朝になると朝になったので驚いた

 アラビア語に「أصبح アスバハ」という、「○○になる」を表す英語のbecomeに相当する動詞があります。
 語源的には「صباح サバーフ」朝から来ていて、「朝になる」が転じて「○○になる」一般を意味するようになったようです。
 一見頓狂のようですが、morningだって形は進行形です。こちらも夜明けの到来を示すmorwenが語源で、tomorrowとも同根です。
 わたしたちは、朝というと(厳密には定義できないものの)「何時から何時」というタイムスパンを指すようなイメージに支配されていますが、考えてみれば夜が明けて朝になるというのは、クッキリと「朝」が出現するものではありません。夜だったものが段々空が白んできて、「光が、光が、朝が、朝が、朝になっていく!」という、動的なイメージがプリミティヴな水準ではあったはずです。
 何かに「なる」というのは、不安なことです。いつから「なっ」たか、よくわからないからです1
 「大人になる」というのは意味がよくわかりません。二十歳になると機械的に「オトナ」になって、誕生日の朝に目覚めると「オトナ」ならではの諸機能がバッチリ実装されている、とかならわかりやすいのですが、そうはできていません。東の空が白くなって、少しずつ少しずつ明るくなるように、わたしたちは「大人にな」ります。
 でも、これでは不安でたまらないので、元服やらバンジージャンプやらで区切りを付けるて象徴化するのです。
 「死ぬ」のも一緒で、今なら病院の心電図が平たくなったら「ご臨終です」と言えるのかもしれませんが、元々は死にかけていたものがいつ生死の境界を越えたのか、それほどハッキリしたものではなかったはずです。心臓が止まっても蘇ることがあるくらいですから、死んだと思って埋めたものが、蘇ってきて「遺産相続はまだ早い!」と文句を付けてくるかもしれません。ですから、「死」というのは生物学的な現象ではなく、そこにバインドされた象徴概念であって、この境界を強化するために戒名を付けたり、二度と生き返らないようにキッチリお葬式をやったりするわけです。墓石というのは、穴を掘って人間を叩き込んだ挙句、逃げ出さないように重しを乗せているようなものです。
 ですから、「二十歳になったら選挙権」のような区切りというのは、すべからく「嘘」です。そんなにクッキリ「オトナ」になどなるわけがありません。嘘なのですが、とても有難い嘘であって、嘘(象徴化)のお陰で、わたしたちは「なる」の不安から解放されているのです。
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  1. わたしは一時期、知的にではなく生理的水準で「なる」のわけのわからなさにとり憑かれてしまい、狂気に近い状態、というかほとんど発狂していました。わたしが最後に撮った映像作品は、「なる」のパニックを何とか仲裁するための手段だったのだと思います。この映画を見ている人は、かなり限られた人だけですが(笑)。
    象徴的なものが「なる」に嘘の区切りを入れて仲裁してくれるのは、とても有難いことです。 []

「上に言ってもらう」日本 平等・ブラザー・嫉妬

 兄弟間の相続に差異がある場合、その民族は「人や文化の間には決定的な違いがある」個別主義・本質主義的な世界観を発達させ、一方兄弟間の分配が平等な場合、普遍的「人間」の思想を発展させる傾向がある。
 これはエマニュエル・トッドが『文明の接近』などで展開している論で、文字通りに受け取るには余りに乱暴な還元論ですが、眉に唾しつつ思考のきっかけとして使うには、なかなか興味深いお話です1
 日本は典型的な「兄弟間格差」システムで、兄弟と言っても兄(とりわけ長兄)と弟には絶対的差異があり、brotherに相当するような概念がありません。もちろん「兄弟」ということで「同じ親から生まれた男たち」を示すことはできますし、brotherにだってelderやらyoungerやらあるわけですが、brotherの本質は「オレたち年も性格も違うけど、同じ< 父>の元で等しくブラザーだぜ!」な「平等感」です2
 日本的システムにあっては、この水準での「根源的平等」が欠落しているため、普遍的< 人間>の概念も育ちにくい一方、「違って当たり前」「色々あって良し」という寛容さが共有される傾向がある、と言えるでしょう。こうした思想は「文化本質主義的」ですが、翻せば諸文化を貫通する「本質」への信が薄い、ということです。
 逆に< 人間>という普遍概念が強いシステムは「相対主義的」に振舞いますが、この「相対」は比べる軸があっての「相対」であって、軸そのものが相容れないシステムと出会うと、途端に不寛容さを示す場合がある、と言えるでしょう。
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  1. 以下、エマニュエル・トッド関連記事。
    「『文明の接近』エマニュエル・トッド ユセフ・クルバージュ」
    「識字化と脱宗教化、頸の血管より近き者」 []
  2. ブラザーの最も重要な性質は、本当は「無関係」だということです。ブラザーが平等と言っても、実際の兄弟では個々人の違いが著しいですし、「母」のような直裁的「肉」の関係を持っているわけではありません。ですから、ブラザーは「義兄弟」を想像した方が、より適切です。実際の兄弟では生物学的に一定の遺伝子が共有されてしまったりして、少しミスリーディングです。つまり、< 父>なる象徴的審級の元で「平等性」が実現されている、ということであって、この平等性は物理的な平等性から一段抽象されたものです。社会生活においてブラザーが文字通りの物質的平等を享受しているわけがありません。 []

働かざる者食ってよし!

 友人宅にバジルの鉢植えがありました。
バジルアオリ
 一週間前に葉をむしり切ったばかりなのに、一週間もすると元以上に再生しています。初めは何気なくホームセンターで買ったそうですが、どんどん育って植木鉢も換えて、今も大した手間もかけずに天然バジルを楽しめている、とのこと。
 この友人宅はかなりの片田舎にあって、夏には田んぼの蛙の声で電話が聞き取りにくいほどです。わたしも目の前が田んぼ、というところに住んでいたことがあったのですが、田んぼや河を見ていると異様に心が落ち着いてきます。根が田舎者というだけかもしれませんが・・。
 こういうものを見ていて感じるのは、時というものの「与える」力です。
 わたしたちは、時の「奪う」力にはいつでも敏感です。誰でも老いて死に近づくのは怖いです。納期が迫り、若手にポジションを脅かされる。日常生活のほとんどで、時は「脅威」として振舞っています。
 でも、そうした時の残酷さも、もっと地の部分で圧倒的に時が「与えて」くれているからこそ、初めて成り立つものです。こう書くと高尚ですが、要するにほっといても植物やら動物やらは育つし、生き物は基本的にその辺に生えているものをテキトーに食べているものだ、ということです。
 「働かざるもの食うべからず」と言いますが、人間は元々働いたりしていませんでした。その辺に落ちているものを拾って食べていたのです。
 人類の歴史の大半が「狩猟・採集」生活でしたし、その狩猟も「伝説のガゼルを倒す!」などというのは万に一つもなくて、大概はダボハゼ釣ったりシロアリ食べたりする程度で、残りはドングリ拾ったりしてしのいでいたはずです1
 もちろん、人口が増えてきたり気候が厳しくなれば、拾い食いだけでは立ち行かなくなるはずで、そこから農業や牧畜、そして工業が発達してきたわけですが、元をたどれば「生えているもの」です。
 バタイユではないですが、わたしたちが「世界」だと思っている人間的システムを回転させているのは、外部の圧倒的なパワーです。太陽とか化石燃料とか、もっとわかりやすく言えばバジルが勝手に生えてくる感じです。生えているのだから、むしって食べたら良いのです。 “働かざる者食ってよし!”の続きを読む

  1. 「採集民のススメ」参照 []

わからなさと愛 アラブ人、アメリカンジョーク、病気の犬

 池内恵さん1が日本のアラブ・イスラーム研究の「イスラーム贔屓」を批判して「日本人が有難がるイスラームの不思議なところは、大抵当事者にとってはどうでもいいことで、現地の人々が大切にしているものは、日本人にはさっぱりわからなかったりするものだ」ということを仰っています。池内さんは時に反イスラーム主義者として批判されることもあるようですが、わたしの読む限りでは率直で素朴な意見を述べているに過ぎないように見えます。何でも研究していれば愛着が沸くもので、現在アラビア語修行中の身としては「アラブに強い愛着を持たなければこんな言語を到底マスターできない」とも感じます(笑)。ですから、逆に言えば、おそらくは大変な勉強の末現在の学識に至った池内さんが、愛着バイアスを能うる限り振り切ってハタから見たようなことを口にされるのは、強さの証なのではないか、とも思います2
 実際、「アラブ的なるもの」に多少なりとも接していると3、時に「サッパリわからない!」ということに出会います。そのわからなさが、もう取り付く島もなく最初からわからない、というのならまだ良いのですが、「こう来て、こうなって、その挙句こうか!」というように、途中までは連続的・物語的に了解できるのに、ある一点にバサッと切られるような飛躍があると、呆然とさせられます。
 これが「宗教の気持ち悪さ、家族の気持ち悪さ、ザラザラしたものの発見」で言いたかった「ザラザラ感」なのですが、こうしたものは当然アラブに限ったことではなく、例えばアメリカンジョークなどにも言えるでしょう。
 一般にお笑いというのは文化的固有性の最も高い領域だと思いますが、アメリカンジョークの中には笑えるものもある一方、文字通りの意味が取れ、かつ「どうやらこの辺がツボらしい」というところまではわかるのに、どうしてそんなにゲラゲラ反応できるのかサッパリ理解できない、ということがあります。ポイントは「途中までついていけるのに、急に切られる」感じです。
 これは病気の犬に似ています。
 動物を飼ったことのある人なら、犬猫でも人間同様、というか人間以上に「通じる仲良し」になるのがよくおわかりでしょう。ところが、一旦病気になると、突然犬猫というのは豹変します。さっきまで「通じる」感じだったのが、急にメカのような昆虫のような、さっぱりわけのわからない物質に変容してしまうのです。これは結構恐ろしい経験です。
 動物でなくても、病というのは時に激烈に生き物を変えてしまいます。痴呆症の方を身内にお持ちの方は、似た経験をされているのではないでしょうか。
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  1. 以下参照。
    「『現代アラブの社会思想―終末論とイスラーム主義』 池内恵」
    「『アラブ政治の今を読む』池内恵 イスラーム的共存の可能性と限界」
    「身になることのできない相手との対話」
    「『書物の運命』、駱駝と針の眼」 []
  2. もちろん、弱さを補うために愛を抱いてもちっとも悪いことではありません。愛で乗り切れるなら、どんどん愛したら良いと思います。わたしは弱いので愛します。 []
  3. 依然わたしは初学者であり、アラブ諸国を訪れたこともなく、アラブ人と話す機会も限られています。 []

神の民と和の民、不寛容な共存

 アレキサンドリアのクレメンス研究の第一人者として知られ、カイロ大学で日本語を教えた経験を持つ久山宗彦さんの著書を二冊読みました。『イスラム世界の日常論理』と講談社現代新書の『コーランと聖書の対話』です。アラビア語を自在に操る日本人キリスト者が見た、エジプトのイスラームとコプト派キリスト教徒たちの世界、という貴重な語らいです。
 両書には重複する内容もあるのですが、新書である『コーランと聖書の対話』がコプト派キリスト教の歴史や思想に紙数を割いているのに対し、『イスラム世界の日常論理』の方がムスリムやコプトの人々の日常的なエピソードを多く収めているのが少し意外でした。とっつきやすいのは後者です。
 どちらについても、個人的に最も惹かれたのは思想や歴史についてより、いかにも「アラブらしい」日常的なエピソードの数々だったのですが、ここでは『イスラム世界の日常論理』末尾で示されている「神」の文化と「和」の文化、という視点から、共存について考えさせられたことをメモしておきます。
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『イエスはなぜわがままなのか』岡野昌雄 信仰と一目惚れ

404867188X イエスはなぜわがままなのか (アスキー新書 67)
岡野 昌雄
アスキー・メディアワークス 2008-06

 岡野昌雄さんの『イエスはなぜわがままなのか』。タイトルがあまりに「今時の新書」風で敬遠していたのですが、手にとって見ると素晴らしい一冊でした。わたしが信仰について考えていること、今まで果てしなくわかりにくく書き散らしてきたようなことを、極めて平易に説いて下さっています。
 ご紹介したいポイントは沢山あるのですが、思いつくままにいくつか挙げてみます。
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答えを見ることと考えること、コピペ問題、果敢なる教えてくん

 arkanalの日記:分からなければすぐ答を見よう

私は自分で考えるということに「こだわり」がありました。私は子どもの頃より理解力が高いと自惚れていたために逆にそういったことが過剰な自身になって「こだわって」しまったわけです。(・・・)
しかし、今はっきり言えるのは、「分からなければすぐ答えを見て考える」と格段に早いということなのです。とにかく、まず「答えを見る」。そして、それから「考える」のである。こういうことを私は20代後半のころに少し気がついた。で、答えを見てから考えるようにしてみました。そうするとうまく物事が行くのです。

世の中では、よく、安直に答えを見てたら思考力が育たないとか言われたりします。昔の私もそういうものを読んで、そうだそうだ、考えるのがエライのだとか思っていたりしたが、違うのです。答えを見てから、それがどうして正解かを考えることで思考力が育つのです。(・・・)いくら自力で考えても、その結論が世の中で正解とされていることとは外れていては冷や飯を食わされるのです。つまり主流から外れた答えを導き出す思考力というのはよほどのことがないとカネにならないのです。

 arkanalさんとわたしは、妙に自負心やらを抱えて育ち、色々学んだ割りに、結構なオトナになってから「こんなもんカネにならん!」とやっと気づいたりするあたり、少し似ているところがあると思うのですが、このエントリにはとても共感します1。わたしは「要領の良い方法」を知ってなおそれを裏切る、ということも大事というか面白いと思っていますが(arkanalさんにも時には「敢えて要領悪くやってみる」楽しみがあるのでは、と想像します)。
 わたしが「まず答えを見る」系の要領を習得したのは、プログラミングという仕事を通じてのところが大です。バリバリ文系でコンピュータなどまったく興味もなく、手っ取り早く日銭を稼ごうとしただけだったはずなのに、いつの間にやら開発者のハシクレとして糊口をしのぐ日々に馴染んでしまいました2。この商売で痛感するのは「大抵の疑問は既に誰かが考えた疑問であり、その疑問にはほとんどの場合もう答えがある」ということです。いわゆる「車輪を再発明するな」というヤツです3
 開発者なら誰でも知っていますが、書くのは最後の手段です4
 まず「もう書いてあるもの」を使いまわせないか調べて、書く場合も書かれたものをうまくパクり、それがダメでも調査に時間をかけ、頭を使うのは一番最後です。白紙に書くことではなく、再利用に頭を使っているだけですが。
 プログラミングを始めた当初は頭を使うのが楽しくて仕方なかったですし、そういう「楽しさ」がまったくないといくらなんでも仕事を続けるのが辛いと思うのですが、その楽しさをグッと噛み殺して「どうせこんなもん誰かがやってるんやん」と思って調べてみると、大抵本当に誰かがやっています。夢も希望もないです。オトナって厳しいです。
 ちなみに、体系的教育を受けた経験も性格的適性も微塵もない代わり、ほとんどの開発者よりは多少語学が堪能なので、新しいものの調査先遣部隊にはよく使って頂けます。有難いことです。
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  1. わたしはarkanalさんのように真面目でもマメでもないですが。多分教養でも歯が立たないし、それからわたしは漢字がとても苦手です! []
  2. 万国の真面目もしくは夢溢れる開発者の皆様、申し訳ございません。でもお金が欲しいからやめません。 []
  3. 「敢えて再発明する」意義も時にはあります。学習的意味だけでなく、再利用をまったく想定していないものを無理やりツギハギするより、「再発明」した方が合理的な場合もあり得ます。ただ、そうしたケースは見た目の印象よりは、大分少ないものだと思いますが(「こんなもん一から書き直した方がマシやわ!」>「うわ、こんな罠があったんや、確かにこれはキレイにいかないね」)。 []
  4. うっかり偉そうなことを書いてしまいましたが、わたしは開発者としてはやる気も能力もプライドも一ミリも持ち合わせていませんから、ここに書いてあることは著しく間違っているかもしれません。興味のある方はやる気や能力やプライドのある開発者さんに伺ってください。 []

日本人ムスリムによるムハンマド伝『預言者ムハンマド』鈴木紘司

4569693644 預言者ムハンマド (PHP新書 (475))
鈴木 紘司
PHP研究所 2007-08-11

 日本人ムスリム鈴木紘司氏によるムハンマド伝。
 護教論的なところや説教臭い部分がやや鼻にはつくものの、意外と言っては失礼ですが、今まで読んだムハンマド伝の中で一番カジュアルで面白かったです。
 著者がムスリムであるアドバンテージというと、「当事者にしか知りえない」「当事者ならではの」視点を考えがちですが、むしろ非ムスリムの研究者が書いた場合の「こういう言い方は失礼になってしまうのではないか」という遠慮から解放されている点が大きいでしょう。何でも当事者というのは、当事者ならではの足枷がある一方、特権的な立場にいます。多少ぶっちゃけな話をしても「当の本人が言っているのだから・・」と批判から身を守れる効果があるわけです。
 ムハンマド伝ではありますが、印象的なのはむしろその周囲の教友、そしてライバルたちです。イスラーム本を読んでいれば何度も目にしたことのある人物がほとんどですが、ただでさえも覚えにくいアラブ人の名前、研究書で触れると今ひとつ記憶の定着がよろしくないです。こうして生き生きとしたエピソードを交え物語風に語っていただけると、「ウマルいいヤツだけど暴れすぎっ」(スイマセン)と、心に住み着いてくれます。主な戦役には陣地の図解まで付いています。
 おそらく、こうした初期イスラーム物語(ハディースを噛み砕きに噛み砕いたようなもの)は、キリスト教文化圏の人間なら特段宗教熱心でなくてもアブラハムやヨセフやヨナと馴染みなように、イスラーム文化圏の人々にとっては知識以前の共有文化なのでしょう。日本人にとっての桃太郎のようなものです。
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秋葉原、トヨタ、引き返し不能地点からさらに進むこと

 秋葉原の件について、個人的に思うことは何もないし、特に興味もありません。悪いですが「犠牲者の方に哀悼の意を捧げ」もしません。1
 それでも、webを眺めているとイヤでも関連記事が視界に入ってきます。そうした中で興味を惹かれたのが臨床してて思うこと(精神科):秋葉原の事件について2というエントリ。

今回の事件で、勝ち組・負け組の話の流れで、派遣(トヨタ)で働いていたことが話題になっているけれども、
たぶんそれは、犯行に踏み切る最後の一歩の問題。ジャンプに踏み切る位置の問題。むしろ問題は、ド田舎の秀才が進学校で落ちこぼれたとき、そのプライドを抱えたまま、下請工場で働くことがどれだけ大変かということにあると思う。

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  1.  「哀悼の意を捧げる」などというのは単に社交辞令的な枕詞にすぎないし、それが示しているのは「哀悼の意」ではなく、単に「わたしはそれほど反社会的人間ではありません(だからこの言及によってわたしの地位は特に影響されません)」というメッセージにすぎません。知り合いでもなく政治・宗教的関連もない人間が路上で何人殺されようが、ブラジルの奥地で足を滑らせたおじいちゃんが頭を打って死んだ程度のインパクトしか受けません。まぁ、もちろんおじいちゃんだって気の毒ではありますが。
     また、こうした文脈でしばしば「犠牲者」という言葉が使われるのも奇妙です。犠牲というのは捧げられることに特別な意味があるもので、通り魔に刺されたりダンプに轢かれるのは単なる「被害」であって、「犠牲」ではないでしょう。
     被害者の方は本当にお気の毒です。でも、知り合いじゃないから何も感じません。もしかすると、いつかどこかで電車に居合わせて、ヘッドフォンの音漏れがうるさかったあの人かもしれません。だとしたら、わたしにとっては手を汚さずに嫌がらせができてラッキーでした。それくらいです。 []