「わからなさ」と性感帯の話をもう少し続けます。
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池内恵さん1が日本のアラブ・イスラーム研究の「イスラーム贔屓」を批判して「日本人が有難がるイスラームの不思議なところは、大抵当事者にとってはどうでもいいことで、現地の人々が大切にしているものは、日本人にはさっぱりわからなかったりするものだ」ということを仰っています。池内さんは時に反イスラーム主義者として批判されることもあるようですが、わたしの読む限りでは率直で素朴な意見を述べているに過ぎないように見えます。何でも研究していれば愛着が沸くもので、現在アラビア語修行中の身としては「アラブに強い愛着を持たなければこんな言語を到底マスターできない」とも感じます(笑)。ですから、逆に言えば、おそらくは大変な勉強の末現在の学識に至った池内さんが、愛着バイアスを能うる限り振り切ってハタから見たようなことを口にされるのは、強さの証なのではないか、とも思います2
実際、「アラブ的なるもの」に多少なりとも接していると3、時に「サッパリわからない!」ということに出会います。そのわからなさが、もう取り付く島もなく最初からわからない、というのならまだ良いのですが、「こう来て、こうなって、その挙句こうか!」というように、途中までは連続的・物語的に了解できるのに、ある一点にバサッと切られるような飛躍があると、呆然とさせられます。
これが「宗教の気持ち悪さ、家族の気持ち悪さ、ザラザラしたものの発見」で言いたかった「ザラザラ感」なのですが、こうしたものは当然アラブに限ったことではなく、例えばアメリカンジョークなどにも言えるでしょう。
一般にお笑いというのは文化的固有性の最も高い領域だと思いますが、アメリカンジョークの中には笑えるものもある一方、文字通りの意味が取れ、かつ「どうやらこの辺がツボらしい」というところまではわかるのに、どうしてそんなにゲラゲラ反応できるのかサッパリ理解できない、ということがあります。ポイントは「途中までついていけるのに、急に切られる」感じです。
これは病気の犬に似ています。
動物を飼ったことのある人なら、犬猫でも人間同様、というか人間以上に「通じる仲良し」になるのがよくおわかりでしょう。ところが、一旦病気になると、突然犬猫というのは豹変します。さっきまで「通じる」感じだったのが、急にメカのような昆虫のような、さっぱりわけのわからない物質に変容してしまうのです。これは結構恐ろしい経験です。
動物でなくても、病というのは時に激烈に生き物を変えてしまいます。痴呆症の方を身内にお持ちの方は、似た経験をされているのではないでしょうか。
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sho_taさんが「誤解こそ理解」と「誰が書いたのか問題」についての一考察でとても面白いことを書かれているのですが、今一歩のところで通念に引っ張られて、ミスリーディングになってしまっている感があります。「まだどこかに自律的な主体がある」かのような印象を与えてしまっているのです。
ようは相手に興味を持たせるには、まず自分をミステリアスな存在だと思わせろということであり、ラカンという思想家はこれが悪魔のようにうまかったわけです。
そのラカンが「エジプト人の謎はエジプト人にとっての謎」といった言い回しをしていたのをsho_taさんは覚えていらっしゃると思いますが、あれほどエロティックで人を狂わせるラカンであれば、自分で何を言っているのかもよくわかっていなかったのでしょう。
「お前、自分の言っていることがわかっているのか」という非難の表現がありますが、重要なことを口走る時、大抵わたしたちは自分の言っていることがわかっていません。ただ、わかっていないということがわかっていないのです。代わりに「わからない」ことに誰かが気づきます。つまり、誰かが「わからない」とわかります。これがトラップされた方の人です。
ここで大切なのは、トラップされた人は確かにトラップされているのですが、トラップを仕掛けた本人などというものは存在しない、ということです。魔法は誰もかけていません。喋っている当人は、「わからない」ということすらわかっていないのですから。
ただ彼または彼女は、「わかっていない」が故に問いを立てない。立てないから、代わりに誰かが立てる。答えのないところに、問いを立ててしまうのです。
ラカンが「悪魔のように」意味深な語らいが巧みだとしても、魔法はかけていません。かけようとしたのかもしれませんが、多分、わたしたちはその魔法にはかかっていません。強いて言えば、ラカンは魔法の使えない悪魔です。悪魔なので魔法にかからず、彼がスルーした魔法にわたしたちがヤラれているのです。
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「バカわかる転移&愛 まとめ」1で「頭のいい人は、難しいことも簡単に書けるはず」問題から「わかる/わからない」へと流れていったエントリ群を列挙してみましたが、特に後半に挙げたいくつかのエントリが面白いのは、「説明対象」と「説明方法(説明自体)」に対し、第三項の果たす役割が意識されているからです。
「説明対象」と「説明方法(説明自体)」の二者のみの語らいでも、純粋な自然科学的アプローチ、あるいは社会の約束事のような水準での議論なら十分有効でしょうが、この二項のみを独立したものとして最初に立ててしまうと、その時点で箱庭を設定してしまうことになります(逆に自然科学的思考では箱庭の設定が必要になる)。
sho_taさんの「『頭のいい人が書く文章』問題について考えている」に反応します。
(「頭の良い人は難しいことをわかりやすく書けるものだ、理解ができないような難しい文章を書いている者はバカである」といった意見があるが)
「何が書いてあるかよくわからない文章に出会う」ということ、そしてそれを「理解しようと思うこと」ないしは「書いてるヤツがバカなんだ」と断じてしまうことは、おそらく「学び」というものに対する本質的な作用と態度に通じる(気がしている)。
(・・・)
「すでに知っていること」が書かれている文章なら、普通、読む気は起きない。「興味深く読む」という時は、たいてい「そこには自分のまだ知らないことが書かれている(ことが確信できる)」という状態だ。
(・・・)
つまり、「(その文章を読んだ時点での)自分には理解できない文章を読む」という行為に必要なのは、読解力とか論理構成能力とか経験とかよりも、信仰心とか好奇心のようなものが重要なのだろう。
sho_taさんが「一目惚れ」と言い、コメント欄で草さんが転移とハッキリ言ってしまっている通り、テクストの読解に人を向かわせる力は、「まだ何かがある」予感、余白=周縁mergeへと投げ出される欲望、「この人はわたし以上にわたしを知っている」、つまりsujet supposé savoirの想定から来るものでしょう1。
草さんはわかって書いているはずですが、一応補足しておけば、想定される「作者」とは狭義のニンゲンの作者である必要はありません。現代のコンテクストではそれを「作者」と呼ぶことが一般的であるだけです。重要なのは「読まれることを予感していた者が誰かいる」ということです。無人島の砂浜に足跡を見つければ、それは記号signeですが、足跡を消した跡があるとすれば、それはsignifiantである、つまり「主体」が想定される、ということです2。
件のsho_taさんのテクストも含め、関心を持つ人の多くがこのあたりは了解済みのように思われるので、以下ではエッジのオイシイところだけ断片的に取り上げます。ここまででもかなり端折っている気がしますが、その辺を埋める地味な仕事はA型後衛タイプの草さんがやってくれる予定なので、省略して走る役に徹します。
現在日本で入手しやすいクルアーンの翻訳(※1)は三つあり、一つが岩波文庫収録の井筒俊彦さんの訳、中公クラシックス収録の藤本勝次さんらによる訳、もう一つはムスリム三田了一さんによる翻訳です。このうち三田了一訳はムスリムを対象としたアラビア語対訳本です(日本ムスリム協会から直接入手する形になるようです)。
よって一般的な「日本語訳」は井筒訳と藤本訳の二つということで、よりスタンダードなのは井筒訳ですが、そもそも翻訳のスタイルが好対照を為しています。各翻訳の傾向については前にご紹介した大川玲子さんの『聖典「クルアーン」の思想』が詳しいのですが、受ける印象としては、井筒訳は「口語訳」、藤本訳は「平易な聖典の翻訳」。井筒訳は「口語」と言っても現代的な話し言葉という意味ではなく、いかにも「聖典」といった当時の文語的翻訳スタイルに対する「口語」であり(※2)、一定の格調を保ちつつ、アッラーフがムハンマドに「語りかける」というクルアーンの様式をよく反映したものとなっています。
これに対し、藤本訳はアッラーフも「神」と表記し、文体もクセがなく、岩波文庫的な割註も入らないため、見た目にもキレイな翻訳です。キリスト教聖書で言うと新共同訳のようなイメージです。
どれを取るかは好みや目的次第でしょうが、わたしが通読したのは井筒訳。依然圧倒的に教養の足りないわたしにとっては、丁寧な割註は便利ですし、何より井筒先生のドライヴ感溢れる文体に惚れました。こういう口調のクルアーン翻訳というのは、世界的に見ても珍しいのではないかと思います。
井筒先生の文体を伝えるために、解説の中から一部引用してみます。