『アラブ政治の今を読む』池内恵 イスラーム的共存の可能性と限界


『アラブ政治の今を読む』 池内恵 『アラブ政治の今を読む』 池内恵

 『現代アラブの社会思想』に続いて、池内恵氏のアラブ論。時事的話題については既に「今」でもなくなってしまっている箇所もありますが、とにかく類例を見ないタイプの鋭利な論には一読の価値があります。また、時事的議論というのは、時間的な距離をおいて眺めるとまったく別様のテクストとして読める、という面があり、個人的にはむしろ時間をおいた再読を楽しみにもしています。
 最近すっかり魅了されている池内恵氏なのですが、Wikipediaの記述などで「反イスラーム主義者」とされているのに驚きました。確かに池内恵氏の議論は、日本の左派アラブ・イスラーム研究者にありがちな「反米の旗印としてイスラームを使う」ところがありません。過度にイスラームに期待せず、「第三極」的幻想を仮託しませんし、むしろ現実のアラブ政治を辛口に批判する部分も多いため、「とにかくイスラーム」な研究者からは「反イスラーム」に見られてしまうのかもしれません。
 しかし、少なくともわたしの読んでいる限り、アラブ政治についてもイスラームについても、かなり批判的な議論を展開しつつ、イスラームそのものを全否定するような主張をしているとは思えません。むしろアラブ・イスラーム内部の現実的な多様性や問題点を素直に受け止め、「近代」の内部で教育を受けた者として当然の批判を差し向けているだけでしょう。完全にファンタジーを排して異文化を眺める、などというのも能わぬ夢ですが、左派アカデミズムの外では当たり前のツッコミすら弾いてしまっていては、議論の大前提にもならないでしょう。そうした前提の上で、アラブやイスラームに対してこれからどういうスタンスを取っていくのか、はもちろん別問題ですが。
 逆にiza!の中の記事でサヨク呼ばわりされている箇所を見つけたのですが、もう笑うしかないので放っておきます。左派からも右派からも叩かれるのは良い論客の証です。松本健一氏なども同様に「両方から叩かれる」知識人です。

 前置きが長くなりましたが、『アラブ政治の今を読む』中の『「イスラーム的共存」の可能性と限界』を簡単にまとめておきます。

##

「イスラーム的共存」の可能性と限界

Ⅰ「イスラーム」をめぐる言説の混乱

1対話の出発点

国家レベルで友好親善への意志が表明されているにもかかわらず、社会のレベルで対立が生じる局面が存在する、という現実を出発点としなければ、あえて「文明間の対話」を論じる意味はない。

2日本のイスラーム研究の問題点
 日本のイスラーム研究者多数派は、日本におけるイスラームへの無知と偏見ばかりを批判するが、オイルショック以来三十年を経て「無知」が続いているとしたら、それはイスラーム研究者の責任ではないか。
 また「イスラームとテロリズムを同一視してはいけない」というが、それは「テロリズムを行う勢力はイスラーム世界の一部に過ぎない」という当たり前の事実を示しただけだ。

課題となっているのは、「イスラーム世界のごく一部分の要素がテロリズムを敢行した」という事実を前提に、「それが国際政治や経済にどのように影響するか、それに対してどう対処するか」ということである。

 思想と現実の混同も多く見られる。例えば「ジハードは防衛に限られる」ことから返す刀でアメリカを批判するが、「イスラーム思想」上の信念と「イスラーム世界」の政治・社会的現実は異なる。また「防衛に限る」という解釈も自明ではない。その戦闘が防衛であるかどうかは、誰が決めるのか。

Ⅱ規範テキストにおける「共存」の条件

1「ジハード(聖戦・努力)」と「キタール(戦闘)」
 ジハードという言葉がクルアーンにそれほど登場しないことを根拠にイスラームの平和性を訴える向きがあるが、この語を使っていなくても好戦的な記述は存在する。
 「ジハード」は本来「努力する」意であることから戦争を非イスラーム的とする論があるが、クルアーンでは戦闘的意味で使用されている箇所があり、どちらを強調するかは解釈の問題である。

2価値的・軍事的優位性の原則
 クルアーンには「共存」を命じる文言があるが、そこには一定の条件がある。

しかしもし向こうが止めたなら、(汝らも)害意を捨てねばならぬぞ、悪心抜き難い者どもだけは別として。

 クルアーンにおける「共存」は、イスラーム共同体が外部に対し、価値的・軍事的優位性を確保することが前提となっている。

Ⅲオスマン帝国の「不平等の下の共存」

1歴史研究の成果の再確認
 「イスラーム的共存」の制度的実現例として、オスマン帝国が挙げられることが多い。が、その「イスラーム的寛容」は対等者間の寛容ではない。

2現代的適合性

「かつてパクス・イスラミカ、そしてパクス・オトマニカを可能にしたイスラーム優位下における諸宗教の不平等の下の共存は、今日においては、もはや、共存の原理としてより、差別の原理として受け止められるであろう」(鈴木薫)

3恩恵としての改宗、比較の上での優位性
 イスラームの他者認識では、改宗の可能性を与えることが最大の「寛容」とされている。「イスラーム的共存」は中世ヨーロッパよりは優れていたかもしれないが、近代的視点ではやや見劣りする。

Ⅳカラダーウィーの「イスラーム的寛容」論

1「イスラーム的解釈」論の枠組みと「イスラーム的寛容」
 穏健派イスラーム主義者として知られるカラダーウィーの思想においても、「不平等の下の平等」が前提とされている。

2異教徒の権利
 カラダーウィーは、イスラームには異教徒に対する固有で特有な「寛容」性が存在し、それによって他の宗教に優越している、とする。

3「優越性」の根拠
 カラダーウィーは、非イスラーム社会においては、「人権」が標榜されてはいるものの実現されていない一方、イスラームの啓示法においては、宗教信仰により「寛容」の実現度が向上する、という。

4異教徒の義務
 イスラーム法が宗教を超えた普遍性を持つとされるのに対し、他の宗教については内面的な信仰と儀礼に限定されている。

5疑問への反駁
 中世キリスト教と対比される一方、政教分離的政治体制については、共産主義のような明白に宗教を圧迫した例だけが示される。

むすびに
 楽観的「共存」論の内包する「善意」の価値を高く評価しつつ、その相対化を進めるためには、イスラーム世界外部からの働きかけが必要である。

##

 大変舌鋒鋭いですが、深い教養とフィールドワークの上で、現代的視点から素直に眺めれば、こうした知見が導かれるのはむしろ自然ではないかと思われます。少なくとも「反イスラーム主義」などというナイーヴな論ではないことは、明々白々としているはずです。1

 と、せっかくマトモくさいことを言いかけたところで例によって私的キチガイ文脈に引き付けると、こうした不寛容と独善性を備えているものにこそ、むしろ魅力を感じます。イスラームの「寛容」をヒステリックに主張する左派論陣など、かえって信仰の権威を貶めているようにしか見えません。
 正確に言えば「一定の距離をとって眺めた時、不寛容で独善的に見える」ものです。互酬的共同体というのは近代的なロジックでは動いていませんから、中にいると独特の心地よさ(と鬱陶しさ)がある一方、端から見ると不合理そのものであることがしばしばです。宗教だけでなく企業などでも、そうした「濃い」社風のところがあるのではないでしょうか。
 そして信仰というものは、何より信仰共同体のものであって、信仰が信仰である限り、疎外された近代的合理で動いているわけがありません。それを「不寛容、独善的」という視点で切るのは、その宗教の性質云々というより、信仰というものに対して内側から経験するか、外側から経験するか、という出発点の違いが大きいのではないでしょうか。
 「文化・文明間での対話を図るなら、外からの視点で考えるしかないじゃないか」という論には一理ありますが、あらゆるバイアスを超越した外部など存在しません。どっちも内部なわけですが、例えば近代という思想はその内部に対する相対化においてより洗練されている、という差異はあります。しかし相対化されているのはあくまでも内部ですから、「わたしたちは相対化が得意なのよ」と外側に振り向ければ、ぶつかるものすべてが「不寛容」に見えるのは当然です。オリエンタリズムに外部などありません。
 それでも気取って力いっぱいメタ化する方もいらっしゃるかもしれませんが、わたしなら顔の見える「不合理な心地よさと鬱陶しさ」と心中する方を選びます。そして幸か不幸か人類の大多数は「進歩の気風」に富んでいませんから、わたしと同程度に「向上心のない」人たちのグダグダな結論から抜け出ることなどということは、今後千年はないだろう、と思っています。

 一応断っておけば、現代アラブの政治支配が「イスラーム的」であるなどとはまったく考えていません。イスラーム圏外に住むムスリムが「アメリカは嫌いだが、アラブの権力者はもっと非イスラーム的だ」と批判するのを目にしたことがありますが、アラブ権力者の腐敗ぶりは、欧米や日本の政治指導者の比ではないでしょう。
 また、わたしは現時点ではいかなる宗教団体にも帰属していませんし、ムスリマでもありません。

関連記事:
「「真のイスラーム」とタクフィール」
「身になることのできない相手との対話」
「わたしが原理主義者です」
「寛容さと共存の何が問題なのか」

  1. 不快感を覚えるムスリムもいることは容易に想像できますが、池内氏の立場からして、護教論的言説に流れれば、かえってイスラームのステレオタイプな理解を助長してしまうことをわかって欲しいです。 []