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小説

 小野先輩が道場を開いていた。
 小野先輩は、昔世話になった拳法道場の先輩で、その道場でほとんど唯一本当に強い格闘家だった。小さな道場で、道場主もそれほど実力があるとも言えず、趣味で拳法を学ぶ程度ならともかく、小野先輩のような才能ある人物がなぜこんな町道場でくすぶっているのか不思議なほどだった。
 その後わたしは拳法から遠ざかってしまったが、風の便りで先輩がその後他流派に移り、タイや中国に修行を積み、多くの戦績を上げて遂に自分の道場を開くまでになったことを知った。インターネットで検索してみると、たくさんのトロフィーに囲まれた先輩の笑顔があった。他流に移ったのだから、道場主の先生とはいざこざがあったかもしれないが、身近だった先輩の成功を見るのは嬉しかった。
 その冬の空の低い日、電車を乗り継いで先輩の教える町を尋ねた。小野先輩はわたしのことを覚えてくれていて、歓迎してくれた。ずっと疎遠だった兄弟弟子の何人かの顔もあった。
 「久しぶりに、一緒に稽古しないか」。
 でもわたしは、その前に家庭教師のアルバイトに行かなければならなかった。アルバイトが終わったらすぐに稽古に参加しようと、胸を踊ろせながら一度道場を後にした。

 アルバイトに向かう途中で、大学が学祭を開いていた。
 母校もすぐそばにあったが、別の私学の学祭だ。校門の周りは人だかりになっている。
 学生らしい男が寄ってきて、屋台のチケットを買わないか、と話しかけてきた。ひょろひょろで無精髭を生やし、髪を金髪に脱色してへらへらと薄ら笑いを浮かべた、少し軽薄そうな男だった。少し学祭を覗いってもいいかと思い、一枚だけチケットを買おうと思った。
 すると男は、手招きして校門とは別の方向に連れていこうとする。
 なぜチケットがすぐに売れないのか不審に思ったが、付いて行ってみると、校門の先を曲がった路地のところに、何台も錆び付いたバスが並んでいる廃車置場があった。急に空気が冷たくなった。ベージュのロングコートの襟を立てる。
 男は廃車置場にわたしを連れ込もうとしている。麻薬取引にでも使われていそうな薄暗い場所だ。アルバイトもあるし、拳法の練習にも行きたいのに、わたしは苛々してきた。
 「大丈夫、ここが安いんだ」。
 見ると、廃バスの一つにホームレスのような男が住んでいて、学生はその男と何か話している。バスの男は、薄汚くホームレス風ではあるものの、屈強で目に力がある。バスの中には生活用品がたくさんあり、ここに住んでいるらしい。また、座席には古本やレコードが山と積まれている。
 学生はわたしから三千円取り上げ、バスの男のところに戻り、何か交渉をまとめている。
 学生が戻ってくると、ヤニで黄色くなった歯を見せてニカッと笑い、得意げにDVDを差し出して見せた。
 「三千円で十枚だ」。
 それはアメリカのシチュエーションコメディのDVDで、わたしが少し興味を持っていたものだった。
 ただ、興味と言っても、語学の学習に使えるかと思っていた程度で、DVDを買ってまで見たいものではない。そんな怪しげなDVDに断りもなく三千円とられて、わたしは腹が立ってきた。
 学生は素早くわたしから逃れ、得意げな薄ら笑いを浮かべて廃車置場から走り去った。急いで追いかけると、角を曲がったところで下りの急坂になっていた。学生はいつの間にか自転車に乗って、物凄いスピードで坂道を下って逃げていた。
 急いで後を追ったが、到底追いつけるものではない。坂が急すぎて、うっかりすると転げ落ちてしまいそうなくらいだ。しかもどこまでもどこまでも不気味な下りが続いている。

 もう拳法の練習に間に合わないかもしれない。せっかく昔の仲間たちと一緒になれたかもしれないのに、どんどん時間が過ぎてしまう。
 走り疲れてトボトボと歩いていると、いつの間にかオフィス街のようなところに出た。
 八丁堀か、東京駅の近くのように見えた。
 あるビルの前に、とても背の高い体格の良い二人連れがいた。その一人が、高校の同級生の小野寺くんであることに気づいた。
 「小野寺くん」。
 小野寺くんはすぐにわたしが分かった。
 しかし小野寺くんは、確かに体格が良かったものの、こんなに背は高くなかった筈だ。今の小野寺くんは、二メートル近い体躯で筋骨隆々、スキンヘッドで赤黒い肌をして、赤鬼のようだ。分厚い肌で、白く粉を吹いているところがある。しかも、アメリカのインディアンのような模様が顔に描かれている。
 一緒にいるのは女性だったが、その女性も赤鬼のようで、天をつくような長身だった。彼女も顔に呪術的な模様を描いていた。
 ただ、二人とも服装はカジュアルな普通の格好で、背にスタイリッシュなリュックを背負っている。
 自転車でメッセンジャーのような仕事をしているらしかった。ビルの前に、競輪選手が乗りそうな細い自転車が二つ立てかけてある。
 小野寺くんは仕事の用事があるようで、わたしを置いてビルの中に入っていった。鬼の頭がてらてらと光った。
 一緒にいた彼女の鬼が、威圧的な体躯に似合わない柔和な笑みを浮かべてわたしに微笑んだ。
 「心配ないわ、大丈夫よ」。
 人里離れた僻地で自給自足の生活を送っている家族の、強い母のような微笑だった。
 その微笑を見ると、とろけるような安心感を覚えたが、同時にまた、何か収まりのつかないものがわたしの中にあった。
 それは拳法の練習に間に合わないということなのだろうか。きっともう手遅れだ。皆んなのところには戻れない。もう時間が経ちすぎてしまった。ちっとも大丈夫じゃない。
 しかし収まりのつかないのは、何か別のことのような気がする。
 そうして考えて、わたしはふと思いあたり、赤面した。恥じらいで赤鬼のような肌になった。
 「大丈夫」。
 彼女はそう言って、わたしはどんどん取り込まれそうになる。
 それは性的な愛撫を受けて、意に反しながら快楽の頂に導かれているようだった。

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