食のエロティシズム、酸っぱい葡萄とポジティヴ摂食障害


 sho_taさんが「一緒に食事」のエロさと強さで、「食事を共にすること」のエロティシズムについて書かれています。
 そこでは、一緒に食事することの機能が、内田樹『村上春樹にご用心』を援用しつつ、おおよそ以下のように整理されています。

①本来分割できないものを分け合う「儀礼的な意味」。
 「ビールを注ぎ合う」「神前結婚での御神酒」「ヤクザの兄弟杯」「タバコの回し喫み」「同じ釜の飯」など。

②同じものを血肉にする「生理的な意味」。
 物理的に食生活を同じくすることで、体質等の生理的性質が近似してくる、ということ。

③食の作法を同期させる「身体技法的な意味」。
 同じ作法(箸かナイフ・フォークか)、リズム、マナー等で食べることにより、コレオグラフィを同期させる、ということ。

 ここで合気だの言い出す内田樹の論調にはゲッソリしてしまうのですが、食がこうしたエロティックな働きを負っていることは、少なくともわたしにとっては明々白々としていて、sho_taさんが驚いていたことにちょっと驚きました1。どこをどう考えても、セックスに準ずる行為です。
 ただ、そうしたことを意識化していることが「良い」ことなのかどうかは、別問題です。わたしの食に対する考え方や生理行動は壊れまくっていますし、一方sho_taさんは早食いではありますが(一緒に食事をしたことがないので見たことはない)、大変オトナな好人物です。
 精神分析について、症状の「意味」を知ることにより解消を図る、といった古典的誤解があります。精神分析そのものが過去の遺物のように捉えられている現代では、逆にそうした誤解を信じている人ももういないように思われますが、「意味」など知ったところで病気が治るわけがないのは、わたしの存在が証明しています(笑)。

 話が飛ぶようですが、イソップの「酸っぱい葡萄」について面白い話があります。高いところにある葡萄を食べられなかった狐が「どうせ酸っぱい葡萄だ」と言う、あの寓話です。
 日本では「負け惜しみ」と捉えるのが一般的で、狐の態度はネガティヴなものだと解釈されるでしょう。わたしもそう思っていました。
 ところがフランスでは、狐の態度はむしろポジティヴなものだと考えられているらしいのです。狐の態度は合理化による防衛の典型ですが、「どうせダメなら、気持ちを切り替えて前向きに考える」と解釈されるらしいです。
 小耳に挟んだ話なので、ことの真偽は定かではないのですが、食のエロティックな意味と、「知」と症候の関係を考えるとき、良いヒントになってくれる要素があります。


 「症状」の具体的話は面白くないので詳述しませんが、わたしはかなり会食恐怖ぎみで、自分で作ったものを自分で食べる以外は、ほとんどものを食べません。平日に昼食をとらないのは、昼休みの時間を有効利用したい、「みんなでランチ」的カルチャーが鬱陶しい、というのも大ですが。
 また、肉はまったく食べませんし、生命の危機を感じて既に挫折したものも含めると、今まで幾多の「食の戒律」を自らに課してきました。
 これらのすべてが「症状」なわけではないですし、肉は純粋に嫌いで、公言して憚りません。付き合いの席では、一応「他人が食べているのは全然オッケーですから」とか言っていますが、本当は肉の話題が出ているだけでもキレそうです。時々、動物愛護的ベジタリアンだと勘違いされることがありますが、穢れた豚の死体など口に入れてたまるか、という狂信的情熱に駆られてのことです。

 会食恐怖は、典型的に「食のエロティックな機能」を経由したもので、「お前なんかと一緒に食べられるか(アンタなんかとセックスできるか)」ということでしょう。実際、特別に気を許している義姉妹や友人となら、ある程度ご飯も食べられます。
 愛と食の関係は、「一緒に食べる相手」だけでなく、「食べるもの」にももちろん成り立ちます。
 わたしは「豚が穢れているから食べないのだ」と言ってしまいますが2、逆に言えば動物大好きだからこそ、皆さん肉を食べられるのです。
 当然、「そんなわけあるか、愛犬を食べる人などいないではないか」と反論されるでしょう。しかし、人が愛犬を食べないのは、愛しているからではなく、愛を制限する別の力動によるものです。ホモソーシャルな枠組みがホモセクシュアリティを禁止しているのと、同じ構造です。「本来の目的」が達成されてしまったら、宙吊りによる欲望が解消されてしまいかねませんし、対象を「外だし」することで成り立っている経済から流動性が失われてしまいます。
 正確には、「達成」したところで欲望は解消されません。欲望は欲求の余白に向かって投げられるもの、要求において欲求に還元でいないものであり、明らかになるのは「そこには何もない」ということです。愛のリミッターを外してしまうと、太陽を直視し死に至るか、新しい「狂気」を再構築する、という大変骨の折れる仕事を背負い込むことになります。
 愛犬や恋人を食べないのは、その愛が個物=名にバインドされているからです。食べても食べても「向こう」があるなら、可愛いベイブだってトンカツにできます。
 そして一番エロティックなのはもちろん、「取り返しのつかない」愛犬や恋人を食べてしまうことです。

 つまらない話に脱線しましたが、わたしは「お前なんかと食べられるか」と思っているから食べない、と「自覚」しています。この「自覚」には明白に防衛的側面がある、つまり、「自覚」できるような理由はカモフラージュであって、「真の意味」は別にあるのだ、と言えますが、少なくとも教科書的レベルでは「わかって」食べないわけです。
 この水準程度までは「自覚」できるのは、わたしが自らの内にある蔑視感情を全然恥じていないからでしょう。普通の人は「お前なんかと食べられるか」が非常識であると感じ、通念的な道徳意識の高い人であればあるほど、ますます症状をこじらせていきます。
 ですから、確かに「自覚」にはある程度の緩和作用があります。本当に激しい摂食障害を抱えている人は、とても蔑視感情など認められないでしょう。
 ですが、「自覚」によってわたしが会食を認めるようになったかというと、そうではありません。ついでに肉も食べません。
 その代わり、これを自らの欲望として引き受けることにしました。わたしは食べられないのではなく、食べたくないから食べません。
 本当に、かなり多くの地球人を蔑視しています。だって醜いから。むしろ醜悪な豚どもを粛清しないでいることに、倫理的罪責感を抱いています。
 こうしたところで、現象としての行動は少しも変わりませんし、それどころか社会的にますます外道になっただけです。でも、それで良いのです(断言)。こんなものはもちろん分析ではありませんが、それでも「分析的」一成果はあげています。わたしは狂信者になることで、「病気」を辞めました。

 こういう態度は普通「開き直り」と解され、ポジティヴに捉えられることはまずないでしょう。わたしもそう思います
 ですが、本当にこじれてしまっているなら、「酸っぱい葡萄」をポジティヴに引き受けてしまうのも一手なのではないでしょうか。
 「どうせ酸っぱい葡萄なんだ」と言ってしまうと、もちろん嫌われ者になります。社会不適応者決定です。外道を取るか、病人を取るか、です。
 わたしは外道です。ただ、道を外れた以上、徹底して外れなければ世の中に負けてしまいます。道のないところをブルドーザーで整地する勢いが必要です。外道を最果てで極道とするのです。
 道を極めるとは、必ずしもキッチリ道に沿って歩くことではありません。それはそれで容易ならざることで、皮肉ではなく敬意を抱きますが、荒地を踏破して「ここが道なんや」というのもまた極道です。
 外道な極道として言わせて頂ければ、こじらせちゃってズルズル「病人」に甘んじているような連中がまどろっこしくて仕方ありません。わたしたちに刻まれた倫理的命令とは「欲望せよ」というものです3。もう、防衛は結構。守っても守らなくても死にますから、心配することはありません。

 こじれた「病人」の方々が仰る通り、病気は社会が作り出したものです(非モテとかね)。しかし、問題は社会が「病人」を抑圧することではありません。「病人」を認めてしまうことこそ、問題です。病気は災いであっても悪ではない、などと中途な寛容さを見せるから、「病人」が生まれるのです。
 もちろん、「名もなく貧しい権力」たる大衆が「病人」に寛大なのは、アウトローであってもアウトサイダーではない「被抑圧者」を作っておいた方が好都合だからです。抑圧に抗議などしている連中は、ますます豚を肥えさせるだけです4。豚と病人で一連托生です。
 ファシストとしては、弱っちい病人など是非石鹸にしたいところです5

 というわけで、葡萄は断固酸っぱいです。葡萄が甘いなどという考えこそ、妄想です。
 大体、甘いと信じてぴょんぴょん跳ねている狐だって、ちっとも葡萄に届いていないではないですか。食べたこともない葡萄が、本当に甘いなどと言えるのですか。実は本当に甘かったとしても、夜中に梅エキス注入してでも酸っぱくしますが。

 ポジティヴに葡萄が酸っぱいと言い切るキチガイとなら、一緒にご飯を食べたいです。
 その時はわたしが主の御名の元に獣を屠り、肉料理を作って差し上げましょう。

追記:
 お気づきかもしれませんが、「葡萄は断固酸っぱい」開き直りは、「布教」的なエンクロージャーにつながる場合が非常に多いです。ただ「葡萄は酸っぱい」というだけでは本当に卑屈なだけですし、「これぞ道」と叫んでも「野原やん」と簡単にツッコまれてしまいます。ツッコミに負けないためには、狂気の如き強烈なボケでボケ抜けねばなりません。それほどまでに「正しさ」を信じる(信じているようにふるまう)なら、自論をわめき、「こうした方が貴方も幸せになるから」くらいの押し付けがましさが生じてきても不思議ではありません。
 個人的には愛が足りないので「布教」熱心ではないのですが、むしろこうした「布教」「押し付けがましさ」は、死狂いな愛の証として肯定的にみたいです。「相互不干渉」「共存」などと軽く言う人間に限って、「共存」のベースとなるルールは暗黙的に「押し付け」、そこから外れると即テロリスト呼ばわりしたりするのです。自らの手も汚さないお上品な「共存」より、不条理なまでに暴力的な愛です。
 まぁ、実際身近にいたら鬱陶しいことこの上ないでしょうが(笑)、それならそれでちゃんと喧嘩すれば良いことで、痛かったりダルかったりでウヤムヤになるなら、そここそ神様がつけてれくた落としどころというものです。
 布教については、以下参照。
「食と戒律、越境するファンタジー=愛」
「『斜めから見る』スラヴォイ・ジジェク」

『ヘタな人生論よりイソップ物語―こんなに奥が深い“大人の童話” (河出文庫 う 9-1)』 植西聰 『ヘタな人生論よりイソップ物語―こんなに奥が深い“大人の童話”』 植西聰

  1. ちなみにわたしは「超インテリ」ではないし、「セクシーお姉さん」とか認識して貰える方が100倍嬉しいです。哲学よりラカンよりスキンケアの方が一億倍重要です。仕事と比べると一兆倍くらいかな。 []
  2. 本音を言えば、一哺乳動物としての豚や猪を蔑視しているわけではないし、特に興味もない。 []
  3. 「やりたいこと、なすべきこと、できること」参照。 []
  4. 逆に言えば、「抑圧ビジネス」で病人や非モテやサヨクはそれなりに社会とうまくやっている、と言えます []
  5. ファシズムについては、以下ほか多数。
    「サイボーグ・ファシズム」
    「デブと移民」 []