人に感謝しない者は、神にも感謝しない


 先日のNHKテレビ アラビア語会話の最終回(と言っても半年サイクルでリピートしている)で、講師のアルモーメン・アブドゥッラーさんが仰った言葉が素敵でした。

 من لا يشكر الناس لا يشكر الله
 マン・ラー・ヤシュクル・ッンナース・ラー・ヤシュクル・ッラーハ

 「人に感謝しない者は、神にも感謝しない」といった意味です。
 一般的には素直に「感謝は大事よ」くらいで受け止めておくのでしょうが、個人的には格別感慨深かったです。
 言い換えれば「神に感謝するには、人に感謝しなさい」「神がいないなら、人にも感謝なんかできるか」ということです。いや、モーメンさんも他のアラブ人もそんなひねくれた意味で使っているわけではないでしょうが、わたしにはその方がしっくり来ます。


 正直、神様すら信じていないのに、人間を信じたり感謝したりする人の気持ちがよくわかりません。
 そういう人が日本に沢山いて、決して悪い人ではないことはよく知っていますが、いつも「口では神様を否定するけれど、本当は信じているんじゃないの」「そういう半端な信仰態度こそ、真の信仰者(わたしは狂信者)」などと勘ぐってしまいます。実際、何らかの形で絶対的第三者が介入する次元がなければ、人は人であることができません。

 何度も挙げている例ですが、キリスト教の結婚式で「病める時も健やかなる時も」という定番の台詞があります。クリスチャンでなくても、この言葉を誓って結婚された方もいらっしゃると思います。
 「病める時」と軽く言いますが、病んだら別人です。身近な人が危篤に陥ったり、重い精神疾患を煩った経験のある方なら、誰でもわかるでしょう。この間までヒトの形をして元気に喋っていた「あの人」が、モノのようなモノノケのような、ヒトならぬ領域に変貌してしまうことというのが、現実にあります。
 それでも同じように愛する、などというのは、人間の力でできるものではありません。もうその人は「あの人」ではないのですから。
 その人を「あの人」と「同じ」にしているのは、< 名>の次元です。細胞がすべて入れ替わり、変わり果てた姿になっても、< 名>の水準、象徴的領域でこそ、何かが一つであり得るのです。
 もちろん、これを保証する絶対的第三者、大文字の他者は、それ自体として存在するものではありません。大文字の他者は、想定されながら、欠如を抱えたもの(まだ余りあるもの)とならなければなりません。
 しかし、この頼りない< 信>の次元がなければ、これを介して横にいる人とつながることもできません。
 そもそも、人が人と「横」でありうるのは、これに対する絶対的な垂直軸があるからです。「山田」「青木」がバラバラにあるままでなく、「ヒト」というそれ自体では存在しない共通の何かとして通じ合うことができるとしたら、それは< 名>の次元、垂直軸があってこそです。

 日本でそれが「神」として語られることがほとんどないのは、よく知っています。大文字の他者を「みんな」「世間」と理解すれば、もう少し「日本的」でしょうか。
 神様のために人に感謝するのは、「本当の感謝」ではないでしょうか。「日本文化」的にはそう否定されそうです。
 しかし、そんな「本当の感謝」を求めて、形ばかりの感謝もできないよりは、第三項を介した形でも表現できる感謝の方が尊い、とわたしは考えています。
 何せ神様ですから、「動機が不純」とは言わせませんが、仮にこれが「お金のため」だったとしても、しない「本当の感謝」より実行される「形だけの感謝」です。形を軽んじる人は、必ず中身も軽んじます。グダグダ言い訳して、中途半端なりのことすらできない人なのです。

 日本的文脈で言えば「見栄を張る」感じでしょうか。見栄すら張れない、カッコもつけられない人間は三流以下です(断言)。
 はじめから中身の充実している人など、そういません。無理してカッコつけて背伸びをしているうちに、少しずつ中身もついてくるのです。経歴詐称して大口叩いて入社して、面子を保ちたい一心で陰で死ぬほど勉強するようなものです。結果、最終的には実力もつくのですから、帳尻も揃って結構じゃないですか。追いつけなければ、その時腹を切って死ねば良いのです。
 自己紹介で、自分のネガティヴな要素を平気で口にする人間が大嫌いです。
 一ミリたりとも、そんな要素を出してはなりません。三割増しくらいで大きく見せなさい。人間、必死になれば、自分で「限界」だと思っている三割プラスくらいは必ず力が出せます。もちろん、毎日そんな調子では身が持ちませんが、ここぞというところでカッコつけられないのは侠道に悖ると知りなさい。
 欠点を素直に認めるのが「謙虚」だとでも思っているのでしょうか。そんなものは、出会って半年くらいしてからちょこっと出すようにすれば十分です。まずは虚勢を張って、自分を追い詰めることから出発するのです。

 ものすごい話がズレましたが、見栄っ張りの人間嫌いなので、神様のために感謝します。
 主がわたしたちを、感謝することができるものとして作った以上、それは感謝せよという命令なのでしょう。
 感謝します。

追記:
 「よほど困らないと神に願い事なんてしないよ」というコメントがあり、結構衝撃を受けました。
 でも、よく考えてみると、主なるものに対しそうした捉え方する人々は沢山いて、要するにそれが「健全なる大衆的(不)信仰」を形成しているのかも、と考えさせられました。

 一応申し上げておけば、神様はお願いするものではありません。
 困ったときに助けてくれるかもしれませんが、それこそInsha’Allah、主が望まれるなら、というだけなので、アテにしてはいけません。そんなものを見越して工数弾かれたりしたらたまりません。
 困った時は、原則自分で何とかしましょう。それがダメそうな時は、とりあえずググってみたり、ハローワークとか家庭裁判所に行くのが良いと思います。
 主は命じ、罰するものです。正確には、命令の残響、それがわたしです。

追記2:
 「むこうの感覚では神様って至近距離にいるんだよ」というコメントを下さった方がいますが、とても鋭い着眼点だと思います。クルアーンにも、アッラーは「汝の頸の血管より近い」という表現があります。
 「すごく遠いものが同時に近くにある」というのは重要で、「黙読するときの内言」を想起するとわかりやすいのではないかと思います。わたしでありながらわたしでない、「死せる筆者の声」が響く感じです。この辺については、「『神々の沈黙』2 書かれたもの、交易、欺き」を参照してみてください(『神々の沈黙』の内容自体はどうかと思いますけれど)。

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