「あの子みたいにかわいくなれたら」、恋愛の賭け金、「あるがまま」


 「奥菜恵さんのような美人でも、離婚のうえ新しい恋人にも浮気され、と苦労している。恋愛とは自らを賭け金に差し出さなければ始まらないゲームなのだ」といったお話。

空中キャンプ:あの子みたいにかわいくなれたら

「あの子みたいにかわいくなれたら/新しい世界で毎日夢いっぱい」と、たくさんの女の子が想像するだろう。私がもし美人だったら。すごくかわいかったら。きっと、もっと夢みたいな毎日が待っているのだろうと。答えはノーである。奥菜さんを見なさい。誰だって、恋愛をするなら、テーブルの上に手持ちのプライドをそっくり置いて、それを賭け金にしないとゲームには参加すらできないのである。奥菜さんはちゃんと賭けている。だからわたしもばんばん賭けていこうとおもっている。

 半分はその通りですが、二点、敢えて混ぜっ返したいところがあります。

 一つは、こうして「ちゃんと賭けている」と評されるのも、多分奥菜さんが美人だからだろう、ということ。もしこれがブサイクの苦労話だとしたら、「ブサイクだから無理もないね」とまでは言わないまでも、恋愛そのものの本性の語らいとして捉えられることはなかったのではないでしょうか。
 もう一つは、多分zoot32さんもわかって書いていらっしゃることで、「もしも」の向こうに夢の世界などなかったとしても、「欲にはキリがない、あるがままを受け入れなさい」などとはならない、ということ。別段zoot32さんは「あるがまま」などと鬱陶しい説教をしているわけではないので、筋違いかとは思うのですが、このテクストに触れた方の中には「あるがまま」論と受け取って悦に入ってしまうケースがある気がします。
 もちろん、「夢のような毎日」などやって来ないでしょう。隣の芝生はいつでも青いです。ですが、少なくない人たちは、冷静に考えれば「夢のような毎日」が多分来ないということくらい、わかっています。その上で欲望しているのです。
 いや、わかっていない場合もあるでしょうね。それなら、尚のことラッキーです。「わかる」の度合いにも色々ありますが、あまりに「わかって」しまうと、確かに欲望するのにも無理が出てきます。いずれにせよ、どこかに青い芝生があります。
 「隣の芝生は青く見えるもの」という原理を十全に理解したとしても、依然として芝生は青く見えます。緑になったりはしません。正確に言えば、青く見えるもの、それが隣の芝生です。何かが常に青いのです。

 別段これは良いことでも悪いことでもなく、欲望とは余白=縁margeに投げられるものであり、それを「わたしの」欲望として引き受ける限りにおいて、サンボリックな去勢が成される、というベタベタなお話です(もちろんこれで話は終わりにならないですが、今回は省略します)。恋愛を自己投機、つまり「ものとしての< わたし>」という失われた対象を巡る営みとして語られている(ように見える)zoot32さん自身にとっては、自明事なのではないかと思います。
 では「欲望せよ!」と言って終わりになるかというと1、そんなこともなく、欲望は余白さえあればどこにでも向かっていけますから、「あるがまま」系の肛門的吝嗇を愉しむことだってアリなわけです。
 ですから、「あるがまま」の劣悪さというのは、欲望の倫理という点だけからは簡単に否定できません。
 では何がみっともないかというと、ことが恋愛に絡むからです。
 zoot32さんの仰るとおり、恋愛は大変大きな賭け金を要求するものです。それは量的に過大というだけでなく、「ものとしての< わたし>」、失われたわたしという物質を、まるごと賭けなければならない、ということです。
 「失われた対象」賭けというのは、お金がないのに信用取引でレバレッジを利かせて一発逆転を図るようなものです。「あるがまま」も何も、あるがままならカラッポです。カラッポですが、その穴、「過ぎ去ってしまった」という論理的時間差、それ自体がわたしたちにとってかけがえのないものです。信用取引ですから、ないお金の代わりに、穴の周りを着飾ります。実は穴が開いているだけなのに、周りをゴージャスにしてヴェールの向うに「何かある」ように見せるのです。
 その穴は、自身にとってだけは本当に値打ちのあるものですから、「見せる」などと小賢しいことを考えないで、自分のファンタジーを徹底して信じきり、その勢いで相手まで巻き込んでしまう、というのも一つの方法です。というか、この方法をとっている時は、(幸いにも)本人は「方法」としてすら自覚していないでしょう。そういう意味で、自ら「あるがまま」だと信じ切れているなら、それはそれで悪くはないと思います。ただ、ファンタジーが暴走し過ぎると、誰も着いて来ていないのに本人だけは「あるがまま!」と叫んでいる面白い絵になってしまうので、要注意です。
 また、本当のところ「あるがまま」ではなくても、「あるがまま」っぽく見える、ということは大変重要です。「ナチュラルメイク」と同じです。女なら誰でも知っていることです。
 要するに、「あるがまま」っぽさは大切だけれど、陰のセコい努力も特別な才能もないのに「あるがまま!」と思っていてはモテない、という、極平凡な結論です。

 と、勢いに任せて書いたのですが、よく考えるとzoot32さんは元より「あるがまま」の話などしておらず、淡々と静かに「自分も賭けよう」とおっしゃっているわけで、丁度ラカンのエロ仕掛けのように、彼を聞いている聴衆に先回りしようとわたしが転がされただけかもしれません。
 とりあえず、誰でも「自覚していることだけは自覚」していて、自覚できないことは自覚していませんから(笑)、わたしなら知ってしまった範囲で全力で抗います。知らないことは知りません。キレイになれるなら死んでもいい(笑)。

 関係ないですが、この方の文体は静かで美しいですね。それから、サイトのデザインが好きです。

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  1.  わたしも面倒くさいときに「欲望せよ」と書いてしまいますが、そもそも『精神分析の倫理』でラカンはNe pas cédez sur son désirという言い方をしていて、これは単純に「欲望を譲るなかれ」と訳してはマズいのです。翻訳者の方々は、わかった上でやむにやまれず似た言い方を使っているのです。手元の翻訳では「欲望に関して譲る」とされていましたが、おそらく先生方も「ちょっと違うんだけど、コレくらいしか言いようがないよなぁ」と苦渋の選択をしたはずです。
     英訳ではdon’t give up on your desireみたいになっていることが多いのですが、céderは普通céder à hogehogeで「hogehogeに譲る」と使うか、他動詞として「hogeを譲る」とするもので、前置詞surを取るものではありません。give upだって、give up onという言い方は一般的ではないでしょう。
     surを付けているのには深い意味がある、というより、例によって「深い意味があるっぽく見せて、実はなさそうで、やっぱりあるかも」なラカンの天才的トークの賜物ですから、あっさり「欲望を譲るなかれ」などと言ってしまってはラカンのエロさも台無しです。さらにフランス語のsurは英語のonのような意味もありますが、「シュールレアリスム」と言う時の「シュール」ですから、overというかaboveというか、上の方をびよーんと飛んでいってしまう感じがあります。それで「譲るな」ってどういうこと?と誰もが思うでしょうし、そう思うであろうことはラカンも知っていて、ラカンがそれを知っているだろうことをセミネールの聴衆なら知っている、ということをラカンも知っている(以下略)という、大変エロティックな文脈で語られている、ということを知っていて損はないはずです。 []