イスラームは「砂の思想」なのか

 クルアーンを読んでいて目についたポイントの一つに、ベドウィン(アラブの遊牧民)の扱いがあります。
 クルアーンでは何度か、ベドウィンについて今日的に言えば「差別的」表現が表れ、「信用ならない者」として記述されています。
 わたしたちはイスラームというと「アラブ、砂の民」を連想してしまいますが、ムハンマド自身はマッカの商人であり、都市生活者です。そしてイスラームはベドウィンの部族的信仰の否定として始まったのであり、安易に「イスラーム=砂の思想」と位置づけることのできない複雑な背景がここにあります。
 クルアーン翻訳者の井筒俊彦さんも、『イスラーム文化 その根柢にあるもの』(※1)で次のように仰っています。

砂漠的人間とは、具体的にはひとつの場所に定住せず、広漠たる砂漠をたえず移動しながら遊牧生活を送るいわゆるベドウィンのことでありますが、イスラームを興した預言者ムハンマドは(・・・)、決していま申しましたような意味での砂漠的人間ではなかったのであります。彼は商人でした。マッカとマディーナ(*)という当時のアラビアとしては第一級の国際的商業都市の商人であり、商人としての才知をいろいろな局面で縦横に発揮した人間であります。(・・・)同じアラビア人といいましても、砂漠の遊牧民と都市の商人とでは、メンタリティーも、生活感情も、生活原理もまるで違います。砂漠的人間であるどころか、預言者ムハンマドはまさに砂漠的人間のいちばん大切にしていたもの、砂漠的人間観の価値体系そのものに真正面から衝突し、対抗し、それとの激しい闘争によってイスラームという宗教を築き上げたのであります。
(*最初「メッカとメディナ」という旧来の表現をしたあと、本来の発音に近いこちらに言い換えられているため、この表記とさせて頂きました)

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アッラー、神、主

 藤本勝次さんらによるクルアーンの翻訳(※1)では、アッラーフが「神」と訳されています。平易で読み易い「聖典」という配慮からでしょう。井筒訳では、オーソドックスに「アッラー」です。
 よく「アッラーの神」といった表現を耳にしますが、イスラームにおいては神と言ったらアッラーフしかないのですし、アッラーフAllaahの語源は、英語で言えばThe GodにあたるAl Illaahが訛ったもの、という説もあります。ですから、「アッラーの神」というのは不自然であって、いっそ「神」とだけしてしまう、という流れもよく理解できます。
 ただし、「神」と訳出することで「アッラーフのアッラーフ性」が日本語的によく表現できるのか、というと、いささか疑問です(別段翻訳の批判をしたいわけではなく、純粋に神様のことを考えている)。

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『コーラン』井筒俊彦

『コーラン 上   岩波文庫 青 813-1』 井筒俊彦 『コーラン 上 岩波文庫 青 813-1』 井筒俊彦

 現在日本で入手しやすいクルアーンの翻訳(※1)は三つあり、一つが岩波文庫収録の井筒俊彦さんの訳、中公クラシックス収録の藤本勝次さんらによる訳、もう一つはムスリム三田了一さんによる翻訳です。このうち三田了一訳はムスリムを対象としたアラビア語対訳本です(日本ムスリム協会から直接入手する形になるようです)。
 よって一般的な「日本語訳」は井筒訳と藤本訳の二つということで、よりスタンダードなのは井筒訳ですが、そもそも翻訳のスタイルが好対照を為しています。各翻訳の傾向については前にご紹介した大川玲子さんの『聖典「クルアーン」の思想』が詳しいのですが、受ける印象としては、井筒訳は「口語訳」、藤本訳は「平易な聖典の翻訳」。井筒訳は「口語」と言っても現代的な話し言葉という意味ではなく、いかにも「聖典」といった当時の文語的翻訳スタイルに対する「口語」であり(※2)、一定の格調を保ちつつ、アッラーフがムハンマドに「語りかける」というクルアーンの様式をよく反映したものとなっています。
 これに対し、藤本訳はアッラーフも「神」と表記し、文体もクセがなく、岩波文庫的な割註も入らないため、見た目にもキレイな翻訳です。キリスト教聖書で言うと新共同訳のようなイメージです。
 どれを取るかは好みや目的次第でしょうが、わたしが通読したのは井筒訳。依然圧倒的に教養の足りないわたしにとっては、丁寧な割註は便利ですし、何より井筒先生のドライヴ感溢れる文体に惚れました。こういう口調のクルアーン翻訳というのは、世界的に見ても珍しいのではないかと思います。
 井筒先生の文体を伝えるために、解説の中から一部引用してみます。

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