デブと移民


 昨日、数少ない友人の一人(というか義兄弟)と電話していた時のこと。
 彼女はまだ学生で、しかもド田舎に住んでいてほとんど電車に乗らないで済む素晴らしいご身分なのですが、こんな話題になりました。

「あのね、わたしこないだ電車に乗っていて思ったんですけど」
「ん?」
「カッターシャツ着てお腹の突き出た太った人とかいるじゃないですか。ああいう人って、どうしてあれで電車に乗れるんでしょうね。わたしやったら、引きこもるか何かすると思うんですけれどね」

 素晴らしい! さすが我が同胞!
 わたしが毎日毎日毎日毎日ハラワタ煮えくり返るような思いでいることを言ってくれました!
 わたしが絶賛し、「とりあえず30kg痩せるまでは選挙権剥奪すべきやね」と言うと、


「電車の代金も体重で決めて欲しいですよね」。

 とういか、手荷物扱いでしょう。住民税も重量税にして頂きたい。
 彼女は「あれで電車に乗れるって、すごい勇気やなぁと思う」とのことでしたが、それは会社の斜め向かいの席に豚が座っていて、ほぼ丸一日視界の片隅に映る、という拷問を受けていないから言える台詞でしょう。

 なぜ世界にはデブが存在するのか?
 答えは明白です。滅ぼすべきものの印としてです
 強いものは美しく、美しいものは正しい。醜悪なものを主が作り給うたのは「これを溶かして石鹸にしなさい」という命令なのです。
 まぁ、あれで石鹸を作っても誰も買ってくれないでしょうから、来るべきファシスタ革命においてはもう少しマーケティングに気を配らないといけませんが。

 デブ問題に関しては、以前に「移民」としてネタにしようとして放置したままでした。
 「移民」というのは、日本国ではなく東京圏への「労働移民」です。
 日本全体はともかく、東京には明らかに人が多すぎます。労働移民の流入に制限をかけなければなりません。
 その際、都市への貢献力が測られるのは当然ですが、基準は単位質量あたりの能力とすべきです。
 これは人間を肉へ解体してしまう提案であり、人権・社会権といった立場からすれば極限的に危険な思想です。リベラルなら「ファシズム」として糾弾するでしょうが、当のファシストが言っているのだから別に不思議ではありません。

 そもそもサイボーグ・ファシズムは正にそのような「人間解体」を目論むものです。それは個人という「分割されざるもの(in-dividual)」を肉片に変える営みです。社会-個人という対置軸自体が形成しているファンタジーを寸断してしまうことです。
 大体、東京の勤労者なら誰でも知っていますが、通勤電車で行われているのは、人の移動というよりむしろ肉の運搬に近い作業です。別段「人間解体」などと声高に叫ばなくても、既に首都圏では個人すら切り刻まれています。
 このような環境への適合性を測るなら、いっそ最初から物質として扱ってしまえば良いのです。
 求められているのは有能で我慢強い肉なのですから、人間などと生ぬるい絵空事を言わないで頂きたい。
 単位質量あたりの生産性のみならず、体臭・基礎体温・二酸化炭素排出量などを規準にふるいにかけたら結構でしょう。デブは田舎に帰ってください。

 田舎ではデブが放牧されるのどかな風景が広がり、一方で上京を目指す若者がボクサー並の減量に取り組む。
 これこそストイシズムを極めた美しい日本、来るべき戦闘者ファッショ国家です。

追記:
 わたしは豚が視界に映るたびに非常に辛い気持ちになりますが、それは醜悪なものが不愉快であるというより、「豚を粛清せよ」という命令に自らの至らなさから背き続けている罪悪感によるところが大です。

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