ボートピープル


 池田君の実家を訪ねることにした。
 池田君は以前バイト先が一緒だった友人で、そのバイト先が潰れた後、長い間職がなく、とうとう実家に引きこもってしまったのだ。
 以前抑鬱性神経症を患っていた彼は、現在でも覇気に乏しく、無口で大人しい。様々な技量と優しさを持ちながら、仕事を探しに出ることすらできなかったのも、この性格のせいだろう。
 長い無職生活の間、彼は自分の篭り癖をなんとかしようと、ただひたすらに散歩を続けたこともあるという。多くを語らないが、今でもカウンセリングを受けたりしているようだ。
 しかし決して人嫌いな訳でないことは、一緒に働いた時を持つ私には分かる。池田君は、恐ろしくシャイなだけで、心の底では人との接触を求めている。私にはそんな池田君が愛おしく思え、実家に帰ってしまった後でも、心配でならなかった。
 別の友人との間で、彼のことを「野生のタヌキ」と呼んでみた。野生のタヌキは、庭先に置かれたエサを拝借することはあっても、決して人の手から直接食べることなどない。それでも彼はきっと、エサを置いてくれる人間のことを悪くは思ってはいない筈なのだ。
 そんな彼の実家は、隣県の聞いたこともない小さな町にあった。乗り継いだ先の電車は、二両編成の単線列車だった。まるでバスのような小さな列車が、山間を抜けて、時折無人駅で静かに扉を開く。乗降する客はほとんどいない。駅を辿るにつれ、乗客の数も次第に減っていく。
 辿り着いたのは、小さな港町だった。メールで尋ねた住所を頼りに、彼の家を探す。労せずして、池田家は見つけることができた。駅から歩いて十分ほどにある、小さな古い木造二階建て住宅だった。
 玄関先に、池田君は姿を現した。いつものように、力ないが、確かな微笑みを浮かべて、私を招き入れてくれた。
 家は本当に小さく、まるでプレハブのオモチャのようだった。それも相当に古い作りで、台風でも直撃されたらひとたまりもないように見えた。壁の素材が、厚いダンボールのような不思議な素材で出来ているのが奇妙だった。
 池田君の部屋は二階にあった。というより、二階にはその部屋一つしかないのだ。しかも部屋の中には古い型式のマッキントッシュが一台あるだけで、何の飾り気もない。まるで池田君の心象風景を映し出すかのように、ガランとした部屋だった。
 両親は外出中のようで、私と池田君は二人きりになった。異様なまでの静けさだった。この家だけではなく、町全体が過疎化の為に活気を失っているようだった。そういえば、池田家に着くまでに、ほとんど人にすれ違うこともなかった。見かけるのは半ば幽霊のような老人の姿だけだった。
 池田君の無口も手伝って、部屋はますます寒さを増していた。私が土産の菓子を出すと、池田君は小さく「ありがとう」といって、梱包を解いた。私達は、何かの儀式のように、静かに菓子を食べた。
 私はなんとか池田君の心を開きたかったが、私自身、決してコミュニケーションの巧みな方ではない。彼程ではないにせよ、どちらかと言えば話すのが苦手な口なのだ。私と彼はほんの一メートルほどを隔てて対座していたが、その距離は無限に開いていくようだった。
 私はやや無理のある笑みを浮かべ、こう提案した。
「散歩にでも行こうか」
 池田君も気まずさを感じていたようで、また弱々しい微笑を浮かべて同意してくれた。
 外に出てみても、やはり人気はなかった。まだ秋口の筈が、冬のように寒々しかった。抜け殻のような空家ばかりが目立った。朽ちた木製の電信柱の上で、ハシボソガラスが細く声を上げた。
 しばらく歩くと、小さな港に出た。港といっても、腐りかけた漁船が数隻停泊しているだけの、オモチャのようなものだ。かつては活気ある漁村だったのかもしれないが、今では地図からも消え去ろうとしている、そんな港だった。
 池田君は、彼なりに気を使って、子供の頃に遊んだ場所などを案内してくれた。テトラポットの上に飛び乗る彼は、いつもよりは活気に満ちて見えた。私にはそんな些細なことが嬉しかった。私も一緒にテトラポットに乗り、すれ違うように手の甲を触れあわせたりした。
 彼は飛び石のようにポットを亘り、漁船の上に乗り込んだ。そこから振り返り、私に手招きした。私はおぼつかない足どりで彼の跡を辿った。
 漁船は、今はもう使われていないのか、ただ魚臭い匂いを漂わせるだけで、総ての備品が錆を浮かせていた。その船が、緩い波に揺られて、静かに上下していた。
 そういえば、彼の父は漁師なのだろうか。池田君は、とても漁師の息子には見えない。公務員だという話を聞いたような覚えがあるが、記憶が定かではない。それでも、少年時代の遊び場が港であったのは間違いないのだろう。彼は微力ながら目を輝かせて、漁船の内部へと私を誘った。部品の一つ一つに触れ、追憶を辿っているようだった。
 突然、船が大きく揺れた。私はバランスを崩し、倒れそうになった。それを池田君が支えてくれた。彼の手の温もりは、いつもの印象と違い、熱く私の背中に伝わった。
「大丈夫?」
「うん」
 船の搖れはおさまらなかった。突然に風が強くなったようだった。
「ちょっと見てくるね」
 池田君は私をおいて、船上に上がった。彼の背中がシルエットになって、低い空に映った。
 その姿が、佇立したまま動かなくなった。しばらく待ってみても、何一つ口にしない。私は心配になって、彼を追って甲板に上がった。
 驚いたことに、船は港を離れて、海上をを漂っていた。もやいが弛んでいたのだろうか。既に港は数百メートルは離れて、波の間に小さく揺れていた。
「池田君!」
 私は動揺して声をかけたが、彼は返事をしなかった。ただその目は、いつもとは異なり、力強く輝いていた。長い間、この時をまっていたかのような希望に満ちあふれていた。
 風が強くなっていた。灰色の空は、雨が近いことを予感させた。私は不安になり、彼の腕につかまって再度呼び掛けた。
「池田君」
 彼はやっと私を振り返った。逞しい男の顔つきだった。
「大丈夫」
「でも……」
 彼は本当に何も心配していないように、船首の方に向かった。そこで船頭のようにすっくと立ち、荒れ始めた海の彼方を見つめた。
 私は心配と混乱で、何をしたらよいのか見当もつかなかった。ただ池田君だけが頼りだった。しかし考えてみれば、彼に操船の技術があるとはとても考えられない。このまま手をこまねいていれば、ますます沖へと流されるばかりだ。
「池田君」
 私は必死で呼び掛けた。彼はゆっくりと振り返り、暖かい笑みを浮かべて言った。
「来る」
 何のことだか分からなかった。だが一瞬の後、突然の恐慌が古い船を襲った。
 何かが群れとなって、海面から飛び出し、船の上に飛び込んできたのだ。私は慌てて頭を覆い、うずくまった。とどまることなく、次から次へと細長いものが海からジャンプしてきた。
 よく見ると、マルアジのようで、イカも混ざっていた。どういう訳かわからないが、魚とイカの大軍が、飛び魚のように船に飛び乗ってきたのだ。甲板には累々とその魚体が積み重なっていく。成す術もなかった。
 そうこうする間に、魚の重みで船が傾き始めた。私は必死で船の一部に捕まり、なんとか振り落とされないように踏み止まった。池田君は相変わらず何の支えも要することなく、力強く船首に立っていた。
 船はますます傾き、魚の群れは止まる所を知らず、沈没は時間の問題だった。
「沈む、沈むよ!」
「大丈夫」
 池田君はポケットからライターを取り出し、船体に火を放った。湿ったはずのボロ船が、枯れ草のように爆発的に燃え上がった。
 すると甲板の魚たちはビチビチと飛び跳ねながら、火を避けるように船から滑り落ちていった。新たな飛翔も止んだ。
 しばらく経つと、火は自然に消火した。甲板上の構造物は総べて灰になり、ボディの部分だけがかろうじて残っていた。しかし、傾いた姿勢は相変わらずだった。これ以上傾斜を強くすることはないにしても、漂流の状況は何も解決されていなかった。
 それでも池田君は、何かに導かれているかのように、確信に満ちた目をしていた。傾いた甲板に座り、じっと海の向こうを見つめていた。
 既に日は落ちかけていた。このまま夜になってしまえば、事態はますます悪くなるに決まっている。しかしどうすることもできなかった。
 壊れかけたイカダのようになった船の上で、私と池田君は二人きりだった。
 天啓のように奇妙な考えが浮かんだ。ここで池田君とセックスすれば、救われるかもしれない、と。それは密かに私が望み続けていたことだった。しかし人一倍臆病な彼がアプローチしてくることなど考えられず、私からも何も言い出せないでいた。だが、今の彼なら、何かしてくれるかもしれない、そんな気がした。
 池田君が私を振り向いた。私の心臓が高鳴った。
「キューバだ」
 彼は宣言した。
「寒い海を通って、キューバに行くんだ」
 池田君は栄光に満ちていた。私は彼に総てを任せるしかない、と思った。何故か、既に妊娠しているような至福に包まれていた。
 
 
初出:単行本『ゴルバチョフ機関』(2003年)
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