家に帰ると、妻が知らない男と寝ていた。
 二人はすぐに私に気付いたが、とっさに交合を解けないようで、私も妻も男も、数秒の間惚けたように固まっていた。それから私はゆっくりと戸を閉じ、部屋を出た。私は一言も言葉を発することなく、表情も変えないで家を出ると、もと来た夜道をゆるゆると歩き始めた。
 背後で妻の声がしたような気がしたが、よく聞き取れなかった。私はただ夜の住宅街を、機械仕掛けのように歩いていた。
 私達の住む町は、正確に四角に区切られたブロックが延々と続く、新興住宅街だ。国道まで出ないとコンビニすらないような、ベッドタウンである。
 どのくらい歩いたのか、私は公園にいた。ベンチに腰掛けてひと息付いた。ブランコとシーソー、小さな鉄棒と砂場があるだけの小さな公園だ。周囲は、寝静まり、物音一つしない。吐く息が白く、ただブランコの鎖が冷たく光っている。
 ふと見ると、私の正面に十代半ばくらいの少女がしゃがんでいるのに気付いた。一瞬前まで気配すらなかったのに、少女はずっとそこに生えていたかのように私を見つめていた。話し掛けくるわけではなく、膝を抱えてただ私をじっと見ている。
 少女は季節に合わない薄手のワンピースを着ていた。光の加減で深緑にも見える長い髪がまっすぐに伸びている。私は少女の服の胸元が弛んで、覗けそうになっているのに目が離せなくなった。少女の胸の膨らみが見えそうで見えないでいるのが気になって、無遠慮にじっと見つめかえしてしまった。
 突然少女が立ち上がり、公園の隅の方に向かって走り出した。ミニ丈のワンピースから覗ける白い足が月明かりに光っている。少女の行く方を目で追うと、公園の一画が異様な蔦の群生で被われていて、そこだけが違う惑星の原生林のように見える。少女はその蔦の中に入ると、ふっとかき消すように消えてしまった。
 私は立ち上がって、ゆっくりと蔦のある方へ歩いて行った。見ると、蔦の中に草でできたトンネルがあって、それが斜下の方に向かってずっと伸びている。丁度すべり台状の非常用脱出チューブのようで、どこまで続いているものか見当も付かない。しかもトンネルを構成する蔦は、まるで触手ようにゆっくりと動き続けている。私は逃げ出そうとも思ったが、不思議と足が動かず、誘われるようにトンネルの中に身を投じてしまった。
 一旦入ると、トンネルの内側はつるつる滑って、とてもゆっくり伝って降りられるようなものではない。私は諦めて、思いきってウォータースライダーのようにチューブの中を滑っていった。
 トンネルは時折緩やかに曲がりながら、どこまでも続いていた。耐えきれない程加速したところで程よくカーブがかかるので、ほぼ一定の速度で滑り続ける。そうしてしばらく下ったところで、はっとチューブの先が開けた。
 そこには先ほどの少女が横たわっていた。私は咄嗟に避けることが出来ず、まともに少女の上に飛び下りてしまった。そのまま二転三転し、私の身体はようやく転がるのを止めた。
 そこは相変わらず夜の住宅街にある公園だった。同じように周囲は静まり返り、ブランコの鎖だけが外灯に光っている。それでも、何かが少しずつ違っている。遊具の配置が異なるし、隣に建っている家も別の家だ。微妙に異なる新興住宅街が上下二層に重なって造られているようだった。
 少女は倒れたまま動かない。そっと歩み寄ると、唇の端から血を流して死んでいた。
 取りかえしのつかないことをしてしまった、と思い、血の気が引いて行くのがわかった。が、周囲に人陰はない。このまま逃げ去れば、誰も目撃者はいない。私が殺したとは誰にも分からないだろう。早く逃げなければ、と思った。しかしそう思うと、急に捲れ上がったワンピースから見える少女の身体が気になり出した。
 私はじっと少女の太股を見つめていたが、思いきってそっと手を触れてみた。まだ暖かい。しかし何の反応もない。ゆっくりと少女の服をまくってみた。少女は布切れのようなワンピースの下には何も身に付けていなかった。私は少女の乾いた陰部に手を伸ばした。そうしてさらさらとした陰毛を指に巻き付けると、思いきって引っ張ってみた。陰毛が何本か抜けて、手の中に残った。私はそれをポケットにしまい、捲れ上がった服をそのままにして、公園を後にした。
 しかし一体ここがどこなのか見当も付かない。何の特徴もない住宅街の一画のようだが、いくら歩いても宅地から抜けだせない。綺麗に整備された宅地は縦横の道路に区切られていて、その無機質な区画がどこまでも続いている。
 ほとんどの家が変哲のない二階建て住宅で、大抵の家には灯がともっている。しかし物音は全くしない。まるで人の気配がない。車の音もしなければ、虫の声すらしない。どこかの家で道を訪ねようかとも思ったが、何かとんでもない事になるような気がして出来なかった。私は気味が悪くなって、とにかくこの町を早く抜け出そうと、ひたすらまっすぐに歩き続けた。
 いつまで経っても住宅街は終わらなかったが、公衆便所を一軒見つけた。まるで人の住む建物のような立派な造りで、築後間もないように見えた。デパートのトイレのように清潔な便所だった。私はとりたてて尿意があった訳でもなかったが、歩き疲れていたので、その便所に足を踏み入れた。
 中に入ってみると、そこには小便器がなく、大便器だけがいくつも剥き出しで並んでいた。便器の間はユニットバスにあるような半透明のシャワーカーテンで仕切られているが、丸見えも同然である。私は女子便所に入ってしまったのかと思って確かめたが、入り口は一つしかなく、男子とも女子とも表示がなかった。
 もう一度中を覗くと、やはり大便器だけが並んでいる。それも三十はくだらないだろうという数が、二列になって続いている。便器には蓋がなく、便座だけがあり、傍らにレバーがある。どの便器も滅菌処理を施されたかのように清潔だ。私は手近な便器にそのまま腰掛けた。
 ふと、便所の奥の方で人の気配がした。よく見てみると、薄暗い便所の一番奥に、人がいるようだ。気付かれないように近付くと、シャワーカーテンの向こうに、壁に寄り掛かって立つ人陰がある。影は女のようで、立ったまま時折身体をくねられせている。私は女が自慰に耽っているのだと悟った。
 私は息を飲んで、そのまま女の自慰の様子を眺めていた。カーテン越しには女の容姿も恰好もはっきりとは分からないが、無人の便所の中に女の吐息が響いてくる。私は便座の傍らに身をかがめて、凍り付いたようにその様子を眺めていた。
 次第に足が痺れ、バランスを崩した拍子に、レバーに肘がかかってしまった。音を立てて水が流れる。女はやっと私に気付いたようで、カーテンの向こうで固まっている。私はとにかく便所を出ようと思ったが、凄まじい勢いで水が流れて来て、それが一向に止まらない。見る見る間に水が便座を溢れ、床に流れていった。
 私は何とか水を止めようとしたが、便器の水は変わらず滝のように溢れてくる。女はカーテンの向こうで息を潜めたままだ。水は便所の床を覆いつくし、靴を濡らしてきた。私はもう何もかも捨てて逃げ出そうと思い、水の上を走って便所から飛び出した。
 便所から出ると、遠くでサイレンの音がした。先ほどまで全く生気がなかった住宅街が、にわかに活気づいているようだった。しかしそれは人間の気配というより、何か見知らぬ生物達が蠢いているような様子だった。どの家からも何か物音が聞こえ、それがただ普通に暮らしていて出るような音には聞こえなかった。総ての家で一斉に夫婦喧嘩が始まったような陰惨な物音だった。いくつかの家では動物のような叫び声が上がっていた。それでも、道路には依然として人陰がなかった。
 私は急激にせき立てられるような不安に包まれ、全力で道路を走り出した。サイレンの音がますます大きくなり、包囲するように四方から響いてくる。しばらく走ると、住宅街のまん中を一文字に線路が貫いていた。踏み切りも何もなく、唐突に線路だけがあった。見ると、線路の上を貨物列車が走ってくる。貨物列車は私の前まで来ると減速して、コンテナの一つで扉が開いた。
 中には見覚えのあるベレー帽の初老の男がいて、早く早くと手招きしていた。私は何も考えずにコンテナに飛び乗った。男が扉を閉めると、途端に電車は加速して、一直線の線路を進み始めた。
 ベレー帽の男は知人のように見えたが、誰だか思い出せない。探偵のような恰好をして、眼光が鋭い。沢山の人間を見続けてきた男だ、と直観した。
 男は内ポケットから何枚か写真を出すと、それを私に見せ、私の妻でないか確認してきた。それは先程の少女の遺体の写真だった。少女は写真の中で、陰部を曝したままの格好で無惨に横たわっていた。しかしよく見てみると、それは間違いなく私の妻の姿だった。
 私はもうお終いだ、と思い、正直にそれが妻であることを認めた。すると男は何も言わずにコンテナの隅の麻袋の上に腰を下ろした。男はポケットから煙草を取り出して火を付けると、言った。
「大丈夫、一命は取り留めたよ」
 私はほっとすると同時に、溢れ出る涙を止めることが出来なかった。何もかも正直に話そう、と思った。家に帰ったら妻にも謝らなければならない。あの家にいた男とも、よく話せば友達になれるのではないか、と思った。
 
 
初出:単行本『ゴルバチョフ機関』(2003年)
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