『ムスリム・ニッポン』東京モスクと亜細亜主義

『ムスリム・ニッポン』 田澤拓也 『ムスリム・ニッポン』 田澤拓也

 危険なまでの面白さです。
 「イスラーム」「亜細亜主義右派革命勢力」という、わたしのために選ばれたような素材であるから、というだけでなく、ジャーナリストらしい実に読ませる文章です。いずれか一つ、あるいは「イスラームと日本」ということにだけ興味のある方でも、必ず面白く読める、とお約束できます。
 イスラームと亜細亜主義と言えば大川周明で、当然ながら本書でも紙数が割かれているのですが、王道すぎて初見のエピソードもほとんどなかったため、むしろ無知だった東京モスク設立の経緯が特に印象に残りました。

“『ムスリム・ニッポン』東京モスクと亜細亜主義”の続きを読む

モテ/非モテと侠気、一枚目

 主に「はてな」界隈で「モテ/非モテ」に関する議論をしばしば目にします。たまたまわたしの巡回しているブログでそういう話題が多いだけかもしれませんが、以前からこの話がさっぱり面白くない、というか、一体なぜそんなことに少なからぬ人(少ないのかもしれないし、よく知らない)が関心を持つのか、理解できないでいました。
 でも、ひーらーちゃんぷるーさんの「さよならオナニー」はちょっと面白かったです。
 「振った女を殴る代わりに社会運動にした」というフルカツ氏、それを政治的DVと読む大野氏、さらにこれに対し「それを言っちゃぁすべての政治がDVでしょ」とツッコみつつ「フルカツさんは本当に振った女を殴りたかったのか?」と微妙に話の焦点のズレたところに頭を使ってみる瀧澤氏。この話のズレ加減だけでも興味深いです。

 「モテ/非モテ」ということが話題にされている度に疑問に思っていたのは、そもそも「モテる」という基準というかパラメータのようなものが存在するのか、ということです。
 わたしも「モテ」という言葉を使うことはありますが、それは「モテを上げるっ!」とかハシャいでハイになってみる、といった程度のことで、ネタとしか思っていません。
 仮に「意中の異性とお付き合いできる率が高い」ことを「モテ」だと考えてみると(多分この還元はズレていますが ※1)、「うまくいく」かどうかはその人に本性として備わった「モテ」なる属性が決めるのではなく、ただ単に行動するか否か、そしてその時その時の行動で「首尾よく」振舞うか、あとは運が決めることです。
 瀧澤氏は、「好意を持った女性には、常に口説きまくりんぐ」だそうですが、イロコイなどというものは九割方勢いで決まるもので、「口説きまくりんぐ」で行けば結果的に「うまくいく」ことも多いでしょう。もちろん、失敗することもあるでしょうが、口説かなければ、男性の場合ほぼ100%失敗です。大抵の女は押しに弱いですから、押して押して押しまくれば、そのうち洗脳にかかってなんとなくコロッといってしまうことも多いのではないかと思います。失敗したらどんどん次に行って、成功体験を積んでいけば、成功率も高まっていくことでしょう(※2)。
 技術も重要ですが、技術は実践と成功体験から獲得するものなのですから、行動しなければ始まりません。すべてとは言いませんが、多くの自称「非モテ」な人は、単に行動しないだけなのではないか、と想像します。
 ただ、これで話が終わるわけではなく、すぐに思いつくポイントが三つあります。「思い入れ」と社会的抑圧、そして容姿の問題です。

“モテ/非モテと侠気、一枚目”の続きを読む

音読と黙読、「内面」と読誦

 黙読と音読、そして「内面」について、ハッとさせられることがありました。きっかけはマイケル・クック『コーラン』の次の一節です。

(クルアーンが詠唱されることについて)他の宗教と比較すると、これはまったく珍しいことではないと分かる。ヘブライ語聖書やヴェーダも詠唱される。ブッダは弟子に、ヴェーダのような様式で聖典を詠唱しないようにと言ったが、それでも彼らは詠唱している。実際のところ、自分の正典的テクストを詠唱しないプロテスタントのキリスト教の方が、風変わりなのだと考えるべきだろう。

 シャリーア(イスラーム法)的には「クルアーンの読誦は善、音楽は悪」らしいですが、詠唱は明白に「音楽的」です。つまり、

黙読 < 音読 < 詠唱 < 歌 < 音楽

 というラインが考えられます。
 わたしたちは「読む」というとまず「黙読」ですし、小学校か中学以外の場面で「音読」する機会はあまりありません。というか、電車の中で音読していたらかなり迷惑です。
 黙読と音読の差異は「音として聞く」段階にあります。音読している人がいたらその声は聞こえる、ということですが、同時に「自分の声を自分で聞く」ことでもあります。
 重要なのは、「自分の声を自分で聞く」時、「発声する自分」と「聞く自分」の間に論理的時間差がある、ということです。読む< わたし>と聞く< わたし>にはズレがあります。< わたし>が読んでいる時、その< わたし>は聞いていない。聞いている< わたし>はただ「声」に身を預ける< モノ>となっている。つまり、思考としての< わたし>とモノとしての< わたし>、という主体の分裂が、音読には潜んでいます。詠唱や歌における恍惚感は、< モノ>になる享楽とつながっています。

 しかし実は、黙読であってもわたしたちは「声」を聞いています。

“音読と黙読、「内面」と読誦”の続きを読む

デブと移民

 昨日、数少ない友人の一人(というか義兄弟)と電話していた時のこと。
 彼女はまだ学生で、しかもド田舎に住んでいてほとんど電車に乗らないで済む素晴らしいご身分なのですが、こんな話題になりました。

「あのね、わたしこないだ電車に乗っていて思ったんですけど」
「ん?」
「カッターシャツ着てお腹の突き出た太った人とかいるじゃないですか。ああいう人って、どうしてあれで電車に乗れるんでしょうね。わたしやったら、引きこもるか何かすると思うんですけれどね」

 素晴らしい! さすが我が同胞!
 わたしが毎日毎日毎日毎日ハラワタ煮えくり返るような思いでいることを言ってくれました!
 わたしが絶賛し、「とりあえず30kg痩せるまでは選挙権剥奪すべきやね」と言うと、

“デブと移民”の続きを読む

ムーサとアル・ハディル

 クルアーンと並んでイスラームにおいて重要なテクストに、ハディースがあります。ハディースは言わば「ムハンマド言行録」で、預言者の身近にいた人々の証言を様々な伝承で伝えるものです。ハディースについても、気に入ったところはクルアーン筆写にポストしようかと思っていたのですが、余りにも魅力的な一節があったため、ここに引用しておきます。なお、文中「ムーサ」とは、ヘブライ語聖書のモーセのことです。

“ムーサとアル・ハディル”の続きを読む

イスラームは「砂の思想」なのか

 クルアーンを読んでいて目についたポイントの一つに、ベドウィン(アラブの遊牧民)の扱いがあります。
 クルアーンでは何度か、ベドウィンについて今日的に言えば「差別的」表現が表れ、「信用ならない者」として記述されています。
 わたしたちはイスラームというと「アラブ、砂の民」を連想してしまいますが、ムハンマド自身はマッカの商人であり、都市生活者です。そしてイスラームはベドウィンの部族的信仰の否定として始まったのであり、安易に「イスラーム=砂の思想」と位置づけることのできない複雑な背景がここにあります。
 クルアーン翻訳者の井筒俊彦さんも、『イスラーム文化 その根柢にあるもの』(※1)で次のように仰っています。

砂漠的人間とは、具体的にはひとつの場所に定住せず、広漠たる砂漠をたえず移動しながら遊牧生活を送るいわゆるベドウィンのことでありますが、イスラームを興した預言者ムハンマドは(・・・)、決していま申しましたような意味での砂漠的人間ではなかったのであります。彼は商人でした。マッカとマディーナ(*)という当時のアラビアとしては第一級の国際的商業都市の商人であり、商人としての才知をいろいろな局面で縦横に発揮した人間であります。(・・・)同じアラビア人といいましても、砂漠の遊牧民と都市の商人とでは、メンタリティーも、生活感情も、生活原理もまるで違います。砂漠的人間であるどころか、預言者ムハンマドはまさに砂漠的人間のいちばん大切にしていたもの、砂漠的人間観の価値体系そのものに真正面から衝突し、対抗し、それとの激しい闘争によってイスラームという宗教を築き上げたのであります。
(*最初「メッカとメディナ」という旧来の表現をしたあと、本来の発音に近いこちらに言い換えられているため、この表記とさせて頂きました)

“イスラームは「砂の思想」なのか”の続きを読む

アッラー、神、主

 藤本勝次さんらによるクルアーンの翻訳(※1)では、アッラーフが「神」と訳されています。平易で読み易い「聖典」という配慮からでしょう。井筒訳では、オーソドックスに「アッラー」です。
 よく「アッラーの神」といった表現を耳にしますが、イスラームにおいては神と言ったらアッラーフしかないのですし、アッラーフAllaahの語源は、英語で言えばThe GodにあたるAl Illaahが訛ったもの、という説もあります。ですから、「アッラーの神」というのは不自然であって、いっそ「神」とだけしてしまう、という流れもよく理解できます。
 ただし、「神」と訳出することで「アッラーフのアッラーフ性」が日本語的によく表現できるのか、というと、いささか疑問です(別段翻訳の批判をしたいわけではなく、純粋に神様のことを考えている)。

“アッラー、神、主”の続きを読む

『コーラン』井筒俊彦

『コーラン 上   岩波文庫 青 813-1』 井筒俊彦 『コーラン 上 岩波文庫 青 813-1』 井筒俊彦

 現在日本で入手しやすいクルアーンの翻訳(※1)は三つあり、一つが岩波文庫収録の井筒俊彦さんの訳、中公クラシックス収録の藤本勝次さんらによる訳、もう一つはムスリム三田了一さんによる翻訳です。このうち三田了一訳はムスリムを対象としたアラビア語対訳本です(日本ムスリム協会から直接入手する形になるようです)。
 よって一般的な「日本語訳」は井筒訳と藤本訳の二つということで、よりスタンダードなのは井筒訳ですが、そもそも翻訳のスタイルが好対照を為しています。各翻訳の傾向については前にご紹介した大川玲子さんの『聖典「クルアーン」の思想』が詳しいのですが、受ける印象としては、井筒訳は「口語訳」、藤本訳は「平易な聖典の翻訳」。井筒訳は「口語」と言っても現代的な話し言葉という意味ではなく、いかにも「聖典」といった当時の文語的翻訳スタイルに対する「口語」であり(※2)、一定の格調を保ちつつ、アッラーフがムハンマドに「語りかける」というクルアーンの様式をよく反映したものとなっています。
 これに対し、藤本訳はアッラーフも「神」と表記し、文体もクセがなく、岩波文庫的な割註も入らないため、見た目にもキレイな翻訳です。キリスト教聖書で言うと新共同訳のようなイメージです。
 どれを取るかは好みや目的次第でしょうが、わたしが通読したのは井筒訳。依然圧倒的に教養の足りないわたしにとっては、丁寧な割註は便利ですし、何より井筒先生のドライヴ感溢れる文体に惚れました。こういう口調のクルアーン翻訳というのは、世界的に見ても珍しいのではないかと思います。
 井筒先生の文体を伝えるために、解説の中から一部引用してみます。

“『コーラン』井筒俊彦”の続きを読む