聖俗二元論こそ政治と宗教を癒着させる


4061498320 「イスラムvs.西欧」の近代 (講談社現代新書)
加藤 博
講談社 2006-03

 以前に『イスラム世界論―トリックスターとしての神』をご紹介した加藤博氏による近代エジプト思想史。
 「イスラムvs.西欧の近代」などという安っぽいタイトルを付けられてしまっていますが、実際の内容は日本で言えば幕末から明治に至る時期における、エジプト人思想家を取り上げたものです。ナポレオンの東方遠征時代の歴史家ジャバルティー、近代教育を受けた行政官僚アリー・ムバーラク、後のイスラーム復興にも多大な影響を与えた知の巨人ムハンマド・アブドゥが主題ですが、関連して何人かの思想家も紹介されています。日本と一緒で、「外圧としての近代」に出会った時代というのは、飛びぬけた人物が活躍するものです。
 特に興味深かったのは、アリー・ムバーラクが小説『アラム・アル=ディーン』の中で、主人公の口に語らせている「聖俗二元論こそ政治と宗教を癒着させる」という議論。
 『アラム・アル=ディーン』は、アラビア語では最初の対話形式の小説で、主人公はアズハル学院のシャイフ。イギリス人オリエンタリストの求めに応じ、長男と共にヨーロッパに渡ったアラム・アル=ディーンが、旅先で出会う人々と語り合う、という形式となっています。
 アラム・アル=ディーンは、「イエスは神の化身である」という信念をヨーロッパ人が主張するのは、ローマ教皇権と教会の力を維持したいからではないのか、と批判します。三位一体説とは、地上に「神の領域」が現れうる、という考え方です。イスラームにおいてもイエスは預言者の一人ですが、預言者はあくまで人間であって、神の子供でも何でもありません。それを神聖化するのは、「聖別化された領域」を認め、聖職者を特権化するためではないか、と言うのです。

 この世は聖の世界と俗の世界からなる。これを、宗教の世界と政治の世界と呼び替えてもよい。アラム・アル=ディーンの主張によれば、この聖俗二元論の世界観こそ、ヨーロッパにおいて政治と宗教が癒着する原因である。
 この世に俗の世界とは別に聖なる世界というものが存在すると考えるから、俗の世界にいる人間が聖なる世界に受け入れられるためには特別の仲介者が必要になり、必然的に仲介者たる強行が権力を持つようになる。
 これは、われわれの虚をつく指摘である。常識的には、聖俗二元論にたつヨーロッパこそ、宗教と政治の分離を実現し、世俗的な国民国家の政治システムを生み出したと考えられているからである。

 これはハッとさせられる主張です。
 一見すると聖俗の「棲み分け」によって相互不干渉が実現するかのようですが、どこない「聖別化された領域」が残る限り、常にそこには権威関係が生まれます。「聖なるもの」は、それ自体では世俗的パワーを持ちませんが、代替不可能な「聖性」を独占することにより、世俗権力を牽制したり、「聖なる力」と「俗なる力」を取引することができます。中世カトリック教会における贖宥状などが典型です。
 キリスト教学者の加藤隆氏も、『一神教の誕生―ユダヤ教からキリスト教へ』等で、「聖別化されたもの」が特権化さていく歴史を抉出されていますが1、イエスの教えが「キリスト教」とまとめられていく過程で、様々な「線」が引かれます。「線」とは「聖なるもの」と「その他」を区切る線であり、聖性の独占と権威化を示すものです。
 別段護教論を述べ立てたいわけではないのですが、イスラームには「聖職者」というものは存在しませんし、タウヒードの原理からして、神の顕現や偶像といった「聖別化されたもの」を否定し、森羅万象を神のなすところとして等しくとらえるものです。日常生活と「宗教的行為」の間にも、絶対的な区別を設けるものではありません。一般的に、こうした姿勢は「非近代的」として批判されるわけですが、翻せば「特別に宗教的な領域」を設けない、という意味で、逆説的にも「非宗教的」なところがあります。
 もちろん、実際には「宗教的」と大衆に認識されている領域はあるでしょうし、宗教権力や宗教を利用する権力も存在します。いかなる宗教であれ、わたしたちは「線」を引くことをやめることはできません。また、実世界では宗教権威が「第三極」となることで、世俗的にポジティヴに機能する場合もあります。ただ、この主張がもたらす認識の揺さぶりの効果は、見逃すべきではありません。
 「聖俗一元」と言うと、いかにも宗教権威が政治を牛耳っていそうですが、「一元」であるなら聖も俗もないわけで、極端な話「俗のみ」と考えても良いわけです。この世に「特別なもの」はない。残ったものは何か、と考えるなら、ただただ「俗」のみです。区別がない以上、それは「俗」として名指すこともできない、無定形な日常です。そこに「宗教的」に見えるものがあったとしても、お箸でご飯を食べるのが「日本的」であるのと同じ程度の多様性が織り込まれているだけで、権威も権力も何もないのです。
 「一神教の誕生」でも触れましたが、徹底的に信仰の「原理」に忠実であろうとすると、教義の「宗教」が無効になってしまう、という逆説がここにあります。
 こうした一元論を進めると、理神論・汎神論に至ることが容易に想像されますし、少なくともイスラーム本流はこうした考え方を容れるものではないでしょう。アリー・ムバーラクも理神論を振りかざしたいわけではありません。また、理性化した透明な一神教には、必ず反動的な具象化、「宗教化」の要素が生まれます2
 わたし個人は、信仰を、理神論的な神が「今わたしが生きている」という絶対的単独性・具象の中で交換・遡及不可能な「色」を帯びたもの、と考えています。こうした立場すら「原理」的には非イスラーム的(あるいは非キリスト教的!)なのかもしれませんが、自分の信仰を考えていく上で良い刺激を受けました。

 ちなみに、『アラム・アル=ディーン』はAli Mubarak “Alam al-din”で読むことができます。わたしのアラビア語力では、到底読解には及びませんが・・・。

  1.  以下参照。
     「『一神教の誕生―ユダヤ教からキリスト教へ』 加藤隆」
     「『「新約聖書」の誕生』善悪の知と永遠の命」
     「聖書、たとえ話、パラボレー」
    []
  2.  「哲学から宗教へ、アシュアリー、極左経由の極右」 []