ミヒャエル・エンデ『自由の牢獄』、神と完了、自由と可能性


4006021283 自由の牢獄 (岩波現代文庫)
ミヒャエル・エンデ
岩波書店 2007-09-14

 ミヒャエル・エンデ『自由の牢獄 ― 千十一夜の物語』は、同名短編集に収められたアッバース朝時代のバグダードを舞台とする一篇。自由と全体性について考える上で、素晴らしいヒントになる傑作です。
 自らの意志と能力だけを頼り、神を信じず放蕩を尽くしていた大商人が、ある夜イブリース(悪魔)の罠により百十一1の扉を持つ白い空間に閉じ込められます。
 扉の向うに何があるかはわかりません。自由への扉かもしれないし、猛獣が待ち構えているかもしれません。ただ、一つの扉を開くと、他の扉は永遠に閉ざされてしまいます。つまり、選べるのは一つだけです。
 そこは神の意志の及ばない例外的な「自由な場所」で、どの扉を開けるかは本人次第、神の慈悲を請うこともできません。
 部屋には姿なきものの声が響き、男と問答を繰り返します。この声は、人が心の中で呟く内言のような様相を示しています。

「扉がみな同じならば、どの扉から出ても同じだろう?」
「開ける前はみな同じだが、その後ではちがう」
(・・・)
「つまり、選ぶ理由は何もないということか?」
「理由はまったくない。おまえがおのれの自由意志で決めたというほかは」
(・・・)
「どうして決めることができるのか? 扉がどこに通じているのかわからないのに」
「それを知っていたことが一度でもあるのか? 生まれてからこれまでというもの、おまえはあれやこれやと決めたときに、理由があると信じていた。しかし、真実のところ、おまえが期待することが本当に起こるかどうかは、一度たりとも予見できなかったのだ。お前の理由というのは夢か妄想にすぎなかった」

 決めかねるまま時だけが流れ、男は憔悴していきます。彼は次第に、部屋の中に「印」を探すようになります。

たとえば、小机上の食事や飲み物の並べ方をしらべて、そこに何かのしらせを読もうとしたのだ。その置き方や数や形について、長大な数式をたてた。ついには、容器の中のわしの便をつくづくながめ、そこに運命の手がかりがみつからぬものかと願った。

 ラカン的に言うなら「現実界のかけら」です2。しかし、「かけら」は求めた時には決してやってきません。それは「発見」されなければならないのです。「かけら」が直接に語る状態を、精神病と呼びます。

 男はそのまま歳を取り、白髪の老人になります。次第に扉にも無関心になったある時、ふと気付くと扉の数が減っています。扉は日に日に少なくなっていきますが、既に男は気力も失せ、無為に過ごしていきます。遂に扉が一つになりますが、男は残り、翌朝部屋は扉のない白いまっさらな空間になっています。
 この時男は地に伏し、泣きながら神に語りかけます。

この上なく慈悲深き、気高き、尊き者よ、ありがたいことだ。自己欺瞞をことごとく退治し、偽りの自由をわしから奪ってくれた。(・・・)完全な自由とは完全な不自由なのだ。平安や知恵というものはすべて、全能にして唯一の者、アッラーのもとにだけあり、そのほかは無にすぎない

 祈りを終えると、男は意識を失い、気が付くとバグダードの盲目の乞食になっていました。物語は、この乞食が過去を語る、という形で綴られています。
 恐ろしいことに、この物語は「ハッピーエンド」なのです。

 わたしたちは、自由とは多くの選択肢から一つを選べることだ、という考え方に飼い慣らされてしまっていますが、欲望にも意志にも原因があり、選択に< わたし>の入り込む余地などありません。自律的な自由など存在しません3
 また、可能性は、可能性のままでは何ら現実性を持ちません。いくら沢山のオプションがあっても、わたしたちはある一瞬、一つの場所で一つの形、一つの状態しか選ぶことができません。
 それは「一」であることです。「この」わたしであることです。
 柄谷行人なら「個別性」に対する「単独性」と呼ぶかもしれません4。なんらspecialではなくてもpaticularであること、わたしが存在すること世界が存在することが一致するような「かけがえない」点です。
 「自律的な自由」と「選べる可能性」はセットになって、わたしたちのファンタジーを構成しています。それは「未来を選ぶ」、ハリウッド的な幻想と言っても良いでしょう。
 洗練された権力は、このファンタジーを「サーカス」として提供し、「君は自由なんだ、自由の中で選んだのだから、君の責任だろう?」という「自由の強制」を覆い隠すのです。

 それでは、可能性とは、ただわたしたちを惑わす妄想にすぎないのでしょうか。
 「自律的な自由など存在しない」と頭で理解したとしても、扉を一つも選ぶことのない男の姿は、やはりふがいなく映ります。失敗か成功かはわからない。扉を開け、その責任と共に今を生きるべきではないのか、と。
 忘れてはならないのは、この部屋が「神の意志の及ばない例外の場」であったことです。つまり、そこに「自律的な自由」が存在したが故に、男は選べなかったのです。
 もし男が思い切って扉を開けていたとしたら、と無粋な想像をしてみましょう。
 結末はわかっています。
 男は気を失い、気が付くとバグダードの盲目の乞食となっているのです。
 ただその乞食は、「人の授かる最上のものを持っている」とカリフの施しを辞退する幸福な盲ではありません。ただの乞食です。
 「何てことだ、あの扉はやはり間違いだった、他の扉を選べば幸福になれたかもしれないのに、俺は盲目の乞食になってしまった」と、男は神を呪い続けることでしょう。

 神とは全体であり、一なるものであり、世界の始まりから終わりまでの可能性を内包したものです。
 わたしたちにとって「未知の未来」であるものも、神にとっては「既に決定されたもの」です。
 そうした一者が、言わば可能性を預かってくれる限りにおいて、わたしたちは選べもしないものを「選ぶ」ことができるのです。
 選択がいかなる結末をもたらすか、わたしたちは知りません。期待に沿うこともあればそうでないこともある、と言いたいところですが、実は常に期待は裏切られます。なぜなら、完全な結果も完全な選択も存在しないからです。「自律的な自由」において選ぶ者には、常に不幸か、満ち足りているかのような虚勢しか残されていません。
 幸福な選択があるとすれば、それは「これから選ぶ自由」を一度「既にすべてを選んだもの」に預ける限りにおいてです。

 「行きと帰りで違う道を通ること、奴隷とゆとりファシズム」で、「一番良いもの」が選ばれるのを待つ権力に対して、マズイ料理をメニューから選べ、と書きました。
 それは「自律的な自由」を否定することです。どの扉を「自由選択」しても、男は不幸な乞食になるのですから。
 一方で、いかなる扉からも幸福な乞食になることはできます。それは「良い選択」も「悪い選択」もすべてが等しく映る境位においてです。つまり、「すべてを既に選んでしまったが故に、何も選ばない」者に自由を預ける限りにおいてです。
 行きと帰りで違う道を通るのは、すべての道が同等だからです。最短ルートがあり、そこを行き来していれば合理的なのではありません。ベストの選択ができる、などという幻想を諦めた時、初めて可能性が恩寵として戻ってくるのです。

 ですから、可能性そのものが「悪」なわけではありません。
 「自律的な自由」の蒙昧を取り払っても、実際にやっていることは同じです。男がいずれ乞食になるように。
 このことを考える時、わたしは「完了/未完了」という時制をいつも思い浮かべます5。「have + 過去分詞」と習った、あの「完了」です。
 「完了/未完了」という考え方は、「過去・現在・未来」に比べると、最初しっくりきません。中学生の時、なかなか飲み込めなかった方も多いのではないでしょうか。
 アラビア語には、狭義の時制は完了と未完了しかありません6。最初は、「完了が過去で、未完了が現在」のように見えます。実際、そうした使われ方もします。
 しかし例えば「わたしが部屋に入った時、君は何をしていたのだ」の「何をしていた」は、過去のことですが、未完了で表現します。そこで行われていた何かは、「未だ完了せざるもの」だったのですから。正確には、過去の状態を表す特別な動詞を未完了と組み合わせ、「過去未完了」を表現します。
 「未来を選ぶ」ハリウッド的ファンタジーは、「未完了」なるものに夢を託すものです。確かに、わたしたちは未来を知りません。だからこそ恐ろしいし、希望も持てます。
 しかし、その未来を選ぶのが孤独な「自律的わたし」であるのなら、結末は扉を選んだ男のものとなるでしょう。
 重要なのは、わたしたちにとって未完了であるもの総てについて、完了の場から見ることできる者が少なくとも一人いる、ということです。
 わたしはここで、護教論を振りかざしたいのではありません。そんな者はいないかもしれない。神を信じる者にとっても、神を確かめることはできないし、神を試すことは許されません。だから厳密な一神教は聖者崇拝や偶像を否定するのです7
 いるかいないかではなく、「あらゆるものが既に完了している」例外的な場所を想定できる、ということです。なぜなら、何かが未完了であるということには、完了の想定が常に既に織り込まれているからです。完了は未だ成ってはいませんが、完了がなければ未完了もありません。
 そしてすべてが完了する場があるとすれば、そこには何ら可能的なものが含まれず、ただ< 存在>するだけです。すなわち、一者です。
 一者が想定されることで、未完了なものは単なる宙吊りではなく、道になります。可能性は、不安と傲慢から安らぎへと転じます。
 その時、わたしたちの選択には既に理由が与えられ、わたしたちの存在そのものが「選ばれたもの」になるのです。

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 『自由の牢獄―千十一夜の物語』を手に取ったのは、「行きと帰りで違う道を通ること、奴隷とゆとりファシズム」のブクマコメントで、arkanalさんが

彼女にミヒャエル・エンデの『自由の牢獄』(アッバース朝時代のバクダードを舞台にした小品。トルストイの『人にはどれだけの土地が必要か』のような味わい深い小品。-を評して欲しいと切実に希う

 と書いてくれたことがキッカケです。
 ミヒャエル・エンデは人並みに『モモ』『はてしない物語』『鏡のなかの鏡』は読んでいたのですが、恥ずかしながら『自由の牢獄』は未読でした。
 ちなみに『モモ』と『はてしない物語』を最初に読んだのは小学生くらいの頃ですが、数多い引越し・放浪にも振るい落とされず、大切に部屋に置いてあります。お子様のいらっしゃる方で、この二冊を読ませていないとしたら、多分地獄に落ちます
 短い作品ですが、読み進めながら「今ここにいること」の驚異に、地に伏し涙したい衝動に駆られました。アラブ・イスラームに関心を持つようになった今だからこそ、何倍にも味わえる部分があります(披露したいマメ知識的tipsも色々ありますが、それはまたの機会に)。そうした巡り合せとこの作品のシンクロに、激しく打たれます。
 arkanalさん、有難うございます。主のはからいに感謝します。

 讃え奉る完全なるものよ、祝福は御名なり、高貴はその座なり、神をおき神なし。呪うべき悪より、我は加護を求め神にすがる。

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  1.  「オリエントで狂気を表す数、とのこと。「千十一夜の物語」というタイトルは素敵ですね。 []
  2.  「現実界のかけら、アブラハムの羊、鏡に映らなかった物質」参照。 []
  3.  「自由意志、自己決定、「他者を手段としてのみならず同時に目的として扱え」」「ムッソリーニ、人種、自由」参照。 []
  4.  『探究〈1〉』柄谷行人など。 []
  5.  一者と完了・未完了の関係については、フロイトの糸巻き車のFort-Daを思い出せばわかりやすいはずです。子供がベッドの向うに糸巻き車を投げ、引き戻す。そしてむしろ糸巻き車の消失に対して悦びを見出す。「無い」ものも「無いものとしてある」という象徴的水位の導入です。未完了なものも、ある者にとっては完了である、とすることで、可能性は統治されるのです。 []
  6.  ネイティヴ・アメリカンの言語には「開示されたもの」「未だ開示されざるもの」の二つの時制のみを持つものがある、と聞いたことがあります []
  7.  もちろん、実際のイスラームやキリスト教には、イマジネールな民間信仰的要素が多分に紛れ込み、二重構造を成しています。その二重性込みで「イスラーム的なるもの」が成り立っているのです。
     ここで「教義上は否定されたイマジネールなもの」が果たしている役割を軽視することはできません。世俗社会において最も「現実的」とされているものが括弧に入れられるよう求められるが、一方で大衆は完全にabstractな信仰に移行することはできない。つまり、イマジネールなものは「無いものとして機能」しているのです。
     言語の獲得、言語経済への参入が、< わたし>の誕生と同時的であるとすれば、サンボリックな神はこれにより生じた不安、死の概念を仲裁するためにやって来た、と言えるでしょう。象徴経済は、「無い」がある世界です。ベッドの向うの糸巻き車が存在する世界です。その神は怒り、偶像を否定しますが、偶像は「無いもの」としてあり続ける。神の言葉はイマジネールなものを否定しますが、神の存在は否定された偶像を含めた全体性なのです。
     これを「恥じらい」の導入として読むこともできます。形あるものは「恥ずかしいもの」です。そして世俗社会とは「恥を忘れた」社会のことです。 []

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