『イエスはなぜわがままなのか』岡野昌雄 信仰と一目惚れ


404867188X イエスはなぜわがままなのか (アスキー新書 67)
岡野 昌雄
アスキー・メディアワークス 2008-06

 岡野昌雄さんの『イエスはなぜわがままなのか』。タイトルがあまりに「今時の新書」風で敬遠していたのですが、手にとって見ると素晴らしい一冊でした。わたしが信仰について考えていること、今まで果てしなくわかりにくく書き散らしてきたようなことを、極めて平易に説いて下さっています。
 ご紹介したいポイントは沢山あるのですが、思いつくままにいくつか挙げてみます。

私も含め、クリスチャンの多くは、すべてに納得しているからキリスト教を信仰しているのではありません。
(・・・)
「納得できる」ということは、「理解できる」ということです。「すべて理解できるもの」を信じるというのであれば、それはそもそも信仰ではない、と私は思っています。

 諸「聖典」や諸「宗教」があり、その中で自分にフィットするものを選ぶ、あるいは「得する」ものを選ぶ、信仰というのはそうしたものではまったくありません。そして「すべてに納得しているから信仰しているのではない」「信仰は始まりにすぎない」というのも非常に共感できます。
 信仰というのは一般にプライベートな話題でしょうし、わたしが直接神様について気兼ねなく喋る相手も一人くらいしか思いつかないのですが、一般的な「無宗教」な日本人に宗教の話をして一番ひっかかりそうなのは、この辺りです。
 では、納得もしていないのになぜ信仰するのか?
 別の箇所で、岡野先生はこう仰っています。

信仰を持つとういことは、極端な言い方をすれば、「一目惚れ」のようなものです。

 「なぜ好きになったのか」と聞かれれば、優しいから、とか声がステキだから、とかそれなりに理由を挙げられるでしょうが、それらすべてを同時に兼ね備える人であれば好きになるのかと言えば、そんなことはないでしょう。むしろ「好きの理由」など後付けであって、何だか良くわからないけれど惚れてしまったのです。惚れた後では「どうしてこんな人のことが好きなんだろう」というところもポロポロ見つかるのですが、では別れるかというと、やっぱり好きなのです。
 「宗教の気持ち悪さ、家族の気持ち悪さ、ザラザラしたものの発見」で信仰と家族の「もういるし、ウザい時も多いけれど追い出すわけにもいかないし」な感じを重ねてみたのですが、「一目惚れ」と言った方がわかりやすいし、ちょっとステキです。
 信仰は一般に、一度入信したら一生もの、という性質が強いかと思いますが、やめてやめられないというわけでもないし、恋愛や結婚だって別れる時は一悶着あるのが普通です。その辺の縛りの強度や距離感が、とても似ています。
 信仰は「ご利益」を求めるものではありません。それではお金目当てで結婚するようなものですが、幸か不幸か資産と違ってご利益は大抵本当にありませんから(笑)、恋愛よりもっと純粋に神様を愛する(愛=憎)ことができます。
 最初はただの一目惚れだったかもしれないし、もしかすると親が決めた結婚だったかもしれませんが、それは始まりであって、結論ではありません。その営みの中で、神に問いかけ、関係を築き変化していく、というのが信仰なのだと思います。
 信仰と狂信を「神経症/精神病」のフレームと何度か重ね合わせましたが1、「正常な神経症者」が狂信者から分かたれるのは、答えのないところに問いを立てているからです。そこに「正常に」欠けているのは、確信です。確信があるとき、つまり答えだけが突然に現れる時、わたしたちは致命的な一歩を踏み出すことになります。

 聖書を読むと、イエスが色々な奇跡を起こしています。「反宗教」な方の中には、「それ見たことか」と揚げ足を取る方もいらっしゃいますが、一方でキリスト者の多くも聖書の奇跡を文字通りに取っているわけではありません2
 では、奇跡についての記述が無意味なのかというと、そうではありません。

新約聖書はいわば「証言集」のようなものです。(・・・)つまり何人もの著者が、自分が出会った神(イエス)がどのようなものであるかを、なんとか他の人々に伝えようとしたものなのです。

 岡野先生は、「とても大きな犬にあって『熊を見た』という人がいたら、その『証言』は無意味だろうか」と問うています。それは犬なのですから、事実として熊ではないのですが、「熊がいたよ!」という驚きの表現から、わたしたちは多くの意味を受け取ることができます。岡野先生は「事実ではなく真実」という言い方をされています。
 補足させて頂くなら、そこで受け取る意味とは、証言者の「意図」とも異なる、ということです。「熊がいたよ!」という人は、本当に文字通り「熊がいた」と信じて欲しかったのかもしれません。そして「意味」はもちろん、「事実」とも異なります。「熊ではなく犬」ということを受け取るだけなら、奇跡の記述は無意味です。
 「奇跡を見たならば、それはあなたの奇跡だ」でこう書きました。

 もちろん、奇跡などありません。不思議なことにも、種や仕掛けがあります。
 しかしそうした無意味なもの、単に因果の連鎖の中継点にすぎなかった現象に、意味の源泉が見出されることがあります。それが奇跡です。
 ですから、奇跡はありませんが、奇跡に出会うことはあります。

 奇跡は常にありません。そして「あなた専用の奇跡」を語ったところで、奇跡とは再現しないものです。それでも人には沈黙を守れないことがあります。
 奇跡の証言に接するということは、そこから「事実」でも「証言者の意図」でもなく、言わば証言者に証言させたものの意志、絶対に測り知れないものに対して、敢えて問いを立てることです。

 ですから、信仰において「こうすれば正」という絶対の基準などありません。「それらしく」見えるものがあっても、それが本当に神の意志に沿うものなのか、確証することができないからです。

私たちは、何が善で何が悪かを自分たちの頭で考えて定義づけようとします。そしてキリスト教に限らず宗教においては、善行をなすことで神によしとされ、天国に行ける、などという言い方をしたりします。しかし当然のことながら、何が神の意志に沿う行いなのかということは、人間にはわからないことです。善悪は人間が使う判断基準であり、神には善も悪もありません
(・・・)
人間にはけっして神の意志がわからない、だからこそ、人間はただ何が神の意志なのか、何が神に喜ばれることなのかということを探りつつ、半信半疑ながらもある道を「信じて」進んでいくしかないのです。
(下線引用者)

 岡野先生は「聖書は道徳の教科書ではない」と繰り返されていますが、信仰とは答えを与えるものではありません。もちろん、まったくの白紙なわけではないですし、「これはダメ」「あれは良し」という枠組みは大抵あるものですが、そうした「正しさ」の価値も、日々の営みの中で問いかけ親しみを深めていかなければ、意味がないようにわたしには感じられます。
 聖典や信仰共同体の示す断片的な「正しさ」を、仮に実行できないとしたら、それはそれで一つの問いかけの契機になります。白紙ではないこと、具体的だけれど神の意志にしては余りに卑近な「正しさ」として示されていること、そこには神との距離感を得るきっかけとしての働きがあるように思います。鬱陶しく感じられても、わたしたちは大抵、自分で思っているよりもずっと「正しくしたい」もので、自分で思っているよりも小さな「正しさ」しか理解できないものでしょう。

 一点、個人的に鼻についたのは、イエス(イーサー)を預言者ではなく神とする三位一体の考え方ですが、そうしたことも信仰の基本的な姿勢の前では些事にすぎない気がしますし(と言ったら怒られるかもしれませんが)、そんな気にしかたをする読者は極めて少数でしょう。
 気持ちの安らいだ一冊でした。

関連記事:
「『一神教の誕生―ユダヤ教からキリスト教へ』 加藤隆」
「現実界のかけら、アブラハムの羊、鏡に映らなかった物質」

  1.  以下参照。
    「他人の記憶を思い出すこと、「覚え書き」を覚えていたのは誰なのか」
    「神様に恋しているから、瞬きしても世界が終わらない 」
    「意味の意味」
    「『乞食とイスラーム』 ストリートと貴種流離談」 []
  2.  ブッシュさんが仲良しの宗教右派やいわゆる根本主義系の人たちには、文字通りに信じている人もいます。「『アメリカン・コミュニティ―国家と個人が交差する場所』 渡辺靖」「『アメリカの原理主義』河野博子」参照。 []