『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』 ノイズと完全な視覚


B000FQWH14 エリ・エリ・レマ・サバクタニ

 「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」1。神様ファンがこの言葉を見つけて、黙って通り過ぎる訳がありません。
 パッケージを手にとって見ると、監督青山真治、浅野忠信主演、そして中原昌也さんが音楽と共に出演。こんなどう転んでもハズレない作品に、三年間も気付かなかったなんて・・映画館で見たかった・・・。

西暦2015年。世界中で正体不明のウィルスが蔓延していた。“レミング病”と呼ばれるそのウィルスは視覚映像によって感染し確実に死に至るというものであった。人々は不安に怯え、絶望感に満ちていた。そんな中、病気の進行を抑制するといわれる唯一の方法が発見される。それは、2人の男、ミズイ(浅野忠信)とアスハラ(中原昌也)が演奏する“音”を聴くこと。やがてその噂を耳にした老富豪(筒井康隆)が彼らのもとを訪ねてくる。息子夫婦をレミング病で失い、たったひとりの跡取りとなった孫娘ハナ(宮崎あおい)までもが病に侵されているという。愛する孫娘の“死”を止めるため、彼らに演奏を懇願する老富豪。意を決したミズイはハナをある場所へと導くが…。

 「レミング病」は、もちろんレミングの集団自殺から来た名称。つまりこれは、自殺を促す病気です。
 一日で四回見ました。

浅野忠信「病気の自殺と本気の自殺、どうやったら区別が付くんだ?」
筒井康隆「それは難しい質問ですな」
浅野忠信「アスハラが言ってたんだよね。治す気があるかないか、だってさ」
筒井康隆「なるほど」
浅野忠信「アスハラは治そうとしてたんだよ」
筒井康隆「そうですか」
浅野忠信「あんたの孫はどうかね」
筒井康隆「あの子はまだ何もわかっていないんです。混乱しているんです」
浅野忠信「まぁ自分しかわからないっしょ」
筒井康隆「そうでしょうか。そうかもしれません」

 「自分にしかわからないこと」とは何でしょうか。
 誰にもわからないことです。
 「ねぇわたし、彼のこと好きなのかな?」と「自分にしかわからないこと」を尋ねるのは、他者こそがそれを「知って」いるからです。
 誰にもわからないことは、答えのない問いです。
 そして神経症者(普通の人)とは、答えのないところに問いを立ててしまった者のことです。わたしたちは問います。「わたしは何を考えているのか?」。
 病気の自殺と本気の自殺、もちろん区別など付きません。重要なのは、付かない区別について、わたしたちが問わないではいられないことです。

 そう言ったアスハラ(中原昌也)は、自分の音楽が病気を治す、という富豪たちの言葉を遮り、叫びます。

「音が病気を殺すんじゃない、音が病気のエサなんだ」

 この言葉が解せない富豪らは、ミズイに意味を尋ねます。彼の答えはこうです。

「腹いっぱい食べると眠くなるでしょ、普通。最初っから死んでるんだよ。誰も死なせちゃくれないんだよ」

 この答えは、「わたしは生きているのか、死んでいるのか」という強迫神経症者の問いを思い出させます。
 ただし、問うているのはむしろ富豪たちの方です。生者は答えのない問いを巡って、人工衛星のようにホメオスタシスを回り続けます。
 一方で、遂に大気のヴェールに触れ、燃え尽き失墜してしまう人工衛星があります。ウィルスに犯された者は、「本当に」死にます。引き金を引けるのは、答えを手にしてしまったからです。もちろん、合理的な意味での問いに対する答えではありません。ある種の問い、あるいは問いの無さは、答えを確定します。正確には、答えのあとに「でも・・」が続くより早く、何かが時間を短縮し、引き金を引かせてしまいます。

 「音」がなぜ「自殺」を止めるのか。
 伝えるからです。「もう死んでいるから、これ以上死なない」と。
 この音は、わたしたちが「まだ死んでいた時」に聞いていたものです。
 「音」は今でもわたしたちの耳に届いているはずで、しかも途絶えることなく続いているのですが、生まれてしまった今では「分節され過ぎて」それと聞こえません。それは「ノイズ」です。正確には、ノイズがノイズと分節される以前のノイズ、今では意味がわかり過ぎてノイズと聞こえない「ノイズ」です。
 例えば、日本語。わたしたちは、いかに抗おうと、ドイツ語を聞くように日本語を聞くことはできません。かつて聞いていたはずの「音」、それは今も耳に届いているのに、決して「聞こえ」ないのです。
 中原さんの音楽は文字通りの「ノイズ」ですが、音楽とは基調低音化し聞こえなくなってしまったノイズを、サンボリックな(音階的な)アプローチにより焙り出そうとする営みでしょう2

 ウィルスが「視覚」を通じて自殺を促すことは示唆的です。
 わたしたちは誰でも、最初に音を聞きます。暗闇の中で、大人たちの不思議な音を聞くのです。
 それから暫く経って、光が訪れます。つまり、視覚において、見られることは見ることに先立っています。
 まず聞き、「見られていた」ことを見る。解釈不可能であるにも関わらず、大人たちだけはそれを通じて交信可能な「ノイズ」を抜けて、明滅する世界に投げ出される。それが視覚の獲得です。視覚自体が、どこか致死性の匂いを漂わせています。
 それは見るより前から見られていたことの発見により、何かを決定的に過去へと葬り去ると同時に、正にこの切断・明滅自体によって、致死性を遅延化します。つまり、致死的ではあるものの、すぐには死なない、永遠に地平線の向うへと「落下」し続ける人工衛星の発射です。
 遅延の鍵、それは耳を閉ざすことができない一方、目は閉ざすことができる、ということでしょう。明滅。切断。現れて、消えるもの。

 ウィルスは多分、死への恐怖を麻痺させたり、人を無気力にさせるのではありません。元々ある何かを、加速しているのです。遅延を無効化しているのです。

「わたしだって死にたくないに決まってるじゃん! 病気だから仕方ないじゃん!」

 そう、仕方ないです。死は避けられません。しかし死が「仕方ない」としても、ほとんどの人は即時的な死を選びはしません。それを選ぶのは、< わたし>の仕事ではないからです。
 < わたし>が走り、先回りしています。それは地平線の向うまで見渡すかのような、過剰な覚醒です。
 死ぬのが不安でたまらないと、死にたくなります。机の上にペンを立てているような緊張に耐えられず、最初から倒しておきたくなるのです。どんなに絶妙にバランスを取っても、立っているペンは倒れているペンより不安定です。人工衛星が「落下」し続けられるのは、地平線の向うが見えないからですが、その「見えなさ」が過剰に「見えて」しまった時、衛星は自ら大気に触れようとします。
 翻せば、「見え」すぎないこと、目覚めすぎないことが、わたしたちをホメオスタシスにつなぎ止めています。絶え間ないノイズとはまた別の、仲裁する力です。
 見えているつもりで、「見えないほどの瞬間的不可視」が視覚に入り込みます。瞬き、ONとOFFの回路、サンボリックなもの、見る機能の前よりわたしたちを眼差していた者の力です。
 目を閉じ、開きます。
 世界は変わらず、わたしたちを見ています。
 糸巻き車はベッドの向うから帰ってきます。
 多分、ウィルスがもたらすのは「閉ざすことのできない完全な視覚」です。完全な視野に欠けているものとは、何でしょうか。それ以前には欠落していた点、つまり盲点のようなものです。「完全な視覚」がわたしたちから奪うのは、見えないという経験、瞬きのように知らない間に視野が明滅している経験です。
 それは、わたしが見ている間、見るということを始めてしまってからは、恥らってわたしたちを見ることのない眼差しです。わたしたちが見ない時だけ、わたしたちを眼差している、何者かの視線です。

 とにかく、圧倒的な音とロケーションを楽しむ映画なので、無粋なことを書きました。
 無粋ついでにしょうもないことを書くと、劇中で岡田茉莉子さんが演じている「ナビ」という役名は、預言者を指すヘブライ語から来ていると思われます。アラビア語だとنبي(ナビー)。
 この映画の設定から村上龍の『ヒュウガ・ウイルス』を連想した人もいらっしゃると思いますが、リュウ・ムラカミの世界のミュージシャンが露骨に坂本龍一を想わせるのに対し、『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』が中原昌也というのは面白いです(笑)。ある意味好対照ですが、圧倒的に中原昌也が正しい。

 青山真治の他の作品では、『Helpless』もオススメ。
 中原昌也さんについては、暴力温泉芸者HAIR STYLISTICS3としてのディスクは一枚も持っていないのですが、小説では『子猫が読む乱暴者日記』が一押し。大昔にエントリも立てています。
 劇中で流れているギャヴィン・ブライアーズのJesus’ Blood Never Failed Me Yetも持っています。ウィルスも眠れる音楽。
 それにしても、中原昌也さんのアメリカ中産階級のイジメっ子のような笑顔はたまりません。イイ顔です。

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  1. 「主よ、主よ、なんぞ我を見捨て給うや」。イエスの最後の言葉とされる。 []
  2.  だから「ノイズミュージック」を聴いた多くの人は「こんなものは音楽じゃない」と言うわけですが、一方で「ノイズ」は「お前たちの聴きたいのはこれなんだろう」とラディカルに提示しようとしています。そして、神秘主義者が常に宗教本道から放逐されるように、「王様は裸だ」という子供はお尻を蹴飛ばされるものです。王様あってのわたしですから、わたしも一緒に蹴飛ばしておきます。あとでこっそり撫でてあげます。
     目覚める直前まで聞いていた筈の音楽があるとすれば、それに最も近いのはノイズ・ミュージックの爆音ではないでしょうか。およそ「眠り」の安らぎとは正反対ですが、静けさではなく秩序なき爆音がつい一瞬前まで身体を支配していたような残響を、よく感じます。実際、ノイズを聴いていると意外と寝られます(笑)。 []
  3. 中原さんのミュージシャンとしての活動名 []