ストリートビュー問題をプライバシー問題だと考えてしまう罠


 Googleストリートビューを巡る議論が相変わらず華やかで、わたしもチャカしただけのしょうもないエントリを上げましたが、この件が「プライバシー」という観点からの議論に収斂してしまい気味なのを、少し恐ろしく感じています。
 勿論、法的な意味での「プライバシー」的問題は語られてしかるべきでしょうし、ご専門の方にはむしろ大いに考えて頂きたいのですが、それだけでは、今わたしたちが感じている妙なムズ痒さというか、エロティックな点が今ひとつ見えてこない気がします。

 Googleは「現代においては完全なプライバシーなどというものは存在しない」と主張しているようですが、「プライバシー」などという概念が誕生したのは近代以降のお話であって、むしろ昔の方がプライバシーなどありませんでした。ベタなことを言えば、貧乏長屋のようにヒトとヒトがもっとベチャーッとウェットにくっついていたのです。そこにはそこで問題も大いにあったでしょうが、くっつかなければ生きていけなかったわけですし、くっついていて筒抜けであることを問題視しても仕方なかったでしょう。アラブ人なんて、今でも「お前の心はオレの心」というくらいズカズカ入って来て、その代わり悲しい時も嬉しい時も異様に共感度が高いです。
 「プライバシー」という概念が確立されたのは、アトム的「個人」が前景化したからです。個人がまずあって、集まって家族になり、もっと集まって社会になる。そういう還元的な構成イメージが一般的になったからこそ、「ここから先は勝手に覗いちゃダメよ」という障壁が意識されるようになったわけです。
 こういう構造が一般化したのは、地理的・時間的に極めて小規模な領域でのことであって、テクノロジの「障壁突破力」が高まったことで「現代にはプライバシーなどない」というGoogleは余りにも見ている世界が狭いです(もちろん、方便として外向けに話しているだけのことでしょうが)。
 だからといって、プライバシーなんて特殊近代的なものはどうでもいい、というわけではなく、こういう世の中になってしまった以上、このささやかな境界概念で反撃することにも一定の意義はあるでしょう。しかしここで「プライバシー」を楯にしてしまうと、もっと面白いことを色々と犠牲にしなければならないハメになりそうで、それがつまらないのです。

 例えば街角写真です。
 最近では、子供の写真もウカウカ撮れません。取り澄ました法律やらマナーやらを守っていては、面白いスナップなど撮れるわけもありません。といっても、逆に「表現の自由」などというこれまたセコい話をしようというのではありません。
 名前を失念しましたが、歌舞伎町などでヤクザの写真を撮りまくっている写真家がいます。この人はヤクザの眼前一メートルくらいまで接近して、夜の歌舞伎町でフラッシュを炊いて写真を撮っているそうです。当然、トラブルは耐えません。ボコボコにされたことも一度や二度ではないようです。
 こういう写真を撮る時、彼は「プライバシー」とか「表現の自由」とか、そんな水準でものを考えているのでしょうか。少なくとも、撮られるヤクザは「プライバシー」が侵害されたとか、高級なことは考えていないでしょう。なんかムカつくから殴るのです。
 そして撮る側も、殴られてもいい、いや、できたら殴られたくないけれど、でもやっぱり撮らずにいられない!という理不尽な衝動に駆られて接写してしまうのです。
 人物を撮るのは根性が要ります。
 わたしの親しい人がフォトグラファーで、とてもステキな写真を撮ります。彼が撮っているのは主に風景です。写真そのものではとても敵わないわたしは、根性でカバーすべく、時々ホームレスやちょっと怖そうなお兄さんの写真を撮ろうとするのですが、イザとなるとやっぱりビビります。でも、勢いでダダダッと接近して強引にシャッターを押した時は、やっぱりイイ顔が撮れます。ビビッと手ブレしてても気にしません。わたしは喧嘩の強い人が大好きなので、なるべく強そうな人を撮りたいのですが、喧嘩が強ければ強いほど、撮影リスクも高まるところがディレンマです。
 怒られたら二三発殴られる覚悟なのですが、実際に撮ってみると、そこまで怒るという人もあまりいません。何か言われたら、すかさず謝ってトークに持っていけば良いのです。それでもダメなら抱っこして押し倒してチューする勢いです。別段説得するわけではなく、話といっても一貫した理屈などありません。クレーム電話を聞くのと一緒で、高まったエネルギーがあったら、平衡に達するまで放出させれば良いのです。
 わたしは撮りたいエネルギーを解放し、怒られたらそのエネルギーを受ける。「結論」はちっとも理性的ではなく、なんとなくウヤムヤになるだけですが、それで話がまとまるなら最高じゃないですか。

 だから、正直「プライバシー」とか「表現の自由」とか、そんな話は心底どうでもいいのです。何がムカつくかといったら、愛がないから腹が立つのです。
 撮りたいなら撮ればいい。でもハッキリ言って、別に撮りたいわけでも何でもないんでしょう? 車にカメラ乗っけて、しゃら~と流しているだけなんでしょう? 見る人も根性入れて見るわけじゃないんでしょう?
 それじゃぁ、貧乏長屋から愛憎をマイナスしただけの状態で、満員電車と同じくらい「無駄にむぎゅー」なだけじゃないですか。セックスしたくないのにレイプしているみたいで、意味がわからないですよ。犯すなら、ちゃんと犯せ
 そんなことを言ったところで、セックスレスでフニャチンの白人には暖簾に腕押しでしょう。犯す気がないなら、こっちが強姦するまでです。
 ストリートビューを愛あるものにする唯一の方法は、総力を挙げてGoogleの撮影車の特徴をつかみ、発見次第圧倒的なテロルによりこれを殲滅することです。「圧倒的なテロル」というのは修辞的表現なので、もうちょっとわかりやすく言うと「ボコボコにして恥ずかしい写真を撮って晒す」くらいの意味です。殺してはいけません。
 そこで恥ずかしい写真を撮られてしまうお兄さんは、きっと末端のアルバイトか何かで、Google様の奥の方でムツカシイことをしている人は痛くも痒くもないことでしょう。しかし愛を示す時、一番いけないのは「本質に迫」ろうとしてしまうことです。効率とか合理性とかほど、愛の障害になるものはありません。「見つけたなら、とにかく撃て!」です。
 考えている暇に告白です。口ベタなら強姦でもオッケーです。説得よりセックスです。末端だとかバイトだとか、そんなことは五六発殴って家に帰ってお風呂に入った後にでも考えればお釣りが来ます。
 ストリートビューの最大の問題点は、「喧嘩の後はまずセックス」という、人類開闢以来受け継がれてきた英知が、コンピュータの使いすぎで忘れられていることです。

 みんな、Google大好きですよね? わたしも大好きです。
 愛しているなら、ラヴ&ヴァイオレンスくらい当たり前でしょう。
 プライバシーなんて要らない。もっと近く、キスできるくらいそばまで来て!!