『環境と文明の世界史』宗教ではない環境運動より環境運動ではない宗教


『環境と文明の世界史―人類史20万年の興亡を環境史から学ぶ (新書y)』 石弘之 湯浅赳男 安田喜憲 『環境と文明の世界史―人類史20万年の興亡を環境史から学ぶ』 石弘之 湯浅赳男 安田喜憲

 伝統的な歴史学は「人類の歴史は人類が作るもの」とし、気候変動などの外的要因を軽視する傾向がありました。マルクス主義史観が歴史学を大きく歪めてきたのです。環境問題への意識の高まりと、気候変動が当初の予想より短いスパンで起こるものらしい、ということがわかってきたお陰で、「環境史」という新しい歴史の見方が生まれてきました。本書はこの環境史を巡る、環境学、環境考古学、比較文明史の論客による鼎談です。
 人類の側からの環境への影響、という面については聞き飽きた面もあり、あまり興味が惹かれないのですが、逆に気候変動の側がかなり近年の歴史にも影響していたらしい、という視点は面白く読めました。
 もう一点、私的関心事として、宗教と環境の問題があります。

石:野生のチンパンジー社会を見ていて面白いのは、彼らは基本的に植食性ですが肉も好きなんですよ。しかし肉はめったに手に入らない。チンパンジーはときたま集団で狩りをして、別のサルやシカを殺して食うことがある。
穀物しか食べなかった人間が、ハレの日にだけ肉が食える。本質的には肉が好きなわけですが高価で手に入らない。あるいは肉を食いすぎると食糧生産を破壊するために普段は食べない。
(・・・)
石:イスラムがブタを諦めたのは、本当にブタの病気に理由があったからなのでしょうか?
湯浅:僕は、タブーがあるということは、かつては食べていたということだと思います。非常にリスクがかかったことがあったんじゃないでしょうか。乾燥地帯ですし、ブタと人間は食べるものが競合するでしょう? ところが、ヒツジやウシ、ウマなどは人間が食べられないものを食べる。(しかし、根まで植物を食べてしまい砂漠化を促進する、という問題がある)

安田:インドがなぜ肉食をやめたのかということは、いずれにしても二十一世紀の大きなテーマになる。いずれ人類はそんなに肉を食えない時代を迎えるはずです。インドの紀元前五世紀における肉食の放棄は、結局、放棄するしか活路がなかったということかもしれません。
石:肉食を放棄したために、あれだけの国土で十億の民を養える。人口密度は中国の二・三倍もあります。

湯浅:ジョルジュ・バタイユが、「人類の本質は過剰である。何事も過剰である。これをいかにコントロールするかによって安定をもたらした。たとえば・・」というかたちで、たとえば仏教を出してくるわけです。「あのチベット。獰猛なエネルギーをもったチベットの人民の心を安定させたのはラマ教である」と。具体的に言えば、妻帯禁止、家族からの離脱、出家です。そうでなければ「アステカのように人間が人間を食うことだ」ともいっている。(・・・)宗教学者の山折哲雄さん流にいえば「自分を食うのか、人を食うのか」です。
石:自分を食うとは、どういう意味ですか。
湯浅:断食です。もっといえば、セックス、家庭の放棄ですね。

 「肉食は環境負荷が高いのでやめましょう」と環境運動家が言ったところで、大衆が動くことはないでしょう。彼らがいかに理論的根拠を挙げ、「持続可能な社会」を示したところで、理性が理性を説得できる範囲というのは、極めて限られたものです。
 環境運動は時に教条主義的になり、「宗教」と批判されることがあります。もちろん、そういわれる運動家は、やっきになって「宗教ではない」と言い返すでしょう。
 しかし、人の心を変えるようなパワーを持つものがあるとしたら、宗教的なもの、それも「政教分離」などという近代の枠組みに可愛らしく収まっている宗教ではなく、すべてをその価値観の下に押さえ込むような強力な宗教的情熱でしょう。
 わたしは肉を食べませんが、それは健康のためでも、環境のためでもありません。狂信的情念ゆえに、穢れを身体に入れないのです。そこに理性的な要素は微塵もありません。
 環境運動家は「科学的」な環境保護を画策されていて、そうした研究を眺めるのは嫌いではないのですが(皮肉ではなく頑張って頂きたい)、人類の歴史を振り返ってみれば、結局人を変えたのは、物理的制約と根拠なき宗教的情熱です。ですから、「宗教ではない環境保護運動」より「環境保護運動ではない宗教」の方が、もしかすると環境保護的目標を達成できてしまうのではないか、と考えてしまします。
 もちろん、計算尽くで大衆を誘導するような「擬似宗教」を作ったところで、大衆は乗ってきてはくれないでしょう。人柱が必要です。本物の預言者が現れて、身を切って人を信じさせなければなりません。

 また、宗教が妻帯を制限することによって無用な人口爆発を抑制していた、という点について言えば、アメリカを除く先進国での少子化はこれに代わる働きをしている、とも見られます。わたしは子供の作れない身体なのですが、むしろそれを誇りにしています。主の婢として生きる、ということに、これまた狂信的情熱を傾けていますから。

 環境保護のためのテクノロジを眺めるのは面白いですが、「環境保護ではない宗教」の方がもっと目も眩むような魅力があります。もう、宗教で結構ではないですか。人の理性などたかが知れたものです。
 「人が多いから環境が破壊されるんだ」「じゃあお前が死ね」という2ちゃん的やり取りがありますが、それを言うならサイボーグたるわたしは既に「死んで」いますし、おまけに狂信者です。人柱になるほどの度量はありませんが、不条理なる宗教的テロルにより、豚を食う豚どもを殲滅する用意を静かに整えています。

 もう一つ、松本健一さんの『砂の文明・石の文明・泥の文明』にも通じる、面白い視点がありました。

安田:ムギというのは天水農業の下では個人の欲望を自由に解放できる農作物です。つまり、自分の土地を所有し、水に支配される度合いが少ないために、自分の好きなように土地を耕していけば、それだけ生産性は上がる。(・・・)一方稲作は、いつも水に支配されていますから、個人の欲望は解放しにくい。共同体に属さないことには農耕がしにくいという制約がありますね。(・・・)それからもう一つ重要なのは、天水農業はかなり粗放的ですから、奴隷でも初歩的な農業がやれる。(・・・)稲作は苗代をつくり、種籾をまき、田植えをし、草取りをし、刈り取るというように、かなり集約的で時期が限定された農耕ですから一所懸命やらないといけない。
湯浅:(・・・)麦作文明からは、労働の生産性を追求する経済学、稲作文明からは土地の生産性を追及する経済学が誕生したと思っています。

 『砂の文明・石の文明・泥の文明』については「webは「砂の文明」である」「文化と文明、サイボーグ・ファシズムと母の殺害」「『民族と国家』ナショナリティ・エスニシティ・パトリ」なども参照して頂けると嬉しいです。
 こうした見方は、ナショナリズムに容易に回収されてしまう危険を孕んでいるのですが、それもまた結構なのではないかと考えています。個人的には、ネイションを越える狂信的情熱とファッショ的統制社会を優先したいですが、大衆的「普通のナショナリズム」がそれなりに機能して結果を出しくれるなら、口だけのサヨクより百倍有意義です。
 ファシストはナショナリストを友としなければなりません。敵は大学サヨクと、お上品で「宗教的ではない」環境運動家です。