ナシール・シャンマとウードの標準化


 「アラブの音を聴け」で常味裕司さんのウードを初めて聞かせて頂いた(というか初生ウード)のですが、アラブ音楽素人にとって一番有名なウード奏者と言えば、ナシール・シャンマ
 常味さんには失礼なのですが、ナシール・シャンマの圧力は確かに尋常ではないです。
 のんびりした「民族音楽」なイメージでは全然なく、「イングヴェイ・マルムスティーンかっ」な超絶テクを見せてくれます。



 ナシール・シャンマは特別に現代的な「革命児」らしく、おそらくウード界的には異論や批判もあるのではないかと思います。わたしのような素人が「カッコイイ!」と思うということは、逆に言うと伝統的なウード奏者やウード愛好家にはウケが悪いのかもしれません。
 ナシール・シャンマはウードの「標準化」も画策しているそうです。
 伝統楽器であるウードは一本一本手作り、奏者に合わせて百本あったら百通りのウードがあるような世界らしく、「集まってセッション」というような状況ではチューニングが合わないやら面倒な一面があるそうです。常味裕司さんによると、ナシール・シャンマはウードの弦長を統一しようとしている、とのこと。
 当然ながらこれには批判もあって、当の常味裕司さんも「違っていて欲しい」といったことを仰っていたのですが、それが「外側」からの見方であることは氏自身もとても自覚されていて、心中複雑なようでした。
 ウードそのものから話がズレますが、常味さんから感じられたのは、こういう「可哀想なくらいの頭の良さ」で、自分が「所詮日本人」であること、それでも余りあるウードへの愛との葛藤に対して、過剰なまでに相対化されています。もっとバカになって突っ走っちゃってもバチは当たらない気がするのですが、身体一つで異文化と体当たりしてきたからこそ、そういう視点に立たれるようになったのでしょうか。
 「標準化」に戻れば、世の流れとナシール・シャンマの影響力を考えればいずれそういう方向にまとまっていく気がしますし、悪いことだとも思いません。正直、こうした「統一」に対して、ナイーヴに「多様性」をぶつけるリベラル思想には辟易しています1
 「標準化」を徹底して進めたとしても、どのみちバラつきは生じます。コーディング規約なんて最後まで読んだことのない、わたしのようなゴミ人間がいるからです。
 いや、そういうズボラは脇に置くとして、仮に「標準化」に皆が皆そろっていそしんだとしても、必ず「失敗」は起こります。失敗は失敗ですから、狙ってやったものではありません。あくまで「うっかり」です。神の介入です。
 「わざとじゃないです、神様がっ」と言い訳すると「ハンガリアン記法すんなタコ!」と怒鳴られるのでしない方が身の為ですが、人の意志を越えた現象で謂れもなく人が責められながら、適度に「標準化」が崩れていくくらいが丁度なのではないか、と勝手に信じています。

 ちなみに、上のナシール・シャンマの映像でふと気付いたのですが、常味裕司さんとは右腕の角度が違いますね。常味裕司さんは弦に対してほぼ水平に構え、ウードを抱きかかえるように演奏されていたと思うのですが、ナシール・シャンマはギターのような角度で、ウードをキープする位置も低いです。
 これはチュニジアとイラクの違いなのか、ウードの違いなのか、単なる個人的な趣味なのか、興味が沸きます。

  1.  以下のエントリなど参照。
    「寛容さと共存の何が問題なのか」
    「ラディカル・デモクラシーと「ただの民主主義」」
    「ドリトル先生と差別、なぜ多様性も「アイデンティティ」も無効なのか」 []