わたしが右目の下あたりの頬から入れた注射のせいで、彼は右腕を手首から、左腕を二の腕から切断しなければならなくなった。
しかし彼は、穏やかな笑みを浮かべて、恐れているようにも怒っているようにも見えない。
だがわたしの頬に打った注射のせいで、なぜ彼が手首を切断しなければならないのだろう。丁度頬から下あたりで、わたしは彼とつながっているようにも思う。
ふと病室を見ると、一人の女がベッドに縛り付けられて喚いている。そう、あの女が右腕を手首から、左腕を二の腕から切断しなければならないのだ。女は全く納得できず、髪を振り乱して抵抗している。医師らは女をベッドに固定し、無理やり麻酔の点滴を施している。それで眠ってしまったら、目覚めた時には右腕を手首から、左腕を二の腕から切断されているのだ。女は眠るまいと、より一層激しく暴れる。
すると彼は切断されなくてよいのだろうか。
それとも、彼とあの女は一つで、彼は落ち着いているけれど女は喚き立てているということなのだろうか。
しかし、彼と一つにつながっていて、注射で入れた弱い毒が回ってしまうのは、わたしではなかったのか。
わたしの結婚が決まった。
相手は右腕を手首から、左腕を二の腕から切断された男だ。
男は元々足も不自由で、他にも色々と障害があったのだが、わたしは気にしていなかった。彼は穏やかで聡明なのだ。
しかし正直に言うと、右腕を手首から、左腕を二の腕から切断されてからは、少し結婚に後ろ向きになっていた。
いくら何でも、右腕を手首から、左腕を二の腕から切断されていては、不自由が過ぎるのではないかと思ったのだ。
だが、周囲はもう結婚が決まったつもりでいる。
向こうの薄暗い部屋にいる彼の影が、僅かに壁に映っている。人々はこちらの明るい部屋で結婚を前に騒ぎ立てている。わたしは暗い部屋の彼が気になっている。
壁は真っ白で何の装飾もなく、ただ滑らかな窪みがある。真っ白く輝いているのに、光がどこから来ているのか分からない。その部屋の中央には、滑らかな曲線で構成されたテーブルがあり、その周りにこれも滑らかな形の椅子がある。正面にはホワイトボードのようなものがある。
そこに監督が怒り狂って入ってきた。
中にいた右腕を手首から、左腕を二の腕から切断された男と小野寺くんは、驚いた様子だった。
二人は、今の今まで行楽の相談をしていてたのだが、本当は映画の撮影予定が詰まっているのだ。二人が出演を了解しながら、ちっともスケジュールを調整せず、その前に遊びに行く相談などをしていることに、監督は怒り心頭だったのだ。
小野寺くんは元々ルーズな男だ。きちんと約束の時間を守った試しがない。それで何度も注意されているのに、悪びれた風もなく、へらへら笑って誤魔化すだけだ。それなのに綺麗なマッキントッシュを持っている。
ふと思いだしたが、なぜ彼がマッキントッシュを持っているのだろう。彼は以前、ウィンドウズは優秀な女性秘書のようで、マッキントッシュはやたらと人懐こい男友達のようだ、と、ウィンドウズ派を語っていたのに。
しかし監督は、マッキントッシュのことなど目もくれず、烈火の如く二人に怒鳴りつけた。小野寺くんはいつものようにヘラヘラと笑って誤魔化している。
ホワイトボードの前にいた右腕を手首から、左腕を二の腕から切断された男には、白くまばゆい部屋に似つかわしくない影があった。白く書き込みの少ないマンガのコマの中で、彼だけが劇画調で描かれているようだ。その沈んだ様子で、小野寺くんが監督に怒鳴られているのを眺めている。
小野寺くんは小太りでヘラヘラしていて、衣装もペラペラで真っ白い部屋と調子が合っている。合っていないのは男の方だ。
だがよく見ると、怒っている当の監督も、男ほどではないにせよ、どこか劇画調だ。古い8ミリカメラを手に持って、服装も薄汚れている。小柄な身体で、自分より二回りも大きい小野寺くんに怒鳴り続けている。
その時分かったが、右腕を手首から、左腕を二の腕から切断された男は、エジプトのニュースキャスターであるアフマド・ムスリマーニーにそっくりだ。
少し落ち着きを取り戻したらしい監督が、狭い別の部屋にやって来た。
白い部屋とは打って変わって、未来風でも何でもない、普通の部屋だ。わたしが子供の頃に使っていた部屋に似ている。壁中が本で囲まれている。
その部屋に杉浦くんがいた。
監督は言い過ぎたと思ったようで、杉浦くんに謝っていた。
「医者のシーンだけだったら、一日で撮影も終わる。何なら、スタッフの方が皆んなで仙台まで行って撮影したっていいんだ。ロケ場所があるようだったら」。
本当は監督の方も、ロケ場所の目処が立っていないのだ。役者たちの予定が立っても、ロケ場所が決まっていない。だから監督は、うまいこと言って、スケジュールの方を融通する代わりに、ロケ場所を杉浦くんに見つけて貰おうとしているらしい。
しかし、なぜ監督が杉浦くんに謝るのか。
よく見ると、確かに杉浦くんはアフマド・ムスリマーニーに似ている。落ち着いていて聡明だ。
しかし彼は、右腕を手首から、左腕を二の腕から切断されてはいないのではないか。
結婚して二人の子供までいるのだ。
あるいは、右腕を手首から、左腕を二の腕から切断されていても、結婚して二人の子供を作れる、ということなのだろうか。
Filed under: 小説 | | Trackbacks (0) 2012/01/16
小野先輩が道場を開いていた。
小野先輩は、昔世話になった拳法道場の先輩で、その道場でほとんど唯一本当に強い格闘家だった。小さな道場で、道場主もそれほど実力があるとも言えず、趣味で拳法を学ぶ程度ならともかく、小野先輩のような才能ある人物がなぜこんな町道場でくすぶっているのか不思議なほどだった。
その後わたしは拳法から遠ざかってしまったが、風の便りで先輩がその後他流派に移り、タイや中国に修行を積み、多くの戦績を上げて遂に自分の道場を開くまでになったことを知った。インターネットで検索してみると、たくさんのトロフィーに囲まれた先輩の笑顔があった。他流に移ったのだから、道場主の先生とはいざこざがあったかもしれないが、身近だった先輩の成功を見るのは嬉しかった。
その冬の空の低い日、電車を乗り継いで先輩の教える町を尋ねた。小野先輩はわたしのことを覚えてくれていて、歓迎してくれた。ずっと疎遠だった兄弟弟子の何人かの顔もあった。
「久しぶりに、一緒に稽古しないか」。
でもわたしは、その前に家庭教師のアルバイトに行かなければならなかった。アルバイトが終わったらすぐに稽古に参加しようと、胸を踊ろせながら一度道場を後にした。
アルバイトに向かう途中で、大学が学祭を開いていた。
母校もすぐそばにあったが、別の私学の学祭だ。校門の周りは人だかりになっている。
学生らしい男が寄ってきて、屋台のチケットを買わないか、と話しかけてきた。ひょろひょろで無精髭を生やし、髪を金髪に脱色してへらへらと薄ら笑いを浮かべた、少し軽薄そうな男だった。少し学祭を覗いってもいいかと思い、一枚だけチケットを買おうと思った。
すると男は、手招きして校門とは別の方向に連れていこうとする。
なぜチケットがすぐに売れないのか不審に思ったが、付いて行ってみると、校門の先を曲がった路地のところに、何台も錆び付いたバスが並んでいる廃車置場があった。急に空気が冷たくなった。ベージュのロングコートの襟を立てる。
男は廃車置場にわたしを連れ込もうとしている。麻薬取引にでも使われていそうな薄暗い場所だ。アルバイトもあるし、拳法の練習にも行きたいのに、わたしは苛々してきた。
「大丈夫、ここが安いんだ」。
見ると、廃バスの一つにホームレスのような男が住んでいて、学生はその男と何か話している。バスの男は、薄汚くホームレス風ではあるものの、屈強で目に力がある。バスの中には生活用品がたくさんあり、ここに住んでいるらしい。また、座席には古本やレコードが山と積まれている。
学生はわたしから三千円取り上げ、バスの男のところに戻り、何か交渉をまとめている。
学生が戻ってくると、ヤニで黄色くなった歯を見せてニカッと笑い、得意げにDVDを差し出して見せた。
「三千円で十枚だ」。
それはアメリカのシチュエーションコメディのDVDで、わたしが少し興味を持っていたものだった。
ただ、興味と言っても、語学の学習に使えるかと思っていた程度で、DVDを買ってまで見たいものではない。そんな怪しげなDVDに断りもなく三千円とられて、わたしは腹が立ってきた。
学生は素早くわたしから逃れ、得意げな薄ら笑いを浮かべて廃車置場から走り去った。急いで追いかけると、角を曲がったところで下りの急坂になっていた。学生はいつの間にか自転車に乗って、物凄いスピードで坂道を下って逃げていた。
急いで後を追ったが、到底追いつけるものではない。坂が急すぎて、うっかりすると転げ落ちてしまいそうなくらいだ。しかもどこまでもどこまでも不気味な下りが続いている。
もう拳法の練習に間に合わないかもしれない。せっかく昔の仲間たちと一緒になれたかもしれないのに、どんどん時間が過ぎてしまう。
走り疲れてトボトボと歩いていると、いつの間にかオフィス街のようなところに出た。
八丁堀か、東京駅の近くのように見えた。
あるビルの前に、とても背の高い体格の良い二人連れがいた。その一人が、高校の同級生の小野寺くんであることに気づいた。
「小野寺くん」。
小野寺くんはすぐにわたしが分かった。
しかし小野寺くんは、確かに体格が良かったものの、こんなに背は高くなかった筈だ。今の小野寺くんは、二メートル近い体躯で筋骨隆々、スキンヘッドで赤黒い肌をして、赤鬼のようだ。分厚い肌で、白く粉を吹いているところがある。しかも、アメリカのインディアンのような模様が顔に描かれている。
一緒にいるのは女性だったが、その女性も赤鬼のようで、天をつくような長身だった。彼女も顔に呪術的な模様を描いていた。
ただ、二人とも服装はカジュアルな普通の格好で、背にスタイリッシュなリュックを背負っている。
自転車でメッセンジャーのような仕事をしているらしかった。ビルの前に、競輪選手が乗りそうな細い自転車が二つ立てかけてある。
小野寺くんは仕事の用事があるようで、わたしを置いてビルの中に入っていった。鬼の頭がてらてらと光った。
一緒にいた彼女の鬼が、威圧的な体躯に似合わない柔和な笑みを浮かべてわたしに微笑んだ。
「心配ないわ、大丈夫よ」。
人里離れた僻地で自給自足の生活を送っている家族の、強い母のような微笑だった。
その微笑を見ると、とろけるような安心感を覚えたが、同時にまた、何か収まりのつかないものがわたしの中にあった。
それは拳法の練習に間に合わないということなのだろうか。きっともう手遅れだ。皆んなのところには戻れない。もう時間が経ちすぎてしまった。ちっとも大丈夫じゃない。
しかし収まりのつかないのは、何か別のことのような気がする。
そうして考えて、わたしはふと思いあたり、赤面した。恥じらいで赤鬼のような肌になった。
「大丈夫」。
彼女はそう言って、わたしはどんどん取り込まれそうになる。
それは性的な愛撫を受けて、意に反しながら快楽の頂に導かれているようだった。
Filed under: 小説 | | Trackbacks (0) 2012/01/13