因果とリズム


 「わからなさ」と性感帯の話をもう少し続けます。

 物語的了解の終点と性感帯は、リズムと関係しています。
 「アラブ的なるもの」に接していると、しばしばこれを感じさせられます。
 アラビア語はリズムを重視する言語で、詩人が現代でもポップ歌手のような人気を得たり、クルアーンの翻訳が禁じられていたり、「この音がこの順番で来る」感じを大切にする傾向があります。もちろん、こうした性質はどんな言語・文化にもありますが、アラビア語では特別顕著です。
 四戸潤弥さんが『現代アラビア語入門講座』で、「知っらない」「知らないっ」「知らなーい」を日本人なら「表現の違い」として言語外的に位置付けるのに対し、こうしたリズムそのものを文法の一部として整理しているのがアラビア語だ、といったことを仰っていますが、実際にそうした要素を強く感じます。日本人、あるいは欧米人であっても「言い方の違い」として文法的・理性的フレームの外に置いてしまうものを、「正に整理すべき対象」として中心に据えてしまうのです。
 リズムは時間的なものですから、一見「因果」と相応するようですが、実はまったく反対です。
 というのも、「因果」とは時間的順序を一旦抽象して、象徴的に外から説明付ける「超時間的」なものだからです。時間を「時間」として認識するには、一回時間の外に出る必要があります。時間の外、空間的で視覚的なものの場に立って、そこから抽象化を行わない限り、「因果」という枠組みは出てきません。
 動画や音楽の編集をコンピュータで行っている人にはよくおわかりでしょうが、「時間的なもの」を空間的布置に並べる、ということは、一回そのものの持っている時間的性質を殺してしまうことです1。「タンカタンカタンタンタン」というリズムを、横長の長方形で表象してしまうと、一回「リズムのリズムらしさ」は去勢されます。リズムの外からリズムを操作することで、再度再生可能なリズムを作り出すのです。
 「リズムのリズムらしさ」に特別な重きを置いてしまうと、この操作が困難になることがあります。「リズムのリズムらしさ」は、時間そのものの中にあること、時間を時間として意識しないことにあるからです。非常にベルクソン的です(笑)。

 わたしたちは「時間的なものを時間の外から扱う」ことに馴染んでいて、特に経験主義的(理系的?)訓練をよく積んだ場合には、その傾向が著しいです。そうした思考法から「リズム偏愛」なものを眺めると「どうしてそんな無意味なものに拘泥するのだ?」と思えることがありますが、リズムはリズムなのであって、その場以外ではそれこそ「無意味」になってしまいます。「意味」を見出す視点が違うのです。
 ここから先はかなり私的で飛躍的な思考ですが、アラビア語で育ったイスラームと、ギリシャ語で育ったキリスト教、という対比の中で、これを感じることがあります。
 アラビア語の書記には短母音の表記がありません。それでも彼らが発音できるのは、一つには動詞の活用が一定の母音パターンとリズムによって成り立っているからです2。つまり「リズムの共有」という「時間の中」の性質が前面に出てきます。
 これに対し、ギリシャ語はセム系の言語をベースとし、そこに母音表記という革命的要素を持ち込んだもの、と言われています。わたしはギリシャ語をまったく理解しないので、見当違いなことを言ってしまっているかもしれませんが、セム系一神教の文化がリズムへの固着強度が相対的に低い、つまり「超時間的」文化に移植された瞬間とも思えます。
 イエスが話していたのはアラビア語やヘブライ語の仲間であるアラム語と言われていますが、キリスト教が発展したのはギリシャ語、そしてラテン語の中でです。そこでは、リズムは視覚的に抽象され、象徴的な意味が特権的立場を取ることになります。
 ヘブライズム/ヘレニズムという文脈では手垢に塗れた教科書的な解釈ですが、ギリシャ語が過去・現在・未来というわたしたちに馴染み深い時制を取るのに対し、アラビア語の時制の原理は「完了/非完了」です。何かが完了しているかしていないかということは、超時間的な視座から時系列を眺めるのとは異なります。「わたしが部屋に入った時、彼は勉強していた」の「勉強していた」は過去の出来事ですが、未完了です。

 こうした「時間内」的固有性・リズムの尊重は、翻訳に対する態度にも関係しているでしょう。
 聖書はありとあらゆる言語に翻訳されていますが、翻訳された聖書を「聖書じゃない」という人はいません。もちろん本格的な研究者であればギリシャ語を学ぶでしょうが、市井の一信徒が翻訳で聖書を読んだからといって、少しも後ろ暗いところはありません。それは象徴化された「意味」が教えの核だと考えられているからです。
 これに対し、クルアーンは原則として翻訳を禁じられています。もちろん、日本語訳を含めて色々な言語の「翻訳」があるわけですが、正式にはこれらはあくまで「注釈」の一種であって、「本物のクルアーン」ではない、とされています。そして母語が何であれ、ムスリムであればクルアーンのいくつかの章は丸ごと暗誦できるものです3
 最近、インドネシア人とやり取りする機会があったのですが、わたしがアラビア語を学んでいることを知ると「インドネシア人の多くがシャクル4のついたアラビア語を『読める』。でも、意味をわかっている人は自分を含めてほとんどいない」と話していました。
 つまり、彼らはアラビア語の発音だけはできるのですが、楽譜を見て音を出すように発声しているだけで、文法も意味もほとんど理解していないのです。一般的には、インドネシア語の「注釈」が付されていて、インドネシア人ムスリムはこれで音と意味をつなげている、とのことです。ちなみに、クルアーンの発声法には厳密なルールがあるのですが、インドネシアではクルアーン読誦コンクールのようなものが催されるほどで、発音だけなら「君よりインドネシアの子供の方がずっと上手い」そうです。
 「音だけマネして何になるんだ」と思われる方がいるかもしれませんが、般若心経を覚えている日本人だって、サンスクリット語のわかる人はほとんどいないでしょう。音を軽視する方こそ、「超時間」バイアスと言えます。マイケル・クックも「聖典の読誦を重視しないプロテスタントのキリスト教会の方が、むしろ珍しい宗教だ」と指摘しています5
 聖典の内容にしても、例えば福音書が非常に物語的・象徴的であるのに対し、クルアーンの殊にマッカ期のスーラは詩文的要素が大きな役割を果たしており、翻訳してしまうと実に退屈です。翻訳と原文と比べてみると、「これは翻訳禁止というのもわかる」というくらい違います。
 中学一年で英語を習い始めた時、先生が「英語を日本語に一つずつ置き換えるのではなく、一度『意味』に取り出して、それから日本語に持ってくる」という説明をされていたのをよく覚えていますが、『意味』そのものという、それ自体では形を持たない領域が想定されるのが「翻訳」です。キリスト教はとても「翻訳」的にです。
 つまり、さまざまな水準で「物語的・ギリシャ的・キリスト教的」と「リズム的・アラビア的・イスラーム的」という、時間に対する態度の構造を見出すことができます。

 リズムはそれ自体が「了解不可能なもの」であり、性感帯をくするぐるものです。
 一方、一回リズムを去勢してしまう超時間的態度が、愛を表すとしたら、回帰という構成を取ることになります。ムスリムがしばしば批判する三位一体の思想、イエス(イーサー)が単なる預言者ではなく「神」である、という言説は、「リズム的わからなさ」を回帰運動を通じて表現する営み、と読めます。
 非常に素朴に考えて、イスラーム的な「絶対なる一としての神とただの人間としての預言者」という構成はスッキリしていますし、偶像=イマジネールなものが強く否定されるのも良くわかります6。しかし「わかる」だけでは愛が構成されません。ここでの性感帯は、理論的・説明的部分ではなく、リズムそのもの、具象の中に宿ります。イスラームが時に「聖俗一致」を強調し、「信仰よりも実践」を訴えることがあるのは、法と行為というある種の「理不尽さ」自体が、一者の徹底と対を成して性感帯を構成しているからでしょう。
 イエスが「神」である、というのは、さっぱり「わからない」。なぜ神がわざわざ人間に身をやつして地上に降り、十字架にかけられなければならなかったのか。唯一の神が、なぜ三つのペルソナを取らなければならないのか。おそらく、「迂回」そのものが重要なのです。サンボリックな神が抽象される一方、イマジネールなものとして再-具象化し、復活という形で再-永遠化する。「時間内」的でのっぺりと世界に張り付いたものが、引き剥がされ編集され戻ってくるようです。

 念のためにお断りしておきますが、以上は非常に模式的・暴力的な思考のお遊びで、実際のアラブ人が西洋的な「意味」の思考ができないわけではまったくありませんし、そもそもギリシャ文明をルネッサンスまで運んだのはイスラームです。「理系的」であることでアラブやイスラームが劣ることはありませんし、翻訳も盛んです。ただおそらく、個々人の意識できない基底の部分で、「理性」の対象とするフレームが異なるのではないか、と感じられるのです。
 このフレームがリズムという「時間内」的なものを扱う以上、「因果」以前の「同時並在」がより前景化していることは想像に難くないでしょう。犬が耳の後ろを掻かれて後ろ足を動かしてしまうのは「愚か」なこととも言えますし、そうした偶発的関係を捨象し、象徴的思考を育むことで「科学的」技術は進歩してきたわけですから、別段アラブ的なるものを称揚しようというのではありません。
 ただ、わたしたちが捨象してきたものが消えてなくなってしまったかというと、依然基調低音的に機能しているわけで、そうした「見えざる基底」をより感じる上で、学ぶところもあるのではないか、と考えています。

 最後にまったく個人的なことを付け加えると、例によってナイーヴに「イスラーム贔屓」なことを書きながら、実はわたしは福音書がかなり好きです。わざわざアラビア語で短いフレーズを覚えようと頑張っているくらいです。イエス(イーサー)の言葉には、心を一瞬で軽くするような力が宿っている、と感じます。その源泉の一つは、福音書に散りばめられた素晴らしい比喩でしょう。
 比喩というのは、意味の領域である種の抵抗を作る装置なのではないでしょうか。ムスリムの方とコミュニケーションを取っていて、「文字通りの」「わかってしまう」フレーズを大切にしていることに驚かされることがあるのですが、そうした場合の「抵抗装置」がリズムや音韻にあるのに対し、イエスの言葉は意味の領域で抵抗を作ることができる。
 重要なのは、了解してしまわないことです。
 うっかり「わかって」しまうことで、わたしたちはいつも、とても多くのものを取り逃がしています。

  1. 正確に言えば、これは時間の空間化でもなく、時間でも空間でもない象徴的な場に一旦対象をabstractする、ということです。空間的・視覚的なものには、固有の具象性があります。養老孟司さんが『唯脳論』で「時間におけるリズムに対応するのは、空間における形だ。前者は機能に、後者は構造に相応する」といったことを仰っていますが、「無意味」な形そのものが、リズムの真の対応物です。DTMで表された「音の長方形」はもちろん、そういう意味での形ではありません。本当はこの「形」そのものを考えなければ、リズムと物語の関係もキチンと理解できないと思うのですが、煩雑になるので省略します。
    まったく余談ですが、この頃の養老孟司さんは冴えていましたよね。最近はなんだか「ご意見番」のようになってしまって、気の毒です。伸び伸び書ける立場ではなくなってしまったのでしょう。 []
  2. もう一点は「単に覚えている」ということです。日本語の漢字の読みを考えれば、「知っている単語だけがキチンと発音できる」ことがそう無茶ではないことがわかるでしょう。むしろ英語やフランス語が親切すぎるのです。 []
  3. 以前どこかの原理主義政権が、クルアーンの章を五つ暗記することで犯罪者の刑を減刑することにした、というニュースを聞きましたが、それくらい覚えていないムスリムの方が珍しい気がします。わたしでも覚えています。 []
  4. アラビア語には基本的に母音表記がなく、クルアーンや子供向けの本には発音を補助する記号が付いている。 []
  5. 『1冊でわかるコーラン』マイケル・クック。 []
  6. 実際には聖者崇拝のような民間信仰はあるし、シーア派ではアリーの肖像なども平気で売られているらしい。 []