度に「ナメられ」ておくことから生じる戦略的有利も当然あるわけで、十分な「ナメられ」リソースを携えた女子なら、ほどほどにこれを活用してサバイバルすることもあります(しかし一部の男性が思っているほど、この戦略的有利は「オイシイ」ものでもなく、誰にでも使えるわけではない。こうした男性は、強力なフィルターで「使えない」女子を視界に入れておらず、しかもそのことに自分で気づいていない)。

 こうした極めてヤヤコシイ状況の、結節点のような位置に「かわいい」という言葉はあります。
 「表のロジック」で上位にある者を「かわいい」と評することで肯定的に復讐してみたり、互いを「かわいい」と評することで「抜け駆けを許さない」村落社会を維持したり、「平和的最終兵器」のような多義性が「かわいい」にはあります。

 と、それこそ俯瞰するような傲慢な切り分け方をしてみたわけですが、そういうわたし自身は「かわいい」のパワーをうまく使えていませんし、依然振り回されっぱなしです。
 とりあえず、日常の仕事の場が著しく男職場で、かつ旧態依然とした体育会系空気に満ち満ちているだけに、「ナメられてたまるか」な防衛が病的に際立っています。言われもしないのに「切り込み隊長」をやりたがり、パワーを誇示したがるのは、小心の裏返しなのだと思います。

「かわいい」を否定するも肯定するも、本人が「どう生きたいか」によるだろう。「正しいロジック」だけで評価されたいなら、そういう態度をとれば次第にそのように扱われるようになると思う。が、多分それは精神的に今よりキツイんじゃないだろうか。

 はい、疲れますね(笑)。

私はそんなふうに、「かわいいと言われることも、悪くないなあ」と思えるようになったよ^^

 あぁ、わたしもその境地に達したいです。
 それがうまくできないのは、恋愛のことをボロクソに言いながら、どこか恋愛至上なファンタジーから人一倍脱却できていないからなのかなぁ、とも思います。「かわいい」を温存しておきたい、という見苦しい欲なのでしょうね。
 そうこうしているうちに、「かわいい」が似つかわしくない歳になってしまうわけです(笑)。

『精神分析の倫理 上』 ジャック・ラカン ジャック・アラン・ミレール 小出浩之 『精神分析の倫理』 ジャック・ラカン

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