『現代アラブの社会思想―終末論とイスラーム主義』 池内恵


  『一神教文明からの問いかけ』に収録された池内恵氏のテクストが魅力的だったので、『現代アラブの社会思想』を読んでみました。
『現代アラブの社会思想―終末論とイスラーム主義 (講談社現代新書)』 池内恵 『現代アラブの社会思想―終末論とイスラーム主義』 池内恵
 前から気になりながら未読だったのですが、イスラーム関係では類書の思いつかないタイプの一冊です。

 日本のアラブ・イスラーム関係テクストは、(主に左派の)バイアスがかかりすぎているきらいがあるのですが、池内氏の文章は「贔屓の引き倒し」ではなく、イスラーム文化のみっともない側面も含め、ラディカルな取り上げ方をしてくれます。本書の主題もオーソドックスな「イスラーム文化」ではなく、かつてのマルクス主義や赤軍派との関係、そして現代イスラーム主義の最底流を流れるサブカルチャー的終末論。これらの「イカガワシイ」テクストがアカデミズムの文脈で取り上げられる機会は多くないと思うのですが、イスラーム主義的な潮流には確実にこうした「カルト的」要素もあるわけで、教養あるムスリムであれば蓋をしたい面までも視野に入れてこそ、「イスラーム理解(の困難さの理解)」につながるはずです。
 個人的にはむしろ「イカガワシイ」要素にこそ惹かれますし、逆説的にもサブカル的側面の方が、日本や西洋における「ノストラダムス」的世俗終末論や陰謀言説と通じ、入りやすい一面もあります。もちろんここだけ取り上げては最悪のバイアスになりますが、最終的に取り上げられるカルト教説の一部があまりに「トンデモ」なため、普通の読者がこれをイスラーム全体と同一視する、ということはむしろ考えにくいはずです。

 もちろん、池内恵氏は単に「イスラーム・カルト」の蒐集を陳列しているわけではありません。「サードパーティ言説」に着眼する意義は、次の一節に見事にまとめられています。

 イスラーム世界やイスラーム教に関する紹介書には、「イスラームとは単なる宗教ではなく人間関係や社会生活や政治にまで及び、イスラーム教徒の全生活を規定する包括的なシステムである」といった論じ方が多く見られる。これは信仰に立脚した世界観を説明したものとしては適切である。「イスラーム教徒はそう信じている」ということを伝えることには一定の意味があるだろう。しかし、現実のイスラーム世界の政治屋社会が「実際にそのように動いている」かのような印象を与えることは、宣教や護教論の立場に近づいてしまい、現実社会の認識をかえって妨げかねない。(・・・)
 「イスラーム教がイスラーム共同体の社会生活の隅々まで包括的に既定する規範を示している」という信念と、それにもかかわらず「共同体の規範を導き出す典拠となるテキストには政治的・社会的制度に関する規範が具体的に示されていない」という現実との間には、大きな乖離がある。宗教的信念と『コーラン』を中心とする典拠的テキストの具体的記述との間のこのギャップが、イスラーム主義の社会思想、特にその政治的概念に特有の形態を取らせる要因となっている。(下線引用者)

 この乖離、隙間こそが、良く言えばイスラームの柔軟さ、悪く言えば猥雑ないい加減さの宿る空間です。そして翼賛するにせよ否定するにせよ、イスラームを一枚岩かのように語る言説では、常にこの隙間の空間が無視あるいは軽視されています。イスラームはスーク(市場)の商人から生まれた宗教であり、とりわけこの「時価」の領域が肝となるはずです。猥雑なる政治的空間こそ、< 現実的なもの>の場です。
 興味深いのは、カルト言説が「ユダヤ陰謀論」といった程度に収まらず、ノストラダムスやUFO、バミューダ・トライアングルといった、西洋世俗社会のサブカルチャーを取り込んでいることです。
 そもそも、イスラーム主義・イスラーム復興は、単純な反西洋・反近代ではなく、むしろ伝統的ウラマー(イスラーム法学者)とは異なる、近代的高等教育を受けた人々によって担われてきました。伝統的なイスラーム教育を受けた人々からは、イスラーム言説のラディカルな解釈を提示し、反近代の旗印とするような主張はむしろ「反伝統」に映るのです。二十世紀前半のエジプトにおけるイスラーム主義運動「ムスリム同胞団」が体育教育などの西洋近代的要素を取り入れ、その筆頭の多くがスーツ姿で活動していることは、大塚和夫氏の『イスラーム主義とは何か』でも触れられています1。イスラームに限らず、< 反近代>は常に一旦近代のパラダイムを知った上で、遡及的に想定される「近代以前」への回帰現象なのです。
 既に近代を知ったわたしたちの地平には、どこにも裸で反近代・前近代なものは存在しません。近代に外部はなく、< 反近代>は近代の一部と言えます。それゆえ、< 反近代>の底流は近代の底流と通低し、サブカルチャー的要素が形を変えながら流入してくるのです。
 ただ、アラブ・イスラームにおけるこの現象がシビアなのは、その政治経済的閉塞状況ゆえに、捌け口としてのカルト的教説が権力によっても利用され、相当の権威を帯びてしまっている、ということです。しかし、「現実的」解決案が人心すべてを救うこともまたない訳で、非常に大雑把な捉え方をしてしまえば、反北朝鮮キャンペーンから大衆娯楽、恋愛ファンタジーに至るまで、結局人の心など何らかの慰撫的ファンタジーがあって初めて機能するものです。国家がカルト言説を利用する風景は「健全」とは言い難いですが、翻って日本や西洋諸国を眺めた時、わたしたちが「現実的」解決案と思い込んでいるものも、実のところ五十歩百歩なのではないか、と考えさせられます。

 本書は、パレスチナが「世界革命」の文脈から「イスラーム対ユダヤ・アメリカ」の語らいへと読みかえられていく過程、通俗的終末論の紹介が主となる一方、現実的アラブ外交の中枢で活躍するプラグマティックなテクノクラートも取り上げられています。割かれた紙数こそ少ないですが、アラブ・プラグマティズムは正に「商人アラブ」の真骨頂であり、イスラーム文明の外部にいるわたしたちとしては、狭義の(宗教としての)イスラームの外に位置づけられるこうした「アラブ性」も含めて眺めてこそ、有効な理解の射程を得られるはずです。
 そうしたテクノクラートの一人、サウジアラビアのヤマーニー元石油相の印象的な発言を最後にメモしておきます。

石器時代が石の枯渇で終わったわけではないでしょう。石油時代も石油が枯渇しないのに終わるかもしれませんよ。

 ユーモアと政治的センスを兼ね備えた素晴らしい一言です。要するにこういう人たちが「石油文明」を終わらせまいと画策しているわけです。
 ナイーヴに石油の枯渇や「地球温暖化」を語るエコロジスト(とそれを利用する左派政治家)は、こうした強敵の政治的腕力に習うところが多々あるはずです。
 ヤマーニーの図太いタヌキ面を見ていると、本当に枯渇するまで石油文明は続きそうな気がしてきますが・・。

  1. 『イスラーム主義とは何か』についてはこちらのエントリ参照 []