コマンドとプログラム、汚染と純化


 アンカテさんが「初音ミクに便乗して創発的権力論再び」でものすごい重要なことを書かれているのに、思ったほど注目されておらず、かつコメントも的を外れたものが多いので、かなり危機感を抱いています。


 はじめにバッドな言い訳をすると、アンカテのessaさんについては個人的に好きなところと嫌いなところがハッキリあり、手放しで彼の議論を称揚しよう、というつもりはありません(essaさんはきっと、より一層わたしが嫌いでしょう)。しかし少なくともここで指摘されていることは非常に重要かつ鋭く、一人でも多くの人間が認識する必要がある、と強く感じています。

 ところでしかし、この怒り(※初音ミク問題への怒り)は、何に対する怒りでどこに向かっているのでしょうか?グーグルの中の人が電通の依頼で削除コマンドを打ち込んだとしたら、我々は何を失うのでしょうか?我々の怒りは何を求めているのでしょうか?
 それはもちろん、削除コマンドを取り消して、元の状態に戻すことです。では、その「元の状態」とは何か。
 それは、検索エンジンのプログラムが処理した結果を操作することなしにそのままユーザの画面に出力することです。
これ、冷静に考えると不思議なことです。だって、その「元の状態」とは、結局、グーグルの中の人が書いたプログラムですから。
(括弧内引用者)

 essaさんはここで「コマンド/プログラム」という図式を提示しています。「コマンド」は人為的(政治的)操作により、「結果」を歪めるもの。対して、「プログラム」は粛々と実行され、一見政治性を持たない。しかし、そもそもこの「プログラム」自体、人が書いたもの以外の何でもありません。ただ、現象に一対一で対応するようなわかりやすい「人為」が見当たらない、というだけです。
 もちろん、「コマンド」と「プログラム」に程度の差異しかない、ということではありません。「プログラム」はルールに従って動作します。「コマンド」は個別的・例外的であり、(プログラム的)規則性を持ちません。しかしだからこそ、むしろ「プログラム」こそが真に政治的なのです。
 真の政治的勝利とは何でしょうか。それはルールの中で勝利することではなく、ルールを決定する力を奪取することです。
 大衆には、常に結果としてのルールだけが示されます。そして「この土俵の中で公平に戦いなさい」というお手本が与えられ、勝った負けたや「ルール違反」が大衆の関心事を占拠します。枠の中に納まっていれば、清潔で公平であるような幻想に飼い慣らされていくのです。
 しかし、例え「ルール」の中の戦いがジェントルマンシップに則ったものであったとしても、ルール自体は常に暴力的に制定されたものです。「ルール違反」に対する怒り、「コマンド」に対する憎悪は、翻せばルール奪取の暴力を不可視化し、既成事実化してしまう釈迦の掌な一面があるのです。

 もちろん、ローマの平和であれアメリカの平和であれ平和は平和、というのも事実です。別段わたしは「プログラム」を否定しようというのではありません。いずれ何らかの「プログラム」が支配はするのです。
 しかし「コマンド」に怒る人々は、自分が何に怒り、何を守ってしまっているのか、それを知っているのでしょうか。
 知った上で、「名も無く貧しい権力」であることを引き受けているのでしょうか。
 彼らの怒りとは、自由意志によって自律的に選択されたようでありながら、怒りそのものが「プログラム」に踊らされたものではないのでしょうか。

 「創発的権力の汚染問題と純化問題」では、「コマンド/プログラム」が「汚染/純化」という形で、より論理レベルの概念として整理されています。

 与党がいかに「公約」を真面目に遵守しようが、それが問題となることはない。綱領を通りの記事を書く新聞社はめったにないが、綱領から一歩もはみ出さない新聞社が問題になることはない。つまり、過去の権力には「汚染」問題はあっても「純化」問題は存在しない。
 創発的権力は「汚染」が問題になる一方で、「純化」という別の問題が存在する。創発的権力の「純化」とは、そのシステムがアルゴリズムに従って、徹底的に機能することであり、創発的権力は「純化」すればするほど、より強い信任を得て、より強固な権力を持つ。

 上の枠組みは極めて明晰判明ですが、このエントリもそれほど注目されていないようです。
 ですから、こうして取り上げはしたものの、プレーンでサヨクくさい語らいがここで力を持つとは思っていません。
 essaさんが書いて力を持たないものなら、わたしが取り上げてもより無力でしょう。

 だから、わたしは極右です。

 政治的体臭が拭い去られた権力、PC的お上品な社会、名も無く貧しい権力、これらに対して対抗手段があるとたら、それは「これがお前だ」ということを戯画的なまでにperformしてみせる以外にないでしょう。「プログラム」的権力が問題なのだとしたら、むしろルールを過剰に守ってしまう態度だけが、革命者の選択肢となるはずです。

 とりあえず早めに反応したかったので、このエントリのテクストは著しくまとまっていません。essaさんのテクストを誤読している部分があれば、申し訳ございません。
 以下、関連するエントリを挙げておきます。

「バカ正直こそ最も危険な反権力分子」
「わたしが原理主義者です」
「スラヴォイ・ジジェク『人権と国家』、寛容と自由」
「自由意志、自己決定、「他者を手段としてのみならず同時に目的として扱え」」
「あなたの読解がわたしの真意、神のネタには全力マジレス」
「サイボーグ・ファシズム」