『イラクは食べる―革命と日常の風景』酒井啓子

400431125X イラクは食べる―革命と日常の風景 (岩波新書 新赤版 1125)
酒井 啓子
岩波書店 2008-04

 イラクをご専門とされる国際政治学者酒井啓子氏による、最新イラクリポート。
 「シーア派・スンナ派・クルド人」などという単純な図式でイラク情勢が切れるわけもなく、宗教・宗派ではなく単なる諸政治勢力の混沌としたパワーゲームが支配していることが示されているのですが、もう、余りにも複雑になりすぎて、簡潔にまとめられているであろう新書本であるにも関わらず、ここにざっと図式を書き出すこともできません(笑)。パラパラと読み返して、ポイントを一つ搾り出そうかと思ったのですが、それすら難しいです。「シスターニーすごい」とか、子供みたいな感想ばかりです。
 『イラクは食べる』というタイトル通り、本書の構成は「シーア派諸勢力」「スンナ派諸勢力」などについての各章の冒頭に、それぞれの地域や人々に密着した料理が紹介され、その由来やレシピが添えられています。食べ物の話は必ずしも内容と自然に連続しておらず、本論に入るとやはり一般的な政治情勢の文体が支配しています。
 それでもこうした構成を採用されたのは、「混沌とした情勢の中でも、人々は食べ、日々を生きているのだ」という生活感を、少しでも伝えたかったからでしょう。状況が込み入っていればいるほど、外部にいる人間はその分析に振り回され、Excelで組織関連図を作るような発想に嵌っていくものです。しかし、どんな組織も実体は生きた人間であって、その人間が毎日食べなければならないのは、どこでも一緒です。
 イラクに密着して仕事されている酒井氏にとっては自明なはずのこうした「地続き」感が、なかなか伝わらないもどかしさから、敢えて試みたものではないのか、と推測されます。
“『イラクは食べる―革命と日常の風景』酒井啓子”の続きを読む

『文明の接近』エマニュエル・トッド ユセフ・クルバージュ

4894346109 文明の接近―「イスラームvs西洋」の虚構
エマニュエル・トッド ユセフ・クルバージュ
藤原書店 2008-02

 『帝国以後』で知られる人口学者エマニュエル・トッドによるイスラーム世界分析。識字率、とりわけ女性の識字率と出生率の相関性を軸に、諸国家・民族を「近代化」のライン上に並べ、過激なイスラーム主義の勃興やテロリズム等が、イスラーム世界個別の問題ではなく、「移行期危機」の表れとして捕える相対化が、主旨になっています。
 「移行期危機」とは、住民の過半数が識字化された社会が見舞われる一時的な社会的混乱を指します。こうした社会とは「息子たちは読み書きできるが、父親はできない」世界であり、家庭内での権威関係から政治的権威までもが揺さぶりを受けます。トッドはイングランド革命、フランス革命、ロシア革命などをその例証として挙げます。また、こうした社会において自殺が増加し、「脱宗教化」が進むことも指摘されています。
 こうしたラディカルな模式化・解釈が問題含みであることはもちろんですし、トッド自身も万能だとは思っていないでしょう。加えて「近代化」という、「ヨーロッパ的」なるものの上で「ヨーロッパ的」なものが解体されることには、疑問の余地がないわけではありません。相対主義は、常に相対化を可能にさせる共通の普遍性を前提とします。
 いかにも扇情的なタイトルですが、原題はLe rendez-vous des civilisations、「文明の待ち合わせ」。これも見方によっては、「進んだ」ヨーロッパが「遅れた」イスラーム圏を待っていてやる、とも読めます。
 しかし、何かと「イスラーム本質主義的」な還元をされているイスラーム関連の諸問題については、こうした相対化による認識の揺さぶりが概ねポジティヴに働くのではないのか、と思われます。加えて、本書では「イスラームの性質」と捉えられている要素の多くが、イスラームそのものというよりは地域文化に由来するものであり、普遍的でも本質的でもないことが指摘されています。また、イスラームと同時に輸出された「アラブ的なもの」も、受容されることもあれば根付かないこともあります。アラブ的内婚システムはボスニアでは採用されていませんし、世界最大のイスラーム国家インドネシアは妻方居住を原則とする母系社会です1
“『文明の接近』エマニュエル・トッド ユセフ・クルバージュ”の続きを読む

  1.  師岡カリーマ・エルサムニーさんも『イスラームから考える』で、サハラ以南のアフリカの伝統である女子割礼が、あたかもイスラームの伝統であるかのように喧伝されていることを批判されています。 []

兎と毒ガスの島 大久野島 うさぎ島篇

 大久野島(おおくのしま)の廃墟に続いて、うさぎ篇です。
 この島には軍事施設跡の他にもう一つ見所があります。うさぎです。
 元々は実験用に飼われていたうさぎが繁殖した、ということだと思っていたのですが、Wikipediaでは「1971年に小学校で飼育されていた8羽のウサギが放されるとたちまち繁殖して野生化」とあります。うさぎと毒ガスは全然関係ないのかもしれません(笑)。とにかく、この島には野生のうさぎがそこら中にいて、うさぎファンの間では「うさぎ島」として聖地化されているのです。
 廃墟とうさぎ。わたしのためにあるような島じゃないですか。この二点だけで、飛行機に乗って東京から遊びに行きました。
 現在島を訪れる人々の大半は、うさぎ目当てのファミリー層と年配の方。うさぎファンの女の子二人連れ、というパターンもいくらか見られます(カップルもいますが数は少ない)。廃墟がメインの男の子は、ぐっと数が少なくなります。廃墟組はほとんど日帰りらしく、島を回っている時には大きなカメラを抱えた方と何人か擦違いましたが、大久野島唯一の宿泊施設である国民休暇村にはほとんどいませんでした。もちろん、女一人で泊まっているのはわたしだけです。
 島には小さなテニスコートなどの施設がある他、釣りを楽しむこともできるので、お子様連れの方々にはもってこいです。

 大久野島は、うさぎ保護のため自動車はわたることができず、犬の連れ込みも禁止。船着場から国民休暇村までのバスが往復しているのが、島で見られる唯一の自動車です。
 このバスに乗っている間にも、道端でうさぎを目撃。船着場附近は結構数が多いです。普通にその辺にうさぎがいます。


“兎と毒ガスの島 大久野島 うさぎ島篇”の続きを読む

兎と毒ガスの島 大久野島 廃墟写真篇

 「うさぎ島」こと大久野島(おおくのしま)は、瀬戸内海に浮かぶ周囲4キロ余りの小さな島。
 1929年から大日本帝国陸軍よる化学兵器の開発が行われていたことで知られ、戦前から戦中にかけて、軍事機密保持のため地図にも掲載されなかった、という歴史があります。
 大久野島で製造されていたのは、イペリット、ルイサイトなどの毒ガス。当時の技術では製造工程での作業員の被害も守ることはできず、戦争が終わっても呼吸器系疾患などに苦しみ続ける方が多かったと言います。また、毒ガスの廃棄作業中にも、多くの被害があったそうです。もちろん、最大の「被害者」は、この毒ガスを兵器として使われた中国大陸の人々だったわけですが。
 島には当時の兵器製造施設の跡の他、日露戦争当時に設置された砲台の跡(使用はされなかった)などが残されています。

“兎と毒ガスの島 大久野島 廃墟写真篇”の続きを読む

それでも暴力は結構希望、しかし希望のすべてではない

 「差別、仲良し、喧嘩上等」で、ポジティヴなんだかネガティヴなんだかよくわからないことを書きましたが、「敢えて短い目で見る」ことについて、少しだけ補足しておきます。
“それでも暴力は結構希望、しかし希望のすべてではない”の続きを読む

『イスラームに何がおきているか―現代世界とイスラーム復興』

4582481345 イスラームに何がおきているか―現代世界とイスラーム復興
小杉 泰
平凡社 2001-12

 初版は1996年と十年以上前ですが、9・11を受けて2001年に増補・改訂されたイスラーム復興を巡る概論集。
 お目当ては最近お気に入りなのに単著は読破してしまった保坂修司さん1だったのですが、小杉泰、鈴木董、大塚和夫、私市正年、飯塚正人、吉村慎太郎、保坂修司、酒井啓子、小松久男、佐藤考一、中村緋紗子、川島緑、内藤正典、中田考、臼杵陽と、日本のイスラーム研究の主な面々が勢ぞろいしているところもあり、なかなかお買い得です。
 増補版で追加された『「アメリカ同時多発テロ事件」への視座』二編については、確か池内恵さんが批判されていて、実際「慌てて何か言った」感じも否めません。そうした「思想」寄りのテクストより、地域研究の方が魅力的でした。
 エジプトやサウジアラビア、あるいはインドネシアといった、イスラームと言えば必ず取り上げられる地域だけでなく、中央アジアやアルジェリア・モロッコ、さらにフィリピン辺境の「少数派」イスラームについても触れられています。
 個人的に、一番興味を惹かれたのは、過激なイスラーム救国戦線(FIS)が台頭し無政府状態に近いアルジェリアと、経済状態では似た苦境にありながら比較的政情の安定している隣国モロッコを比較研究した私市正年さんの『反体制と体制のはざまで』。イスラームの「普遍的二元性」という、宗教秩序において非常に重要なポイントから分析されています2
“『イスラームに何がおきているか―現代世界とイスラーム復興』”の続きを読む

  1.  以下参照。
    「『サウジアラビア―変わりゆく石油王国』保坂修司」
    「『正体―オサマ・ビンラディンの半生と聖戦』保坂修司」
    「『乞食とイスラーム』 ストリートと貴種流離談」 []
  2. この構造は世俗化したキリスト教とか自民党でも一緒な気もしますが(笑) []

差別、仲良し、喧嘩上等

 arkanalの日記:懸念すべき心性について、一般論で異論を呈しておきます

「自分と違う人達」に対して、何となく身構えてしまうのは、人間の本性であり、もっと言えば動物の本能のようなものだと思います。「自分と違う」→「今までの経験則が通じない」→「何をするのか予測できない」→「不安・警戒心」ということで、「情報が足りないもの」については、油断ないように身構えるのはある種自然な行動だと言えます。
(・・・)
同じ人間をして、「こっち」と「あっち」に分けてしまうことは、後々大きな悲劇を生みます。(・・・)人々の間にポンと一本線をひくだけで、独特の「場」が生まれます。
(・・・)
で、どうなるかというと、差別が始まってしまう。また、差別される側も、何か気に食わないことをされると「これってもしかして差別?」と疑心暗鬼にもなります

 このエントリの主旨について議論したいわけではなく、かつ、この文章にarkanalさんが意図されているであろう働きをしてもらうためには、こうした平易な語り口の方が効果的だとは思うのですが、「自分と違う」「自集団と違う」から「線が引かれる」というのは、端的に順序が違います1
 最初に、一本の線が引かれます。< わたし>が世界を識る、ということは、わたしと世界の間に線を引く、ということです。
 正確に言えば、線を引いたのは< わたし>ではありません2。わたしたちが「気が付いたら」この世に生まれていたように、むしろ線が< わたし>を焙り出すのです。< わたし>が線を引いて「ここから先は他所だ」というのではなく、寝ているところを担ぎ上げられて、いきなり柵の外に放り出されたのが< わたし>です。
 ですから、正確にはこの線は単なる「わたしと他人の間の線」ではないのですが、ここでは敢えて不正確に素朴に考えておきます。
 さて、夜も開けやらぬうちに柵の外に掘り出された< わたし>にとって、周囲は未知と危険で満たされています。とりあえず丸くなって夜明けを待ちますが、物音一つでも不安です。とても太い「線」が引かれています。
 「こっち」と違うから「差別する」のではありません。むしろ、arkanalさんが指摘されている「不安」が最初にあるのです。
 ですから、「差別しない」という考え方より、まず線が至るところにあるのだけれど、この線とどう付き合っていくか、とアプローチしなければなりません。
 こんなことは自明事で、arkanalさんも、

クッキリと「線」があるように見えていても、「線がある」とは口が裂けても言ってはいけない。そんなものないように振る舞うこと。

 と仰っているのですが、こういう理性的なアプローチというのは、はっきり言って大抵うまくいきません。
“差別、仲良し、喧嘩上等”の続きを読む

  1.  例によって他人の文章の些事をネタに自分の言いたいことだけを言っています。わたしは説得や啓蒙にはまったく興味がないし、百害あって一理なしだと考えているので、テクストは常に限られた人々のみが理解すべき、あるいは誰にも(本人にも)理解されるべきではない、と考えています。何でも能力の限界で作り上げたようなものは、一晩経つと解読不可能になっていたりするものです。それでも、その瞬間だけは地平を見渡すような知がありましたし、神様だけはずっと読んでくれていますから、覚えておくべきことは神様にお任せしています。プログラムでこれをやる人とは、極力一緒に仕事したくないですが(笑)。 []
  2.  ですから、実はそもそもの始まりから、ことは「わたし」と他人の問題ではないのです。「自集団」というものがあったとしても、それが「自」であるかどうかを決めたのは「わたし」ではありません。誰かが線を引き、わたしは目覚め、少しずつ世界に馴染みます。 []

クロネコヤマトの気密性

 クロネコヤマトの「機密文書リサイクルサービス」。

クロネコヤマト

クロネコヤマト 気密性

 水も漏らさぬ気密性とは、これいかに。

 全然関係ありませんが、「クロネコヤマトの宅急便」と「人間モーセと一神教」は似ています。

返却の祈り

いつも行くスターバックスに、よく話しかけてくれる店員さんがいる。
スターバックスの「フレンドリー」な演出は好きではないし、店員に話しかけられるのも苦手だ。
天真爛漫な人間も嫌いだ。
でもなぜか、彼女だけはほっとして、つい気をゆるしてしまう。
いかにも社交的な雰囲気ではないからかもしれない。
かといって、機械的にマニュアルに従っている風でもない。
わざとらしくはないが、何かがぎこちなく、しかしそのぎこちなさが、彼女の本性に根ざしているように見えるのだ。
兎は後ろ足が長いので、登りは速くても下り坂ではうまく走れない。階段を降りるときは実にぎこちない。そういう「自然なぎこちなさ」を感じる。
折れそうなほど細い腕で、ただその細さは病的なまでで、もしかすると摂食障害かもしれない。
可愛らしく純朴そうな容姿にも、涙ぐましく、時にグロテスクな裏面があることがしばしばなのは、大抵の人間より知っているつもりだ。
もちろん、ただ単にスリムでまだ子供なだけかもしれない。本当のことはわからない。
ただ、彼女と話す時、気が付くと心の中で神の名を唱えている。
全身の筋肉で自らを抑えつけるように、必死で祈っている。
なぜ、わたしは祈っているのか。
“返却の祈り”の続きを読む