さらば能力

 絵が上手に描けたり、美しい実装が書けたり、語学が堪能だったり、素晴らしいダンスが踊れたり、人に優しくできたり、立ち直りが早かったり、そういうことを能力だと思うことを、いつからか止めた。
 能力という見えない力がヒトの内側にあって、ある条件によってそれが「発現」すると、具体的に何かが成し遂げられる。他人についても、自分についても、この見ないパラメータ、見えない属性に振り回されるのが、馬鹿馬鹿しくなった。
 何かが成し遂げられた。それは事実だ。
 まだ成し遂げられておらず、できるかもしれないし、できないかもしれない。そういう時、人は能力のことを考える。
 内側にある「可能性」だ。
 わたしにできるだろうか。彼にできるだろうか。できると信じて、やる。
 それはそれで結構ではある。信じることが可能性を変える。翻せば、信じる対象である「能力」なる不動のパラメータなど、元より後付けの理屈にすぎない。
 内側のことを考えすぎると、心がこじれることがある。
 内側は危険だ。話半分にしておかないと、周天円的な泥沼にはまっていく。
 だから、能力はやめた。
 何かができたとしたら、それは神のビームが彼にあたって、反射してきただけのことだ。
 外側だけ、形だけ、既に為されたことだけ、圧倒的な神の存在だけ、信じる。
 神のビームがピンと来ないなら、ポインタでもいい。そこにある32ビットの値など、ただの住所にすぎない。実体はヒープだかイデアの洞窟だか神の意志だか、とにかく遠くにあって、すべてのパワーはそこからやってくる。
 もちろん、アドレスが間違ったらビームも反射しない。だから良い鏡であることは大切だ。
 しかし、わたしの一挙手一投足、脈打つ鼓動、それらすべてが神の表現以外の何者でもない。
 わたしは神を信じ、能力を信じるのをやめた。
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