外山恒一、選挙と虹彩、千年都知事

 このブログについてはほぼ更新停止していたわけですが、久しぶりに外山恒一さんとその界隈の方たちと楽しくお話させて頂く機会があり、ちょっと今思いついていることだけメモしておきます。

 選挙は虹彩に似ています。カメラの絞りです。
 ラカンがまなざしについて語っている文脈で、目は光を受けるが、その光をすべて受けてしまえば目が焼かれる、というような話をしています。つまり、目の機能とは光を受けることではあるのですが、一方でその光を制限することで初めて機能する、ということです。制限しているのが虹彩です。
 わたしたちは選挙こそが正しい政治参加の方法であり、一般市民にとってのほぼ唯一の方法だと思い込んでいます。そんな思い込みは人類の長い歴史の中でも、あるいは近現代史の中でも極めて特殊な状況にすぎないのですが、ともかく現代日本ではそうした通年が一般化しています。
 そして投票に行くことが「政治参加」として称揚され、(「年端もいかない者」を除く)すべての人の意見を聞きましたよ、という体で国家が運営されているわけです。
 「唯一の政治参加経路」として選挙が提供され、それをもって「あなたの意見はもう聞きましたよ、チャンスは与えましたから棄権するのも自己責任ね」で話を終わらされているのです。選挙がある以上、そこで訴えなかったり投票にいかないのは自ら政治参加を拒んでいるだけですよ、ということです。翻せば、選挙以外の政治参加の方法というのは厳しく制限されています。厳密にはゼロではありませんが、極めて多くの「政治参加」手段(例えば内戦とか!)が事実上非合法化されています。そして何が「正しい政治参加」で何が「間違った政治参加」なのか、その線引は別に選挙で決められたわけではありません。
 ここで言いたいのは、政治参加の手段自体を選挙で決めよ、「民主的手段」で決定せよ、とかいう話ではありません。そんなものは無限背進に陥るだけで、他者の他者がないように、選挙の選挙などというものはありません。
 外部は端的に外部であり、「ない」ものとして機能しています。「ない」ものがその内側へとエネルギーを備給しています。それは「内部」からは広義の暴力として見出される、制御しがたい不合理、予期しがたい無秩序な力動です。
 選挙が虹彩であるというのは、そうした余りある目を焼く太陽の如き力を制限しているからです。制限することによって、内部の政治は機能しています。選挙は「人々の声」を聞くのではなく「ちょっとしか聞かない」ための装置です。しかし一方、この外部の力動がなければ、そもそも目はものを映すことができません。「この」政治システムを作っている力自体は、システムの外部からやってきています。
 そうした虹彩の機能は別に選挙でなければ担えないものではなく、実際、人類の歴史のほとんどすべての時と場所において、選挙以外の方法によって光が絞られてきています。そして繰り返しますが、選挙というこの手段、この目眩ましが選ばれているのは、選挙によってではありません。光があるところに目ができたのです。もっと言えば、わたしたちは見る以前に見られています。そういう光点のようなもの、直視できないものを発見し、慌てて目を細めているのです。

 政治は、最初から最後まで少数の限られた人びとのものでしかありません。人類の歴史を通じてそうでしたし、今も変わりありません。
 ただ特殊近代的な世界において、選挙制度というものが、そうした暴力に対する目眩ましとなり、覆い隠しています。そして一層狡猾なことに、わたしたちの国は義務投票制ではありません。「君が選挙に行くか行かないかは君の自由だ、でも選挙に行くことは民主主義にとって大切なことだよ? 君たちが明日の日本を担っていくんだよ?」というポストモダンな支配によって、わたしたちには無言の責務が回付されています。本当のところ、少なからぬ人びとにはチャンスも能力も可能性も何もなく、従って責任などあるわけもないのですが、その分は既に源泉徴収されて済んだことにされてしまっています。
 だからといって、ナイーヴに「暴力革命によって現政権を転覆せよ」というのでもありません。正確に言えば、「暴力革命によって現政権を転覆せよ」と「言う」のは意味のあることです。そういう煽りで問題意識を選別し、「良い友だち」を作るきっかけにはなるからです。
 ただわたし個人としては(そして少なからぬ人びとにとっても実質上)、別段政権をとっているのが「今のあの人」であろうが「他のあの人」であろうがどうでもいいことです。現状が維持されようが、ささやかな改革が実行されようが、革命軍が奪取しようが、変わらず限られた者が限られた政治をするだけで、世の中は良くもならないし、見渡すかぎりクソクソクソでしょう。
 余談ですが、「良い世の中」がどこにあるのか、というのにはいくらかヴァリアントがあります。「昔は良かった、今はダメだ」というのもあれば「昔はひどかった、世の中だんだん進歩している」というのもあります。歴史的に眺めれば、おそらく前者が圧倒的に支配的で、神代の理想郷とか正統カリフ時代とかいった物語があり、近代に入り後者のタイプ、進歩史観的なものが広まり、ここしばらくのトレンドで前者がまた盛り返している、といった流れでしょう。実際上は、今も昔も未来も見渡す限りクソです。ただそう言っては何の希望もないので、時空間上のどこかに少しはマシな世界を想定するのです。
 ですから実は、クソのまま何も変わらない選挙という方法を取るのは、なだめすかしの一手段としてそれほど悪くはありません。現代日本に限って言えば、そこそこ人民を騙せていて、最悪よりは少しマシな夢を見させることに成功しています。ただ、それがなだめすかしに過ぎないことが不可視化されている世界を、つまらないと思うだけです。
 いっそこれが貴族制、王政であれば、そうしたメカニズムはあからさまになります。正確に言えば、あからさまとは言っても、それなりには夢を見させ、嘘を信じさせるだけの力はあります。選挙よりもむしろ強力なファンタジーがあったかもしれません。というのも、民主制に比べれば王族支配のような世界は歴史的に圧倒的に長く見られるもので、低コスト(低暴力)で夢を見させる力がなければ、そんな体制を維持することは不可能だからです。ただそれは識字率が極めて低く、情報の見通しの非常に悪い世界でのお話ですから、現代において同じことが成り立つわけではありません。逆説的に、現代の貴族制であれば、この欺瞞を白日のもとに晒し、楽しく戯画化する機能を果たせるでしょうが。
 ついでにもう一つ余談を挟めば、この「情報の見通し」というのも、現代における強大な目眩ましです。メディアの発達やインターネットの普及により、わたしたちは「見通しの良い世界」に暮らすようになったと思いがちですし、実際、フラットになった側面も多々あるでしょう。しかしそれは翻せば、そのフラットな土俵に乗っていないものはないものと見なされる、ということです。グーグルの検索結果の表示されないものは存在しないものとなる世界です。世界の非常に多くのものは、メディアにもネットにも見つけられないのです。そういうものは変わらず見えないままなのですが、「情報の見通し」というファンタジーによって、見えないということが見えなくなっています。

 この嘘が終わっても、また次の嘘が来るだけです。嘘の向こうに真実があるわけでもありません。見渡す限りクソクソクソです。
 正確には、見渡す前の一瞬、頭が働く一歩手前、物事に名前をつけてしまう以前の論理的時間にだけ、尊いものは何かあります。それはある種の失敗です。世代間格差から老人を憎む人が、倒れたお年寄りをとっさに支えてしまう、そうした一瞬です。その瞬間はすぐに失われます。わたしたちがやり損じた時、この世で唯一価値のある何かが微かに指先をかすめます。
 ですからわたしは、世の中変えようとか言い出すつもりはありません。むしろ小池百合子が永世都知事にでもなって、サイボーグ化して千年支配でもすれば、おもしろいと思っています。
 単に、多くの人びとがこんなつまらない物語で踊っているのがおもしろくないだけです。わたしはもっとおもしろい話がしたいし、世の中そのものがおもしろくならない以上、おもしろい人と友達になりたいということです。
 そういう意味で、「政治信条より友達を大事にする」というファシスト外山は正しいし、多数派を変える気などさらさらなく、かつ「多数派に訴えよう」という若い時期をもおそらく経験し、余りある酸いも甘いも味わいつくしてなお(臆面もなく!)ニコニコしているこの男には、よくわけのわからない魅力があるのです。
 わたし個人としては、外山氏の主張の一から十まで肯定しているわけではありません。半分くらいは否定的かもしれません。そもそもそんなに知りません。なんだったら、一から十まで間違っていても構いません。何からなにまで間違っているけれど、致命的に正しいものというのが、時々あります。そういうものは、近づくとなくなってしまったりするもので、特にわたしのような業の深い小賢しい人間は、そばに寄った花を(わたしにとって)すべて枯らす呪いを受けています。ですから、ほどほどの距離から眺めています。
 次の都知事選がいつになるのかわかりませんが、その折には再度選挙棄権を訴え、できればついでに小池百合子千年都知事を推して頂きたいです。外山氏の気が向かないなら、個人的に千年都知事を推すかもしれません。
 もう選挙は沢山だ、百合子に千年やって欲しい!
 奇しくもサヨクに厚化粧とか揶揄されていましたし、一メートルくらいの装甲をまとって十世紀帝都に君臨してもらったらいいじゃないですか。
 わたしは西新宿で行き倒れます。

誰かが休めば、それはわたしの休みだ

 そろそろ帰省ラッシュですが、今年のお盆は(も)一日も休みませんでした。特に「夏休み」というのが決まってない現場にいるので、各自三々五々休んでいるのです。わたし個人は特に「夏休み」は取らないつもりです。
 「好きな時期に」といっても、ご家族のある方などはやはりお盆に休みたいでしょうし、周囲では「一週間お休み」という話も聞きます。
 そういう時「わたしは働いてるのに」とか思うかというと、似たような働き方をされている方にはわかると思うのですが、全然そんなことはなくて、むしろ休んでくれて有難いくらいです。
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岩波イスラーム辞典を安く買う

4000802011 岩波イスラーム辞典
大塚 和夫
岩波書店 2002-02

 やっと買いました。『岩波イスラーム辞典』。
 欲しくて欲しくて、もう何ヶ月も買おうか、来月にしようか、グルグル回った挙句、ようやくご購入です。
 イスラーム関係の辞典はいくつかありますが、書店で手にとっても、レビューをチェックしても、『岩波イスラーム辞典』こそ定番中の定番であり、本当に値打ちのある本なのだ、ということはわかっていました。
 でも高い(笑)。
 『エクリ』邦訳全三巻2万超に比べればお手ごろですし、美容にかけているコストをほんの少し辛抱すれば済むことなのですが(笑)。貧乏性なので、「通読しなきゃ」とかいうよくわからない強迫観念に取り付かれそうで恐ろしいです。
 アマゾン・マーケットプレイスに安い出品があったので、やっと重い腰が上がったわけですが、これは本当に素晴らしい!
 というか、この内容でこの値段は安すぎます。ぼんやりめくっているだけでも実に楽しいです。
 一つだけ難点を言えば、アラビア語の用語もラテン文字表記されていることでしょうか。できればアラビア文字表記と併用して欲しかったです。
 ラテン文字表記だと、漢字がローマ字で書いてあるようで、直観が妨げられる感じがします。でもこの発想はかなり「漢字文化圏的」で、当のアラブ人はずっと音声中心的なのかもしれません。
 アラビア語のラテン転写やアラブ人名のラテン表記が混乱を極めている一因には、本人たち自身が、どこか「音さえ合ってれば何でもいい」的なことがあるような気がします・・・。

 ちなみに、辞典というとR・シェママの『精神分析事典』も素晴らしい「お買い得商品」で、わたしの中では『岩波イスラーム辞典』と「二大ステキ辞典」な位置づけです。両方持っている論理積な人は無意味にレアだと思いますが・・。

 全然関係ないですが、辞典の「無敵感」と雨の日の長靴はちょっと似ています。

『ムハンマド―イスラームの源流をたずねて』小杉泰

4634490102 ムハンマド―イスラームの源流をたずねて (historia)
小杉 泰
山川出版社 2002-05

 小杉泰先生によるムハンマド伝。読み物としてはムハンマド伝としては、以前にご紹介した鈴木紘司さんの『預言者ムハンマド』の方が面白かったですが、『預言者ムハンマド』がムスリムによる預言者伝なのに対し、『ムハンマド―イスラームの源流をたずねて』は非常に「日本人的」な視点によるもの。イスラームについての予備知識がなく、距離をおいて眺めたい時には、こちらの方が入りやすいのかもしれません。

実際にイスラーム世界のどこかに滞在してみるとわかることであるが、「ムスリムはアッラーを信じている」という表現は適切ではない。彼らはアッラーが実在することを前提に暮らしているのである。それは、私たちが空気が存在するのを自明視している程度に、自明なこととみなされている。(・・・)
しかし、日本人の目から見れば、そうではない。唯一神の実在は、理念であると思える。私は言う――だから、理念は人間にとって現実なのである、という観点からそれを見るべきだ、と。友情が現実だと思うのであれば、同じように、唯一神や預言者が現実でありうると考える必要がある。

 それゆえにこそ、神様を信じることは、始まりであって終わりではないし、問いであっても答えではないのです。
 少なくとも、わたしにとって、神様は「発見したもの」「出会ってしまったもの」です。出会いは解決ではありません。それどころか、大いなる問いの始まりにすぎません。
 「一体これは何だ、この身体に張り付き、一瞬も離れることのない、世界そのものとは!」。

死後の生は信じるが、死んだ後のことなど知らない

ハーリジャ・ブン・ザイド・アル・アンサーリーによると、預言者に忠誠を誓っていたアンサールの女、ウンム・ル・アラーゥは語った。アンサールがムハージルーンの住まいについてくじを引いたとき、ウスマーン・ブン・マズウーンが当り、彼は私たちの元に留まることになったが、しばらくして病気にかかり、看病の甲斐もなく遂に死んだので、私達は彼を衣に包んで葬った。このとき神の使徒が私たちのところに入って来たが、私は死者に向かって「アブー・サーイブよ、アッラーがあなたを憐れみ給うように。そしてアッラーがあなたを栄えあるものとされたことを私は証言します」と呼びかけた。すると預言者は「アッラーが彼を栄えあるものとされたとどうしてわかるのか」と尋ねたので、私は「神の使徒よ、私にはわかりません」と答えた。そこで彼は「ウスマーンはもう死んだので、彼の冥福を祈るのだが、わたしは一介の神の使徒の身、アッラーが彼に何をなさるか、わからない」と言った。これを聞いてわたしは非常に悲しく思い、それ以後決して死者を褒め讃えることをしなかった。ところである晩、私は夢でウスマーンがこんこんと湧き出る泉のほとりにいるのを見たので、これを神の使徒に話した時、彼は「それは彼の行いの賜物だ」と言った、と。
(ブハーリーのハディース)

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では、お前の家族に食べさせなさい

アブー・フライラによると、彼が預言者のもとにいたとき、一人の男がやって来て、「私はもうだめです」と言ったので、預言者が「それはまた、どうしたのだ」と尋ねると、男は「断食中、妻と交わってしまいました」と答えた。そこで預言者が「お前は自由の身にしてやれる奴隷を持っているか」と尋ねると、彼は「いいえ」と答え、「では二ヶ月間続けて断食できるか」と尋ねると、「いいえ」と答え、さらに「六十人の貧者に与える食べ物があるか」と尋ねたときも、「いいえ」と答えた。預言者はしばらくじっとしてたが、このとき、なつめやしの入った大きな籠がもたらされると、彼はその男に「これを持って行って、その中から施しなさい」と命じた。するとその男は「これを私より貧しい人に与えるべきでしょうか。神かけて申しますが、メディナの二つのハッラの間に私の家族より貧しい家族は居りません」と言った。これを聞いた預言者はからからと笑い、「では、これをお前の家族に食べさせなさい」と言った。
ブハーリーのハディース 断食の書 牧野信也訳より)

アブー・フライラと猫、犬のハディース

4061492101 イスラームとは何か―その宗教・社会・文化 (講談社現代新書)
小杉 泰
講談社 1994-07

 かなり今さらですが、読んでいなかったので読みました。小杉泰先生の『イスラームとは何か―その宗教・社会・文化』です。
 「イスラーム入門新書」系で最も売れている本の一冊だと思いますが、実際非常にバランスが良く、イスラームについてまったく知識のない人でもすんなり入っていけます。
 イスラーム概説のような同じテーマを色々な著者を通じて読んでいると、内容とは別に研究者のオーラを感じられて面白いです。小杉先生からは「大きくて優しそう」な印象を受けます。ちなみに、わたしが勝手に同じような優しさを感じているアラブ・イスラーム関係の先生に、もう一人本田孝一先生がいらっしゃいます。
 『イスラームとは何か』での個人的な最大の収穫は「アブー・フライラ」でした。ハディースの七教友の一人で、ハディースを読むとこれでもかというくらい名前を目にします。「夜の三分の一を睡眠、三分の一を礼拝、三分の一を学習に充てた」というエピソードが有名ですが、この名前が「仔猫のお父さん」という意味だということに、恥ずかしながら本書で初めて気づきました(ハディースは翻訳でしか読んでいないです・・)。
 猫はhirratunですが、アラビア語には指小形という「かわいいもの」を表す形があって(ロシア語などにもあったと思う)、○u○ay○unという母音構成になります。hirratunをこの形に変形すると、hurayratunになり、最後のtunは発音されないのでhurayraだ!と気づいて、すごく嬉しくなりました(「アブー」はお父さんの意)。英語圏ではAbu Hurayra, Abu Hurairahなどの表記が見られます。
 子供の頃の猫好きっぷりから「猫オヤジ」とあだ名され、そのまま千年以上の未来にまで伝えられてしまっているわけです。
 アブー・フライラのみならず、預言者本人も猫好きで知られていて、一般にイスラームは「猫贔屓」です。ハディースには、猫を閉じ込めて餓死させた女が地獄に落ちるお話があります。
 それに比べると犬はボロクソな扱いなのですが、犬をポジティヴに扱っている貴重なハディースに、正にアブー・フライラ伝によるこんな一節があります。
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ネットがなければテレビは要るのか

 テレビの凋落が指摘されるようになって久しいです。地上波デジタルへの移行が近づくに連れ、ますます目にする機会が増えているようです。
 たけくまメモ「竹熊さん、インターネットはヤバイですよ。」もそうした「既存メディアはもうダメ」論の一つとして、面白く拝読したのですが、これを読んでいる時にふと思ったことがあります。
 現在のネット上における「テレビヤバいよね」論の主流には、「ネットが普及した結果、テレビの意義が相対的に低下した」という認識があるのではないかと思います。これは端的に事実でしょうし、広告収入の減じた結果、追い詰められたテレビがますます品性下劣な方向に走る、という現象もあるのではないかと思います。
 ただ、ネットが普及する以前から広義の「テレビ批判」というのはあって、これとの関係から、「テレビはもうダメ」観の中には二つの流れがある気がするのです。
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貴族 ヤンキー 立ち入り禁止

 メレ子殿が大久野島に行かれたようです。わたしが行った時とびっくりするほど見るポイントがかぶっているので、面白くなってきます。本当に小さな島で、写真を撮る場所も自ずと決まってくるのですが・・1
 わたしが一番カッコイイと思った発電所跡ですが、ここは彼女の書いている通り、内部は立ち入り禁止になっています。わたしは迷うことなく柵を乗り越え、震度3くらいで崩壊しそうな内部の写真をバシバシ撮ってきてしまいました。「入るな」と書いてあると、デフォルト入ります
 で、この内部ですが、刑事ドラマの銃撃戦がありそうなカッコイイ廃墟っぷりだけでなく、実はもう一つ予想もしないものが出迎えてくれます。
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  1. 天と地ほども違うのが、写真のレベルです。自分と同じ場所でうまい人が撮った写真を見ると「良い写真とはこういうものだ」というのを見せ付けられて、惚れ惚れします。万人の認めるところでしょうが、メレ子殿の写真はマジ素晴らしいです。 []

入って後悔した風呂と修行メソッド

 年々病的に人付き合いが悪くなっていく自分が一周回って面白くなってきて、いっそ「死ぬまで業務以外で人と会わない」ゲームにしてみようか、などと妄想しているこの頃ですが1、この間の連休は大阪の旧友を訪ねてきました。
 旅が苦手なこともあって、行く直前まではキチンとバッドなのに、会うと不思議なことに楽しいです。
 この感じを、

「大阪まで新幹線乗って何しに行くねん」とスネた気持ちになってしまうのがデフォルトなので、修行だと思って行きます。行けば結局楽しいし。
これは薬に似てるね。
マイナ・トランキライザとか、飲む前は「こんな問題が薬なんかで解決するわけがない!」と思っているのに、飲むとちゃんと解決するし(笑)。でも飲むまで思い出せないんよねぇ。

 とこれまた荒んだ例え話で表現するメールを送ったところ、この「会うとうっかり楽しくなっちゃう」がお風呂に似ている、というお話を教えてくれました。
 文中「僕」がわたしのお友達です。
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  1. この間社長に飲みに誘われたのを「思想上の理由でお酒が飲めない」と断ったので、「業務」ですら付き合ってないです・・・ []