宗教の気持ち悪さ、家族の気持ち悪さ、ザラザラしたものの発見


 信仰について言及することが多いこのブログですが、それをどう受け止めるのかは人によってかなり違うでしょう。そもそも、このブログを読んでくれている方には、会ったことのある人、継続的にチェックして下さっている方もいる一方、エントリ単位の一見さんもいるわけで、書いているわたしを何者と見るか、そのコンテクストによってまったく意味が変わってくると思います1
 「あなたの読解がわたしの真意、神のネタには全力マジレス」で書いた通り、すべてが字面通り、あるいは字面以上に表面的に受け取られても、わたしはそれを「わたしの言葉」としたいと思っていますが、気まぐれで自分と宗教についての極個人的なことを、素朴に書いてみようと思います。

 平均的日本国民に比べてキリスト教の影響の強い環境にいたことがありますが、育った家庭自体は特段「宗教的」ではありません。亡くなった祖母が浄土宗なのか浄土真宗なのかも知りませんでした。今思えばかなり恵まれた境遇で高い教育を授けられたわけですが、そういう甘やかされた人間にありがちなことに、宗教のような「迷妄」を嫌悪し、伝統的価値全般すら侮蔑する傾向がありました。
 中学・高校と周囲の一割くらいがカトリック信者でしたが、尊敬できる聖職者には一握りしか会ったことがありません2。当時から哲学・倫理学に関心を持っていたので、受験に関係ない倫理の授業に異様な情熱を燃やしたりしていましたが、教師の言葉はあまりわたしの期待には答えてくれませんでした。ただ、わたしの知る限り、カトリックの人々(一般信者も聖職者も)は多少頑なところはあっても、いわゆる「宗教の人」的なおかしい印象は受けませんでした3

 わたしには、とても身近な人が、所謂新興宗教に入れ込んでしまった経験があります。同じことを味わった方にはおわかりになるでしょうが、これは本当に、本当に本当にハードな体験です。「新興宗教」を主流派の宗教と明確に弁別する理由はないかと思いますし、それ以前に「宗教」という概念自体にわたしは疑義を抱いているのですが、それはともかく、直観的に受ける印象はやはり異なります。これまで随分沢山の「信仰を持つ人」に会いましたが、カルトの人たちと「主流派」の人々の発しているオーラは、間違いなく違います。あまりこのことの是非を問いたくないのですが、顔を見た瞬間に違いがわかります。
 わたしは別段、彼をカルトから「救出」しようとは思いませんでした。カルトにハマるくらいしないとやり切れない事情があったのは知っていましたし(その事情をわたしもシェアしていたのですが)、彼の周りにいる誰もが「あの人は最近おかしくなってしまったけれど、それも無理もない」と思っていたはずです。むしろ一過的な防衛としてプラスに作用していた気がします。わたしの受けた不快感と挫折感は言語を絶するものでしたが、そのカルトがなかったら、もしかすると彼は自殺してしまっていたかもしれません4

 子供の頃から、信仰について一番疑問に思っていることは、なぜ彼らが「布教」するのか、ということです。
 「布教」はわたしにとって、現在でも最も重い問題の一つです。
 勝手に信じているならそれはそれで結構。なぜその考えを広めたり、あまつさえ人に押し付けようとするのか。子供の頃は、そう素朴に考えていました。ませた甘やかされたガキだったのです。
 しかし、この「客観的」な切り方には、既に特殊近代的主体というフレームに汚染されたバイアスが大きく作用しています。そもそも、自由にして不可侵な「考え」を所有する自立的主体が核にあり、一定の距離を置いて諸主体が並立している、という枠組み自体が、ある種の教育・環境の効果でしかありません。ですから、「信教の自由」的個人モデルを前提として置くこと自体、既に「布教」に勝るとも劣らない「押し付け」をしてしまっているわけです。この辺りはジジェクの読者等には言わずもがなのお話でしょう。
 ですから、現在のわたしは「布教」に対し、「考え」の自律性を盾に反論することはできない。するとしたら、近代的世俗モデルの一「信者」を引き受けることで、「宗教戦争」を挑むことにしかなりません。その戦争を実行しても良い、モデルの全責任を負って手を汚しても良い、とも思いますが、似た行いをしている多くの人々が、自らの超然とした言説がただの宗教戦争でしかないことに自覚的でないのを眺めると、まかりまちがっても彼らと同じ戦線に立ちたくない、と強く感じます。
 「布教」に対して生理的に感じる不快感は、子供の頃からそれほど変わっていません。
 ただ、反「布教」教の布教に与するくらいなら、「布教」を容認する方を選びたい、と考えています。
 反「布教」の銃を取るなら、わたしにはその銃で「布教」者を撃ち、背後の反「布教」者も撃つ義務があります。多分、彼らすべてを撃ち殺す前に、わたしが殺されることでしょうが。

 最近プライベートでメールのやり取りをしている人のほとんどが日本語を話せず、大半がムスリムです。
 ムスリムといっても世界に十二億人5もいるわけで、それはもう色々な人がいます。その中でネットにアクセスでき、読み書きが不自由なく、少なくとも英語と正則アラビア語を話し(たまたまわたしのコンタクトしているムスリムはすべてアラブ人です)、極東のわけのわからない島国の人間に関心を持つというのは、この時点でかなり絞り込まれ、特別な性向を持っているのではないかと思います。
 アラブ人としての性質とムスリムとしての性質はもちろん別個のものですが、実際に人として接していれば、「これはどっちに由来するもので」などというまどろっこしい判断は働かず、ただ単に「この人はそういう人」という印象を受けるだけです。ですから、わたしの感じている性質が何の本性であるのかはわかりませんし、彼・彼女ら自身にもわからないでしょうし、それを抽象できるほど多くのサンプルと接しているわけでもありません。多分、抽象できてしまった暁には、逆に「サンプル数」が多くなりすぎてしまい、今わたしの受けているような「顔」が捨象され、それはそれで今ひとつ実体のない「アラブ人の性質」等になってしまうことでしょう。そうしたものは、読み物などで楽しむ分には結構ですが、「顔」とのお付き合いとは別問題として括弧に括っておいた方が大抵は上手くいきます。
 それはともかく、彼らが神様にかける情熱は、やはりなかなかのものです。
 大前提ですが、例えばエジプトにおける現在のようなイスラーム復興「ブーム」は、90年代くらいになってから盛り上がってきたもので、それ以前のアラブ民族主義華やかなりし頃は、むしろ「西洋的」な風潮が溢れていたそうです。お母さんが買ってあげたドレスを娘が着ようとせず、むしろイスラーム的な衣装を選ぶ、という、わたしたちの世界からすると「逆行」とも映りかねない現象があります。要するにこうしたことは「ブーム」であって、ミニスカートの流行と同じ程度に触れ幅のあるものです。この頃は派手な茶髪がかえってオバサン臭く見えるのと一緒です。
 何が言いたいかというと、正義感溢れる現代エジプトの知的な若者が、「今のエジプト社会は腐敗している。イスラエルの占領行為は許しがたい。これもわたしたちが預言者のスンナから外れた生活をしているからだ」と考えたとしても、別段エジプト人が千年間同じように考えていたわけではなく、ほんの三十年前なら「これもアラブ民族に団結と自立が不足しているからだ」「帝国主義者の陰謀だ」となっていたかもしれない、ということです。日本だって、国際共産主義のために戦った若者というのが沢山いたわけで、その若者の多くが現代の若者に比べて特別知的だったりバカだったりしたとは思えません。大勢は時の流れに乗って自らの正義感や世の中に対する不満を表現していただけの話でしょう。

 前置きが長くなりましたが、彼・彼女らが神様について熱く語ったとしても、それは必ずしも狭義の「宗教」に因するものではありません。もしかすると、士郎正宗について熱く語るのと、大して変わらないのかもしれません。
 また、こと相手が「外国人」となると、愛国心も宗教心もない人間が突然ルーツに目覚めてしまう、というのはよくある話です。普通の日本人でも、海外、とりわけ日本人の少ない地域に赴くと、つい日本人として襟を正してしまう、ということがあるでしょう。日本の伝統文化になどまったく興味がないのに、問われてつい素晴らしさを語ってしまって、お尻の辺りがムズムズした、という方もいらっしゃるのではないでしょうか。
 「外国人」による誤解にはパターンがあります。それは実際のパターンである以上に、自分たちについてステレオタイプを抱いているであろう、という「外国人」のステレオタイプ像を持っている、ということです。例えば、日本人=ゲイシャ・ハラキリというステレオタイプがあったとしましょう。今時そんな面白いことを考えている外国人もあまりいないかと思いますが、とりあえずそう仮定すると、「こいつは外人だから、日本人=ゲイシャ・ハラキリと考えているだろう」という逆方向のステレオタイプができるわけです。
 それが想定されることで、逆に自らがステレオタイプにハマッてしまったり、ズレるにしてもステレオタイプを基準として反対方向に逃げたり、というラカン的に実に面白い諸現象があるわけですが、例えば一定以上の教育を受けたエジプト人ムスリムの若者であれば「異教徒にはアッラーをブッダのような『神の一人』と考えているやつが多い、そういう意味じゃないんだ」といった逆行ステレオタイプ像があって、出会い始めなどにはつい勢いでぶちまけてしまう、ということがあるでしょう。ですから、彼らの反応が「宗教的」に映ったとしても、ファーストコンタクトの印象だけで判断してしまうのは早計です。ひとしきり典型的な反応をするとガス抜きが終わって、「もうすぐテストなんだけど全然勉強してなくてシャレになんねー」みたいな生々しい話が出てくるものです。
 わたしのコンタクトしている一人のエジプト人は、日本に関心があって日本語を勉強しています(わたしのアラビア語よりは少し上手です)。ですから、日本にムスリムがほとんどいないこと、大半の日本人がイスラームについて何も知らないことを知っています。また、親しくない相手にいきなり宗教の話を語ってしまうことがoffensiveになり兼ねない、という礼節もわきまえています。ですから、彼も最初は宗教の話をしなかったのですが、わたしがイスラームに関心を持っていると知ると、突然目を輝かせて(見えませんが)、「是非この本を読んで欲しい」等と語り始めました。それもある程度噴出し、かつわたしのイスラーム知識が彼の予想よりは上をいっていたことがわかると、もう一度慎重な状態に落ち着いて、お互い信仰に関心があるのでその話もするけれど、激論になって仲たがいするのはイヤだよね、という適度な距離に収束していきます6

 わたしは神を信じていますが、特定の宗教団体等には属していません。信仰上の「仲間」もいません。神様について熱く語ることはしょっちゅうですが、多分「布教」とは違うと思います。「信仰告白すればムスリムである」ならムスリマですが(笑)、告白というのはそれなりのスジのところに「告ら」ないと普通は認められないものですし、イスラームに限らず、一般にそういう人を「信者」とは言わないでしょう。わたしは自分を単に「タウヒードを信じる者」だと思っています。それがムスリムとして必要十分であり、ウンマの一員であれるのかはわかりませんし、それほど興味もありません。
 ともかく、多分わたしは平均的日本国民に比べれば、いくらか「宗教的」でしょう。
 そういう人間でも、あるいはそういう人間だから、時にムスリムが投げつけてくる「お前はどうせこう思っているのだろうけれど、それはとんでもない間違いだ」「お前がムスリムじゃないのは、単にイスラームを知らないからだ」といった言説には、なかなか傷つけられます。「宗教」という抽象化された括り自体が疑わしいことは前述の通りですが、仮に「宗教」一般というものがあるとして、ムスリムから受ける印象はキリスト者から受ける印象よりは、少しだけ「カルト」寄りなところがあります。
 ただ、その原因の一つが、単にわたしの知るキリスト者のほとんどが世俗的・近代的世界で育ったというバックグラウンドの共有にあることは明らかですし、webという「場の共有」が漠然とした環境のせいで、不躾で押し付けがましい言説が漏れがちであることもあるでしょう7。それでも、ここで感じる気持ち悪さは、ナイーヴな「宗教嫌い」が反発している気持ち悪さと、多少なりとも通低しているのではないかと思います。
 わたしも宗教、気持ち悪いです。
 この気持ち悪さは、例えば仮に、わたしが正式にいずれかの宗教に「入信」したとしても、変わらないのではないかと思います。入ったら入ったで、一枚岩であるわけもないし、中には中の鬱陶しさがあることでしょう。それが世間一般の人間関係の鬱陶しさと本質的に違うのか否かは微妙ですが、大切なものを共有したり曝したりする場に出れば、気分の悪いことも多いのは容易に想像できます。
 神様を共にするというのは、家族になるようなものです。家族には良い面もありますが、鬱陶しいことも多いでしょう。わたしは人生の半分くらいを一人で暮らしていて、多分死ぬまで一人で生きているような人なので、とりわけ「家族的」なものには馴染みが薄いです。子供の頃から、人と一緒に住んでいるのがイヤでイヤでたまりませんでした。こんなわたしなので、下手をすれば「宗教嫌い」な人より、もっと宗教的・家族的なものを「気持ち悪い」と感じているかもしれません。
 宗教の麻薬性と家族の麻薬性はとても似ています。前者を揶揄する人が沢山いるのに、後者があまり槍玉に挙げられないのは、まだまだ「家族信仰」が根強くて、反対者が少ないということでしょうか。人と暮らしていると、一定の敷居を越えたところで「居るのが当たり前」な平衡状態ができあがります。その中には面倒も多いのですが、なくなってみた時の喪失感は凄まじいです。しかし、失ってしばらく経つと、それなりに身体が適応して、一人に慣れてしまったりもするのです。人間、どんな状態でも死ぬまで死にません。「命より大切」なものがなくなっても、自殺しなければ死にません。この「馴染んで癖になっちゃう」感じが、実に宗教と家族で類似しています。
 どんどん話がズレていますが、確かにおっしゃる通り、宗教は気持ち悪いです。
 イスラームのように自分の育った環境と別の世界で成長したものとなると、文化的なギャップもあって、より違和感が増大します。イスラームのコンセプトのいくつかはわたしを魅了してやみませんが、ムスリムと接していたり、勉強したりしていると「うわぁ、この人たちにはとてもついていけないよ」と感じることが結構あります。
 でも多分、この気持ち悪さこそが、ひっかかっているのです。

 気持ち悪いものとは、何でしょうか。
 世界の中に、不釣合いなもの、そぐわないものが発見されてしまった、ということです。キレイにシャツを畳んでしまっておいたのに、中に突然ブラジャーがあるみたいに、「お前は仲間じゃないよ」とヘンテコリンなものが見つかってしまうことです。いや、ブラジャーは良い例えではないですね。ここで見つかるのは、もっとわけのわからない、名指すことのできないボロキレのようなものです。一見シャツに見えるのだけれど、変なホツレがあって、広げてみると袖もボタンもない。「なんだこれ、これシャツ? というか服?」のような奇妙なもの。確かにシャツだけを選んで入れたはずなのに、シャツのようでシャツでない、シャツでないばかりか服ですらないような、そういうものが発見されてしまう体験です。
 ここで発見されるのが、主体です。
 この「不釣合いなもの」について、すぐさま『精神分析の四基本概念』に登場する若きラカンが舟の上から海に浮かぶ空き缶を見つけるシーンを連想するのですが、より適切でグロテスクにも美しい新宮一成『ラカンの精神分析』にある一例を紹介させて頂きます。
 テレビで放送された、チンパンジーの進化論的研究映像です。チンパンジーに「道具の使用」を認めるべく、群れの中に入り根気よくカメラを回していた時の出来事です。
 群れの中の子供チンパンジーが弱って死んでしまうのですが、母チンパンジーはそれでも子供を離しません。カメラは死体が腐敗し、黒くミイラ化していく様子を記録します。ある日、母チンパンジーが手放したミイラを、今度は父チンパンジーが拾い上げ、それを振りかざしカメラに向かって歯をむき出し、殴りかかってきます。
 この研究のモチベーションとは、「自然にとって、人間とは何か」です。ここでの自然とは、人と人以外を合わせた全体性のことです。チンパンジーの研究では、「人以外」がチンパンジーに仮託されているわけです。
 ここで人間をx、チンパンジーをyとすると、

   x          y 
─── = ─  = a 
 x + y       x

 となります。aは全体=自然(x+y)にとっての人間(x)です。それを求めてチンパンジーを追ってみたら、返ってきたのは黒く干からびたミイラという「気持ち悪いもの」でした。
 この式をaについて解くと、

      √5 - 1 
a = ──── 
           2

 つまり黄金数という無理数(不可能なもの)が表れます8

おそらくこの映像の行程に、精神分析経験を重ね合わせる人も少なくないに違いない。チンパンジーの群れは精神分析家、カメラの視線は分析を受けている主体の視線である。精神分析家の中に、何かおかしなものがあるような気がしてくる。やがてそれが主体自身の姿として目の前に現れてくる。

 わたしたちが、わたしたち自身を求めて世界に向かう時、何か「ヘンテコリン」なものを見つけてしまう時があります。それはとても不快で、ザラザラしたものです。それさえなければ、世界がきれいに納まるような、意味不明のボロキレです。鬱陶しくてたまらないのに、見れば見るほど目が離せなくなります。突然、わたしたちは悟ります。「これはわたしだ! わたしじゃないか!」。
 こうした「ザラザラしたもの」をどこに発見するのか、あるいは人生のいつ出会うのか、それは人それぞれでしょう。また、敢えて立ち向かわなければならないものでもありませんし、むしろ目を背けておいた方が、日常世界、つまり現実性と呼ばれるイマジネールなものの中で安寧に暮らすことができるものです。
 しかし時に、わたしたちはわたしが誰なのかわからなくなってしまう時があります。そんな不安もなく、平和に暮らせているとしたら、それは見えないところで何かが担保されている、ということです。担保は突然見失われることがあります。その何かを求めてしまった時、見つかるのは「気持ち悪いもの」です。
 「気持ち悪いもの」がイヤなら、敢えて探さないことです。心地よいものを見つけて悦に入ったとしても、それは必ずあなたを裏切るでしょう。「自分探し」では何も見つかりません。わたしたちにはいつも「何かが足り」ないですが、足りないのは、「足りていない方が身のため」な、グロテスクなものなのです。

 わたしがイスラームに関心をもった契機が何だったのか、今ではよく思い出せないのですが、ファーストインプレッションで「しっくり」くるものではありませんでした。しかしよく知るに連れ、段々と本質を理解し、しっくり来るようになった、と言いたいところですが、実際はむしろ逆です。
 知的に理解し魅了される部分も増えるのですが、ザラザラした居心地の悪いものがむしろ明瞭に析出されてきました。擁護したい当初の期待からテクスト等に向かうと、読めば読むほど「こんな調子ではダメだ」「到底受け入られない」と思わされる部分が見つかります。それはまったく、わたしの安全なフレームに納まるものではなかったのです。
 何か、reconcileできないものが見つかります。でも目が離せません。もう出会ってしまったもの、多分それはわたしの家族です。
 こんな見方は、多くのムスリムや、イスラーム圏を旅したり暮らしたりすることで素朴に肯定的な共感を抱いている日本人(その一部はムスリム)たちに対して侮辱的なのかもしれませんし、わたし自身もちょっとしんどいです。
 でももう家にいるから、何とかやっていくしかないのかなぁ、と思っています。

追記:
 念のためですが、しっくりこないものが一々特別なわけではありません。単にしっくりこないというなら、「家族」の方が個人的には余程「しっくり」こないし、日本の暮らしだって「しっくり」は来ていません。もう随分長いこと、日常で出会う人々としたい話をした覚えがないですし、会ったこともない海の向こうの人との方が、(時に喧嘩になっても)余程話題が合います。もちろん、距離があるが故の気楽さというのが大いに作用しているはずで、遠い世界に理想的な暮らしがあるとは全く思っていませんが。
 要するに、宗教は気持ち悪いですけれど、気持ち悪いのは宗教だけではないですし、わたしの場合、なぜかそれが気になって仕方がないので、どうせ気持ち悪いものと付き合うなら、目が離せないヒトと心中したいです。例えば家族と宗教どちらを取るかなら、迷わず宗教です。大抵の宗教は「家族を大切にしなさい」と教えるもので、かつわたしは宗教以前に家族から遠く離れているので、どっちの仲間にも入れてもらえないと思いますけれど・・・。
 あぁ、だからわたしは単に一人のキチガイです。

  1. ついでながら、いつわたしに会ったのかによっても、かなり印象が違うと思います(笑)。 []
  2. 現在でも「聖職者」という存在には疑問です。 []
  3. もちろんおかしい人もいるが、おかしい人はどこにでもいる。 []
  4. 現在は自然消滅的に離れているようです。 []
  5. 本当に十二億なのかは知らないし、興味もないし、大した意味もない。 []
  6. 余談ですが、彼が「イスラームの本質が凝縮されている」と推奨されたクルアーンのある章が、たまたまわたしの暗記している章で、しかも彼の言った章番号の間違いを正せてしまった時は、ちょっと気分が良かったです(笑)。少しはリスペクトが得られたかもしれません。
    これは些細な例ではありますが、異なる文化的バックグラウンドを持った人に一定の敬意を持ってもらい、こちらの話を聞いてもらうには、それなりに用意していって実力を見せ付けることがとても重要だと思います。「どうせ知らないんだろ」はしんどいですが「知ってるもん!」と言い張るだけでは聞いてくれませんし、実際、現地の人ほどあちらの文化など知らないのは当たり前のことです。だからパワーを発揮したいポイントを抑えて、その世界でガツンと言うにはどの辺がツボなのかを極力瞬間的に読み取り、できればツボのところだけでも鍛えておくことです。そして実力さえ見せれば、多くの場合、結構人並みに扱ってくれと思います。
    念のためですが、すべてのアラブ人がムスリムなわけではないし、ムスリムのすべてが信仰を熱く語るわけでもありません。ろくすっぽ礼拝もせずお酒をたしなむムスリムだって沢山いるでしょう。最近彼とは別のアラブ人女性とメールのやり取りを始めましたが、現時点で彼女とは宗教の話をしたことがありませんし、ムスリマかどうかも知りません。国籍すら確認していないです。 []
  7. 直接顔を見ないコミュニケーションがイヤなのは、物理的な「場」が共有されていないため、往々にして自分の「ホーム」にいるような錯覚を保ったまま話が進んでしまうことです。人は環境の奴隷ですから、ホームでは元気が良くても、アウェイでは控えめになるものです。普通はいずれかのホーム、あるいはどちらにとってもアウェイなど、何らかの形で「場」があります。そこでは「アウェイに来ちゃった」側が多少気を使ったり、気は使いたくないけれど喧嘩しても不利だから我慢したり、激論を抑制する生理的な仕組みが働くものです。もちろん、この仕組みで喧嘩が完全に抑えられるわけではありませんが、自分たちがいかなる場を共有しているのかが感じられないと、不条理で無用な争いが暴走するケースが多くなるように思います。個人的には、ブログのコメントや会う意志のない人とのやり取りは極力控えるようにしています。何でも、選べる範囲内で原始的・動物的にことを進めたいです。 []
  8. この式については『「新約聖書」の誕生』善悪の知と永遠の命をご参照ください。 []