答えを見ることと考えること、コピペ問題、果敢なる教えてくん


 arkanalの日記:分からなければすぐ答を見よう

私は自分で考えるということに「こだわり」がありました。私は子どもの頃より理解力が高いと自惚れていたために逆にそういったことが過剰な自身になって「こだわって」しまったわけです。(・・・)
しかし、今はっきり言えるのは、「分からなければすぐ答えを見て考える」と格段に早いということなのです。とにかく、まず「答えを見る」。そして、それから「考える」のである。こういうことを私は20代後半のころに少し気がついた。で、答えを見てから考えるようにしてみました。そうするとうまく物事が行くのです。

世の中では、よく、安直に答えを見てたら思考力が育たないとか言われたりします。昔の私もそういうものを読んで、そうだそうだ、考えるのがエライのだとか思っていたりしたが、違うのです。答えを見てから、それがどうして正解かを考えることで思考力が育つのです。(・・・)いくら自力で考えても、その結論が世の中で正解とされていることとは外れていては冷や飯を食わされるのです。つまり主流から外れた答えを導き出す思考力というのはよほどのことがないとカネにならないのです。

 arkanalさんとわたしは、妙に自負心やらを抱えて育ち、色々学んだ割りに、結構なオトナになってから「こんなもんカネにならん!」とやっと気づいたりするあたり、少し似ているところがあると思うのですが、このエントリにはとても共感します1。わたしは「要領の良い方法」を知ってなおそれを裏切る、ということも大事というか面白いと思っていますが(arkanalさんにも時には「敢えて要領悪くやってみる」楽しみがあるのでは、と想像します)。
 わたしが「まず答えを見る」系の要領を習得したのは、プログラミングという仕事を通じてのところが大です。バリバリ文系でコンピュータなどまったく興味もなく、手っ取り早く日銭を稼ごうとしただけだったはずなのに、いつの間にやら開発者のハシクレとして糊口をしのぐ日々に馴染んでしまいました2。この商売で痛感するのは「大抵の疑問は既に誰かが考えた疑問であり、その疑問にはほとんどの場合もう答えがある」ということです。いわゆる「車輪を再発明するな」というヤツです3
 開発者なら誰でも知っていますが、書くのは最後の手段です4
 まず「もう書いてあるもの」を使いまわせないか調べて、書く場合も書かれたものをうまくパクり、それがダメでも調査に時間をかけ、頭を使うのは一番最後です。白紙に書くことではなく、再利用に頭を使っているだけですが。
 プログラミングを始めた当初は頭を使うのが楽しくて仕方なかったですし、そういう「楽しさ」がまったくないといくらなんでも仕事を続けるのが辛いと思うのですが、その楽しさをグッと噛み殺して「どうせこんなもん誰かがやってるんやん」と思って調べてみると、大抵本当に誰かがやっています。夢も希望もないです。オトナって厳しいです。
 ちなみに、体系的教育を受けた経験も性格的適性も微塵もない代わり、ほとんどの開発者よりは多少語学が堪能なので、新しいものの調査先遣部隊にはよく使って頂けます。有難いことです。

 こういう時に大変助かるのが、掲示板等での過去の質問です。
 多くの先人が時に恥を忍び、時に恥を恥とも思わず投げて下さった質問のお陰で、わたしたちは素早く答えにたどり着くことができます。
 webでは「教えてくん」は「ググレカス」と罵られるものですが、そういう無邪気というか無謀な人たちのお陰で、恥をかかずに済んだり「危ないところだった」と冷や汗かいている人が沢山いるのではないでしょうか。「教えてくん」はウザいですが、ウザい人がいてくれるから、自分がウザがられずに済んでいるのです。わたしたちはもっと「教えてくん」に感謝しなければなりません。

 と、そんなことを考えていた矢先にLife is beautiful: 自分で考える前にググっていませんか?というエントリが目に入りました。大学のレポートで同じ内容ばかりが提出されるので、調べてみたところこちらのブログのエントリ丸写しだった、というお話。

確信犯的に「徹底的に手を抜きたいからコピペしているだけ」ならまだ許せる。私が問題視するのは「自分で考える前にまずググる」習慣であり、「ググれば答えが見つかるにちがいない」という錯覚である。

 趣味と実益を兼ねてレポート代筆し「バイト学生」5をやったりしていたワタクシには、そんなオイシイところでコピペしてしまう学生の気持ちはサッパリわかりませんが、多分端的にやる気も興味もなくて、手を抜きたいだけなのでしょう。それをそのまま他人の目に触れるところに、というか正に読んでもらうために提出してしまう度胸は凄まじいと思いますが。
 そういう厚かましさが醜く不快である、というのは同感なのですが、どうもこのエントリの趣旨はそちらではなく、「自分で考えない」ことを諌めるところにあるようです。
 心情的には共感するのですが、「自分で考えない」こと自体を謗る理合はわたしにはありません。コピペの後で良いから「自分で考え」た方が楽しいとは思うのですが、それが賢明な選択であるかどうかは別問題だからです。
 学生の行いが世の中的に「間違って」いたとしたら、それはコピペが丸わかりの仕方で貼り付けてしまった、ということです。わからない程度にアレンジして張り付ける6。これができていれば彼・彼女らは十分「合格」でしたし、むしろそれ以上やることなど、ほとんどの場合望まれていません。
 「考える前にググる」こと自体は、妥当な適応です。わたしやarkanalさんより余程オトナです。卒業するまでに「考える前にググッたけれど、考えたっぽく見せる」技術を身に付ければ、(少なくともわたしよりは)立派なサラリーマンになれると思います。
 「ググッてから考える」習慣が付くと、うまくいけば一層の成長が望めますが、もしかすると「出る杭」になるかもしれません。
 専ら「ググる前に考える」ようでは、多分社会とはうまくやっていけません。少なくとも日本の社会、あるいは日本の会社とは今ひとつソリが合わないことでしょう。
 「中世ヨーロッパは聖書丸呑みで思考停止していたから科学が進歩しなかった」などというマンガみたいなコピペを披瀝されているのに、「考えろ」というのも奇妙です。むしろここで思考停止し、「中世暗黒時代」で話を終わらせているからこそ、この方は立派なオトナなのではないでしょうか。少なくとも、中世ヨーロッパの人たちと同じくらいオトナだと思います。

 だからといって、件の学生のような態度が美しいとは到底言えません。
 何がみっともないのでしょう。
 「みっともなくない」からです。
 答えを見るのに衒いがない、恥をかいていないからです。
 つまり「ググレカス」と罵られて、キチンとみっともない姿を晒していないからです。それが余計にカッコ悪い。
 「教えてくん」は、確かにカッコイイものではありません。でもそこで恥をかくことで、多くの人々の恥を未然に防いでくれてもいるし、何だかんだで人に愛されているのではないでしょうか。
 最近、「リアル教えてくん」とでも言うべき方が約一名いるチームで仕事をさせて頂いているのですが、この人は決して仕事ができないわけではないものの、妙なところが抜けていて「え、これがわかるのにこっちはわからないの?」というようなところをよく質問してきます。
 周りも面倒くさがってはいるのですが、雰囲気的に小動物っぽくて憎めないキャラのせいか、「また○○さんは」と言いながらも、皆彼のことが大好きなのです。また、時にはこちらがハッとするような疑問を果敢に提示して、他の人には真似できない種類の貢献を果たしていることもあります7
 丸ごとコピペの最大の問題は、仁義を通していないことです。
 仁義は面倒臭いです。仁義を通すくらいなら、考える方がまだ楽なくらいです。でも仁義を通すことで、彼または彼女は良き(あるいはそれほど良くない)質問者として、ただのコピペながら世界の知に貢献することができるのです。
 学生よ、コピペは良い。考えないでも、別に構わない。ただ、仁義は通せ。
「自力で書き上げられないのは一重に私の至らなさ故ですが、このレポートには卒業がかかっており、どうしても明日までに提出する必要があります。大変不躾ではありますが、貴ブログの文章を拝借させて頂けないでしょうか」
 くらいメールで送ってみなさい。
 ちなみにわたしには、卒業のかかったラテン語の試験で、似たような手紙を切々と綴って再試験を受けさせて頂いた恥ずかしい過去があります8

 例によって話がズレまくり論旨もへったくれもなくなりましたが、処世術だけなら「答えを見るだけ」「丸写し+丸写しがバレない技術」で必要十分でしょう。余計なことを考える人間は、むしろ歓迎されません。但し、キチンと恥をかなければ侠道に悖ると知りなさい。
 写した後で「考え」てみると、思わぬ収穫が得られることはarkanalさんの仰る通り。
 最初に考えるのは、大抵自殺行為です。

 と、散々皮肉っぽいことを書きましたが、この自殺行為が、一番カッコよくて、楽しいです。
 「考える」のは、成長の為でも社会貢献のためでも、まして「科学の進歩」のためでもありません。それはコンセントの横に置いてあるピンセットを、ついフラフラ~と差し込んでしまうような、無心の享楽です。
 根本敬なら「でもやるんだよ」と呼ぶ絶対零度の行です。

 『スポーツは身体に悪い』という名著があります。この著者はスポーツ否定派なのかというと、バリバリのスポーツマンなのです。
「身体に良いとか、セコい理由でスポーツをやるな。好きなら、身体に悪くてもスポーツしろ」。
 いや、そこまでは言っていなかったかもしれません。
 わたしが今言いましょう。
 アングロサクソンかぶれの今時教育みたいに「自分で考える力」なんてセコいことを言うな。思索はシグルイと心得、ただ侠道を歩むべし。

  1. わたしはarkanalさんのように真面目でもマメでもないですが。多分教養でも歯が立たないし、それからわたしは漢字がとても苦手です! []
  2. 万国の真面目もしくは夢溢れる開発者の皆様、申し訳ございません。でもお金が欲しいからやめません。 []
  3. 「敢えて再発明する」意義も時にはあります。学習的意味だけでなく、再利用をまったく想定していないものを無理やりツギハギするより、「再発明」した方が合理的な場合もあり得ます。ただ、そうしたケースは見た目の印象よりは、大分少ないものだと思いますが(「こんなもん一から書き直した方がマシやわ!」>「うわ、こんな罠があったんや、確かにこれはキレイにいかないね」)。 []
  4. うっかり偉そうなことを書いてしまいましたが、わたしは開発者としてはやる気も能力もプライドも一ミリも持ち合わせていませんから、ここに書いてあることは著しく間違っているかもしれません。興味のある方はやる気や能力やプライドのある開発者さんに伺ってください。 []
  5. バイトばかりしている学生ではなく、アルバイトとして「学生」をやる、の意。 []
  6. もちろん、これだけでも結構「頭を使う」。 []
  7.  梶原一騎さんの弟さんである空手家の真樹日佐夫先生が、三池炭鉱の暴動について、こんな話をされています。
     石炭産業が斜陽となった頃、今で言うリストラが行われることになりました。各班から一人、首切り候補を挙げることになります。一人出せと言われれば、当然一番仕事のできない人の名前が挙がります。
     こうして「ダメな人」が切られ、労働者全体の平均スキルが向上することになりました。しかし、今まで皆は、辛い労働の合間に「ダメな人」をからかったりして、良いストレス解消をしていたのです。こういう「ダメな人」がダメなりに職場に居場所を持ち、辞めずに働き続けていられるのは、大抵「からかわれ耐性」があるからです。もちろん、一歩間違えばただの職場イジメですから、こうした状況が丸く収まっているとは言いません。それでも、彼は彼なりのやり方でチームに貢献していて、それで全体のバランスが取れてはいたのです。
     リストラで個々の労働者の負担が増えた上、捌け口がなくなってしまったことが、暴動の発端だ、というのが真樹日佐夫先生の論です。
     この見方で暴動のすべてが説明できるとは思いませんが、「普段悪く言われている人」というのは、「悪く言われている」だけで価値がある場合が少なくないのではないでしょうか。
     「愛の反対は無関心」ではないですが、本当にヤバいのは悪口も言われない、いるのかいないのかわからない存在です。
     また、通背拳の常松勝先生が、修行時代の思い出について、こんな内容のことを仰っていた記憶があります。
    「技を覚えるために先生にかけてもらうのだけれど、自分がやられるとあっという間に叩きのめされてしまって、どうやってやられたのかよくわからない。だから仲間と交互に『やられ役』になって、技を盗むんだ」。
     この時常松さんの代わりにコテンパンにされた兄弟弟子は、今は普通の料理人か何かになっているのかもしれませんが、きっと少なからぬ仲間に今も感謝されていることでしょう。
     神様だって、この人のことを一番ご覧になっていると思います。 []
  8. この時学んだラテン語はキレイさっぱり忘れ、その後の人生で一度も役に立ったことがありませんが、何か難しいことを勉強しなければならなくなった時に「ラテン語に比べれば」と思い出すことで、ちょっと支えになってくれている気がします。いや、そんなことの為に語学を学ぶのはやめた方が良いですけれど・・。 []