身になることのできない相手との対話


 今まで何度となく「共存」「理解」といった美辞の秘めた暗部について触れてきました。< 他者>とは応答せざるものであり、「他人」というより死者を想定する方が適切です。
 この問題系のとてもわかりやすい一例を、『一神教文明からの問いかけ』の池内恵氏のテクストの中に見つけることができました。

『一神教文明からの問いかけ―東大駒場連続講義』 宮本久雄 大貫隆 『一神教文明からの問いかけ―東大駒場連続講義』

 ユダヤ教・キリスト教・イスラームのセム系一神教をめぐる十一講。池内氏が語るのはイスラームにおける律法主義と霊性主義です。
 律法主義とは、読んで字の如く律法や戒律といった形式を重んじる信仰の形式。霊性主義とは、イスラーム神秘主義(スーフィズム)のように、神との霊的合一など、内面の神的体験を重視する考え方です。
 日本におけるイスラーム理解において、大衆的には厳しい戒律のイメージが先行するものの、アカデミックな分野ではむしろ形式や法を超えた神秘主義やイスラーム哲学が紹介されるきらいがありました。またイスラームを擁護しようとする立場からか、イスラームにおける「寛容」を過剰に強調する論も見られます。
 しかし池内氏は、こうした面に注目したイスラーム「理解」の危険を指摘します。

イスラーム世界との「対話」は、いかにして可能になるのでしょうか。(・・・)一つには、相手の思想や文化のうち、自らに「近いところ」を探していくというやり方があります。(しかしそうした方法では)場合によってはわれわれの側にのみ心地よい予定調和の地点に安住し、現実逃避に陥ってしまいかねないのではないか(・・・)
イスラーム教とその思想史に含まれる主要な潮流のうち、日本人にとって「近い」要素といえば、第一にイスラーム教神秘主義(スーフィズム、タサッウフ)でしょう。自我の滅却を経て神的「一者」との合一をめざす、イスラーム教神秘主義の思想は、禅宗の修行や、万物を「一如」と捉える「東洋的」世界観にも通じるように見え、日本人にとって馴染みやすいものです。
(しかし)イスラーム教神秘主義に帰結するのはイスラーム教信仰の中ではむしろ伏流あるいは傍流に属す「霊性主義」の潮流です。それに対比されるのが「律法主義」の潮流です。

 宗教について肯定的に否定的にせよ、多くの日本人にとって、こうした「外面」の重視は旧態依然とした形式主義であり、「真の信仰」ではない、と映るように思われます。しかし、イスラームのメインストリームやその他の信仰共同体において、律法が重要な役割を果たし、信仰の外にいる者を一段低く捉える見方が優勢であるのも事実です。
 こうした面を軽視しイージーな「理解」に訴えることは、全面的な拒絶の裏返しであって、結局はエスノセントリズムの閾を出ないものです。自分に理解できるものだけを「理解」し、「理解」できないものはあたかも無いが如く扱う、あるいは「例外」として捨て置いてしまう、ということです。

イスラーム教の律法主義的な主要潮流は、安易な「対話」の可能性を退けるものです。
現在われわれが直面しているグローバルな思想的課題は、対話が成立することは自明ではないという前提を踏まえた上で、いかにして摩擦を対立に発展させずに共存するかといったかたちで捉えたほうがよいのでしょう。そもそも他者と「対話」をすればいつか「合一」する、という予定調和的な発想そのものが、極めて「東洋的」な霊性主義的背景を持っています。
そして宗教・文化間の関係に限らず、「他者」とは常にそういった隔絶を含む存在なのでしょう。イスラーム世界との「対話」とは、予定調和の地点をあらかじめ設定する従来の方法がモノローグとなってしまうような存在との困難な交鈔であるということを肝に銘じたうえで、それでもなお模索を試みるしかないのです。よくいわれる「相手の立場を理解」すれば「対話」が成り立つといった考えがいかに甘いものであるかは、イスラーム教を「理解」するにつれて明らかになるでしょう。

 日本の道徳規範においては、「相手の身になる」態度が善しとされるものですし、別段これを否定するわけではありませんが、< 他者>とは「身になる」ことのできないものです。「相手の身になる」道徳とは、翻せばどうにも「身になれ」ないものは一転全否定する罠でもあります。あたかも「共存」を訴える精神が、その「共存」の形式(ルール)自体を拒む者と出会った時、美辞をかなぐりすてて「テロリスト」認定するように。
 このことは神に対する態度ともパラレルであり、セム系一神教における神とは、絶対的隔絶の向うにあるもの、どうにも手が届かないものです。もちろん、隔絶だけでは「宗教」として成り立たないので、間をつなぐ仕掛け(キリスト教で言えば「精霊」)が必ず用意されてもいるのですが、東洋的な神即自然といった世界観とは根本において異なるものです。
 圧倒的な理解不可能性、< 応答せざるもの>を前にした時はじめて、鏡を前にしたモノローグではない、対話=ディアローグが始まるのです。

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