オットー・リリエンタールとイルカの歯医者さん


 大西洋遥か上空の闇を切り裂きながら、オットー・リリエンタールは睡魔と闘っていた。
 史上初の飛行機による単独大西洋横断をめざし、ライアン単葉機<スピリット・オブ・セント・ルイス>がニューヨークを発って、既に二十時間余りが経過していた。食欲は用意したサンドイッチにより満たすことが出来たが、それが彼を襲う睡魔をより一層強力なものにしていた。彼の単葉機には軽量化の要請から正面に窓が無く、ミラーによってかろうじて視界を保つ設計であった。ミラーから窺う上空には満点の星空があったが、下は漆黒の海、彼の意識もまたその闇の中に何度もとけ込もうとしていた。その度に彼は故郷デトロイドで待つ両親、兄弟のことを思い、そして飛行学校時代の苦難を思い出しては自分を勇気づけていた。
 彼がこの挑戦に至る苦難は並大抵のものではなかった。勇気は無謀と解され、嘲笑は彼の家族にまで及んだ。しかし彼の兄弟達は決して彼を責めはしなかった。周囲の人間が彼の狂気を疑った時も、兄弟達は静かにオットーのことを見守り、励ましてくれた。
 大西洋上空のビロウドの夜の中で、彼は左手で自分の太股をつねり、自分自身を叱咤した。耐えろ、オットー。今誘惑に負けたら今までの戦いは何だったのだ。自分はそれでもいい。しかし今まで謂れのない嘲笑にも負けず信じ続けてくれた家族、友人の思いを裏切るわけにはいかない。戦え、オットー、飛ぶんだオットー!
 しかしよく考えるとそれはリンドバーグのことだったので、オットー・リリエンタールには何でもないことだった。

 ひとしきり自分の苦しみを打ち明けると、オットーは恐る恐る先生の目を盗み見た。ヒゲノ閣下先生は軽蔑と諦めの混ざった視線を眼鏡の奥から発しながら、カルテの隅に三種類のクスリの名前を書き込んでいた。「貴方は今、ギリギリの所にいますね。つまり、これ以上いくと帰ってこられなくなる、丁度境界の場所です。クスリをお出しするので、試しに飲んでみて下さい。寝る前に一錠ずつ三種類飲んで下さい。では」
 耳元で小さな声がした。
 飛ぶんじゃないの、オットー?

 オットーはキチガイ扱いされながらも、空を飛ぶことを諦めなかった。村の人々は誰一人としてオットーをまともな人間としては見ていなかった。優しくしてくれる人がいても、その瞳の奥には隠しようもない侮蔑の光が潜んでいた。精神科医であるヒゲノ閣下先生ですら、あからさまにオットーを蔑んでいた。それでもオットーは空を飛ぼうとしていた。翼の形を変え、実験に実験を重ね、ただ大空に羽ばたくことだけを夢見ていた。しかし彼は失敗し続け、村人達はますます彼を疎んじた。
 ある年のクリスマスの夜。オットーの元にもトナカイに牽かれるサンタがやってきた。オットーは完璧なグライダーをサンタに期待していたが、靴下の中に入っていたのは平凡な向精神薬二週間分であった。しかも彼等は、オットーが夢見て止まない空中散歩を、翼も動力もなしでいとも容易にやってのけていた。オットーはうらやんだ。不条理だ、非科学的だと思うよりも前に、ただただ空を飛べる彼等が羨ましかった。
 憮然としながらプレゼントを受け取るオットーに、サンタはその豊かなヒゲをなでながら言った。
「君に必要なのは空を飛ぶ事じゃない。しっかりと地に足をつけて生きることだ。そうだ、君には特別にこれをあげよう」
 そう言ってサンタが手渡したのは、α波ミュージックのCDだった。ジャケットには白衣を着たイルカのイラストがあしらってあった。イルカは歯医者の使うような反射鏡を額につけ、そしてヒゲがあった。

 オットー・リリエンタールにはヒゲがなかった。

 向精神薬を飲むのは不思議な体験だ。効いてくる感触が不思議だというのではない。そんなものは何回か体験すれば慣れてしまうし、自分の精神の一部がある種の脳内物質の増減によって簡単に変化してしまうということを自覚するだけだ。不思議だというのは薬が効いてくる前の話だ。
 コップに水を注ぎ、何種類かの錠剤と共にそれを飲み干す。早ければ十数分、遅くとも一時間以内には自分は別の人間になっている。しかし今はそうではない。この待ち時間が不思議だ。神が降りてくるのを待つような時間。
 薬が効いてくると、今までの苛立ちがウソのように消えていく。嵐のようだった心が凪のように静かになってくる。同時に柔らかい睡魔が体全体を覆っていく。あちこちからレーザー光線のように飛んできていた他人の思念が消えてなくなっていく。心の中には穏やかな自分自身だけがある。誰も自分を責めていない。誰も自分を馬鹿にしていない。焦りもない。不安もない。自分が安らいでいることを他人も自分も誰も責めない。永遠に続くような平和。
 それでも小さな声がする。大きな声でがなり立てるのでもなく、情報を空間化して一気に送りつけるのでもなく、弱々しい呟くような小さな声がする。いつもの声とはまるで違う、無視されることを前提とするような弱い声がする。眠っている恋人に静かに語りかけるような声がする。「もう寝た?」と問うような絶対矛盾の小さなつぶやき。耳を澄ます。
 飛ぶんじゃないの、オットー?

 百二十二回目の飛行実験の失敗で、オットー・リリエンタールは前歯を失った。グライダーの失速と同時に丘の斜面に突き出た岩に顔面から突っ込んでしまったからだ。歯を折ったくらいで済んだのは奇跡的だった。
 訪れたクリニックの歯科医はイルカだった。しかもヒゲのあるイルカだった。オットーはこのイルカの歯医者さんをどこかで見たような気がしたが、思い出せなかった。そんなことより、今回の失敗の原因を探るので頭が一杯だった。歯医者を訪れたのも顔面を血で染めて丘から帰ってくるオットーを、見かねた村人が無理矢理連れてきたからだった。
 やがてオットーの名前が呼ばれ、白い長椅子のような診察台に彼は言われるままに横たわった。強力なライトをかざされ、ヒゲのあるイルカの歯医者さんの顔がのぞき込んできても、まだ彼はグライダーの事を考えていた。治療の方法を検討する声もどこか遠くで響く外国語の会話のようだった。やがてドリルが細い唸りを上げ、再びイルカの歯医者さんの顔が天井を覆い隠した。突然、両手両足に金属製の枷をはめられた。初めから長椅子に仕込んであった枷が、電気仕掛けで彼の四肢を捉えたのだ。
 オットーは身動きできなくなった。それでもオットーの心はグライダーにあった。痛くないですよ、という声がどこか遠くで聞こえた。瞬間、激痛が彼の体を貫いた。
 オットーは悲鳴を上げ、一気に現実に引き戻された。抗議のために声を声を上げようとすると、またドリルが彼の口内を抉り出した。口を閉じようとすると額と顎をベルトで固定され、口の中に綿を詰められた。イルカの歯医者さんは沢山の鋭利な道具でオットーの口を固定し、再びドリルで彼の歯を削りだした。神経に直接穴を開けるような激烈な痛みが彼の体を貫き、オットーは失神した。
 頭から冷水をかぶせられ、オットーは目を覚ました。再び開いた視界を強力なライトの光が埋め尽くした。イルカの歯医者さんは容赦がなかった。麻酔は、麻酔は、と叫ぶオットーの声を無視して、再びドリルが唸りを上げた。少し痛いですよ、という声が終わらないうちに、またも素人のバイオリンを聞くような神経の痛みが始まった。
 オットーは絶叫し、怒り、それが通じないと分かると泣き叫び、許しを乞い、四肢を緊張させ、それにも疲れて無防備に激痛にさらされ、失禁し、失神した。その度にイルカの歯医者さんは彼を現実に呼び返し、いつ果てるとも知れない治療が続けられた。

 一体どれほどの時間、この責め苦が続いていたのか分からない。オットーは何度となく意識を失い、再び取り戻した。現実の総ては暴力的な光と耳をつんざく金属音、全身を貫く激痛だった。逃げては引き戻され、襟首を捕まれ引きずり倒されるように何の救いもない現実に直面され続けた。
 今自分に意識があるのか無いのかも分からない。治療用ライトは瞳孔を狭窄させ、光と闇の区別も付かなくなった。ただどこか遠くの方で、イルカの歯医者さんの声がした。豊かに蓄えられたヒゲの感触が顎の辺りを微かにかすめた。
「治療は完了しました。よく頑張ったね」
 目を開いても、そこは相変わらず闇の中だった。手足の拘束は解かれているようだったが、相変わらず自由ではなかった。狭く息苦しい空間に無理矢理詰め込まれているようだった。それでもオットーはそれほど窮屈には感じなかった。自由を奪われながらも解放されている感覚があった。微かに風を感じた。耳元で風を切る音が聞こえ、それが音楽のように音程を変えながら遠くになったり近くにやってきたりした。それでも視界は漆黒の闇のままだった。
 オットーはゆっくりと首を左右に動かした。何もなかった視界の隅に微かな光が映った。光は暗闇の中でゆっくりと上下していた。船の上から眺める星空のように揺れていた。しかしその星空は次第に光を強くし、天上ではなく眼下に迫ってきていた。
 オットーの意識は研ぎ済まされていった。少し寒いと思った。同時に体の奥の方から外気に抗するような暖かみが伝わってきた。知覚が空間を浸食していった。もう誰の声も聞こえない。誰も自分を責めてはいない。自分は一人だ。一人であると同時に人とつながっている。しかしそれは向精神薬のもたらすまどろみとは違っていた。意識ははっきりしていた。オットーは完全に覚醒していた。同時に不安も苛立ちもなく、自信を持って一人で立っていた。オットーは飛翔していた。
 妖精のような小さな声がした。飛ぶんじゃないの、オットー? 
 飛ぶさ、オットーは声に出さずに答えた。眼下に光が迫っていた。
 翼よ、あれがパリの灯だ。
 
 
初出:文藝別冊「J文学をより楽しむためのブックチャート」(河出書房新社 1999年)
単行本『ゴルバチョフ機関』収録
※このテクストが気に入った方は、はてなID you1453 にポイント送信寄付をよろしくお願いいたします。