アッラー、神、主


 藤本勝次さんらによるクルアーンの翻訳(※1)では、アッラーフが「神」と訳されています。平易で読み易い「聖典」という配慮からでしょう。井筒訳では、オーソドックスに「アッラー」です。
 よく「アッラーの神」といった表現を耳にしますが、イスラームにおいては神と言ったらアッラーフしかないのですし、アッラーフAllaahの語源は、英語で言えばThe GodにあたるAl Illaahが訛ったもの、という説もあります。ですから、「アッラーの神」というのは不自然であって、いっそ「神」とだけしてしまう、という流れもよく理解できます。
 ただし、「神」と訳出することで「アッラーフのアッラーフ性」が日本語的によく表現できるのか、というと、いささか疑問です(別段翻訳の批判をしたいわけではなく、純粋に神様のことを考えている)。


 一つの理由は、アッラーフはセム系一神教の「人格神」であって、抽象的・観念的な「神的存在」ではない、ということです。もちろん、イスラームにおいてもスーフィズムやシーア派では単純に「人格神」とは捉えないでしょうし、キリスト教においても、神の人格性を捨象する哲学的なアプローチや汎神論が激しい弾圧を受けてきたことは周知の通りです。とはいえ、「人格を持つ超越的一者」が原則なわけで、「アッラー」という、日本語文脈では固有名詞性が際立つ表現を採ることにも理があります。
 これは「アッラーの神」を「不自然」とする立場と早速矛盾しますが、この矛盾はセム系一神教自体に含まれる問題です。だからこそ「哲学的な神の証明」や神秘主義が生まれ、そして弾圧を受けてきたのです。「聖典の宗教」には、それ自体のうちに「宗教の宗教性」を破ってしまうポイントがあります。そしてクルアーンが翻訳を嫌う理由や、キリスト教とマルクス主義の関係にも大いにこの「内部の内部における外部」が関係していると思われますが、長くなるので一旦保留します。

 もう一点は、日本語における「神」の語感です。
 godと言えば「神」なわけですが、日本語の「神」はどうしてもgodsを許容する「神」を連想させます。そして「神々」ならぬ「神」を思考しようとすると、今度は純粋に観念的な「神的存在」をイメージしてしまいます。人格を持たない「霊的なもの自体」や、「神即自然」等です。
 この「神々」と「抽象的霊性」の二者択一は、日本人と信仰について色々考えさせてくれます。よく「日本人は無宗教」と言われますが、むしろ、「宗教」として特記され意識されるような宗教と「神」が、ズレて配置されているのではないでしょうか。「宗教」「信仰」としてイメージされる「強い宗教」が中央にあるとすれば、右手に「神々」、左手に「神即自然」がある。わたしたちは「神々」を、例えばイスラームにおけるような強烈な「神」だとは考えません。非常に緩い、神仏混合の文化的集合にすぎません。「神即自然」がある種の信仰の対象になることもありますが、これも通常、「強い宗教」における信仰のように全身を預ける「宗教」にはなりません。
 「神々」は元より「文化」に近いものですから、「宗教」「信仰」について思考しようとすると、まずは真ん中にある「強い宗教」を考えます。しかし、外来性が強いせいか、ちょっと小賢しい人間なら、すぐに聖書やクルアーンの神の「人格性」が鼻につき、純粋に抽象的な霊性や汎神論、あるいは無神論(※2)へと移行してしまいます。
 わたしはカトリック色の強い環境で育ったのですが、当時の友人の一人が聖書の記述を取り上げ「神様が本当にいるなら、こんな細かいことをグチグチ言うわけないじゃないか」とこぼしたことがあります。わかりやすく頭でっかちな子供だったわたしにも、似たような思いがありました。本当の神様は、純粋に透明で、羊の締め方など一々指図しないのではないか、という感覚です。
 しかし羊の締め方を指図するものこそ、セム系一神教の神なのです。人格を持ち具体性に満ちた超越的一者。この現実性、リニアに地平が広がるというより、個物がブツブツに切断されたまま置かれるような時間観、そこにこそセム的リアリティがあります。
 これを考えると、イスラームの中でもイスラーム神秘主義やシーア派といった、一見「過激」なイメージのあるものの方が、むしろ日本的なものと親和するように思えます。彼らはクルアーンをある種の隠喩と捉え、その向こうに抽象的なものを感じ取ろうとします。非常に乱暴な言い方をすれば、「二元的一神教」なのです。
 もちろん、実際にはそんな単純なわけがないのですが、いくつかの「譲れないポイント」さえおさせれば、日本人にとっては、これらの「イスラーム左派」の方が仲良くなりやすい気がします(わたし個人は異なりますが)。アラブよりは、ペルシャ的なものです。

 肝心の「神」の話からズレてしまいました。
 「アッラーフ」を「神」と訳することには一理あるけれど、日本語の「神」は「アッラーフ」からかなり遠いのではないか、というのが言いたいことでした。
 では、どのような言葉だったら「アッラーフ的」なのでしょうか。
 伝統的に「アッラー」とカタカナ表記すれば十分ですし、一般的な訳語としては不適切なのですが、わたしは「主」という言葉を連想します。
 これはキリスト教の文脈でよく使われる語ですが、「絶対的一者だけれど、人格がある」もののイメージがよく表れていると思われます。「神」は「神々」でも許容できるのに、「主」は一人でないとダメで、簡単に乗り換えたりしてはいけない、そんな語感があります。儒教的文脈から生まれた語イメージなのかもしれませんが、「主」の方が「神」より縛りが強い、というのはちょっと面白いです。

 繰り返しますが、これは翻訳の批判ではありませんし、まして「アッラーフを『主』と訳そう」などと提案しているわけではまったくありません。
 アッラーフ(というより、セム的な強い神)を理解し近づきたい、という想いから、糸口を探している内に思いついたことです。
 「神」と言われてピンと来ない、という方は、絶対の「主」だと思ってクルアーンや聖書に取り組んでみてはいかがでしょうか。

※1
前回も書いた通り、クルアーンは翻訳を原則として認めないため、厳密には「解釈」の一種。

※2
無神論と、信仰を持たないことは異なります。日本人の多くは「特に宗教を持たない」かもしれませんが、別段「無神論者」ではありません。信仰という選択肢自体を、基本的フレームワークの中に持っていないのです。無神論者になるためには、一旦「強い宗教」を経由する必要があります。

イスラーム関連記事:
「『コーラン』井筒俊彦」
「『聖典「クルアーン」の思想』大川玲子」
「大川周明とイスラーム、日本のイスラーム化と「さておかれない冗談」」
「日本のムスリム社会、日本人ムスリム」
「『アメリカの中のイスラーム』 大類久恵」
「『イスラーム戦争の時代』 内藤正典」