IE7の検索ボックスが途中で切れるバグ カシーダとタトゥウィール

 Internet Explorer 7で、ctrl+Fで表示される検索ボックスが途中で切れる現象があります。おそらくバグです。
IE7の検索ボックスが途中で切れるバグ カシーダとタトゥウィール
 ただし、この現象はアラビア語入力をインストールしていなければ、多分発生しません。
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内記良一『基礎アラビヤ語』と『くわしいアラビヤ語』

 あれほど避けていた大学書林のアラビア語教科書に、とうとう手を出してしまいました。しかも二冊。
 内記良一先生の『基礎アラビヤ語』『くわしいアラビヤ語―語形と構文』です。王道ド真ん中です。
 最初に購入したのは『くわしいアラビヤ語』。おそらく、日本語で書かれた唯一の「中級以上向け」アラビア語教科書です。
 基礎の基礎を一応学び(身に付いているかは別)、「もうちょっと詳しい構文論などが欲しいなぁ」と思った時に、他に選択肢がなかったわけです。
 選択肢がないといっても、『くわしいアラビヤ語』がよろしくない、という意味ではありません。この教科書が十分な完成度を持っていて、かつアラビア語教科書の需要の少なさから、類書が出版されてこなかった、というだけの話でしょう。独学でアラビア語を学んでいる人間には、こうした情報源はちょっとでも大変有り難いです。
 『くわしいアラビヤ語』を読み進めて痛感したのは、そもそも基礎がまだまだできていない、ということです。
 まだ半年余りなので勘弁していただきたいですが、とにかく広大無辺なアラビア語文法の世界、基礎の基礎を何度でも学ばなければ、到底身に付けられるものではないようです。『基礎アラビヤ語』を購入したのは、そうした経緯からです。
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『シーア派―台頭するイスラーム少数派』桜井啓子

4121018664 シーア派―台頭するイスラーム少数派 (中公新書)
桜井 啓子
中央公論新社 2006-10

 前にご紹介した酒井啓子さんの『イラクは食べる』に言及があったので、手にとってみました。なんだかこの手の「イスラーム系お手軽新書」は目につくととりあえず読んでいる気がするので(笑)、前から気になってはいたのですが、シーア派の誕生から現代イランの抱える苦悩まで、平易にまとめられた良書です。マーケットプレイスでも値段が下がらないわけです(笑)。
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宗教の気持ち悪さ、家族の気持ち悪さ、ザラザラしたものの発見

 信仰について言及することが多いこのブログですが、それをどう受け止めるのかは人によってかなり違うでしょう。そもそも、このブログを読んでくれている方には、会ったことのある人、継続的にチェックして下さっている方もいる一方、エントリ単位の一見さんもいるわけで、書いているわたしを何者と見るか、そのコンテクストによってまったく意味が変わってくると思います1
 「あなたの読解がわたしの真意、神のネタには全力マジレス」で書いた通り、すべてが字面通り、あるいは字面以上に表面的に受け取られても、わたしはそれを「わたしの言葉」としたいと思っていますが、気まぐれで自分と宗教についての極個人的なことを、素朴に書いてみようと思います。
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  1. ついでながら、いつわたしに会ったのかによっても、かなり印象が違うと思います(笑)。 []

識字化と脱宗教化、頸の血管より近き者

 『文明の接近』のエントリで触れた、識字化の進んだ社会が脱宗教化される、というトッドの指摘について、もう少し考えてみます1
 お断りしておきますが、トッドは識字化が脱宗教化をもたらし、その結果出生調整がなされる、と言っているのではありません。脱宗教化は近代化の一側面にすぎませんし、出生調整に影響はしますが、それだけで出生調整が行われるわけではありません。
 また、脱宗教化は「無宗教」や「無神論」を意味しません。脱キリスト教化されたキリスト教圏や脱仏教された仏教圏は可能ですし、現に存在します。
 ここでの脱宗教化とは、「個々人に付きまとって寝台の中にまで忍び込んでいた、自分とは別の者がすべてを律する他律の世界の崩壊」です。「現在静かに進行している」とトッドが考えるイスラーム圏の脱イスラーム化と、ラマダーンやザカートといった宗教的行為が盛んに行われている事実が「矛盾しない」と指摘されているように、識字化による脱宗教化を経験しても、社会から「宗教的」行為が消えることはないでしょう。
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  1. 念のためですが、わたしはトッドのシンパでも何でもありません。基本的にただの胡散臭いオッサンだと思っていますが、胡散臭いオッサンが大好きなので、絡みたいだけです。 []

かわいそうな象とペシャンコの猫

 Enemy of the Sun:「かわいそうなぞう」を殺せ!

 「かわいそうなぞう」に涙し、「象がかわいそうだ(からトリアージやめろ)」と抗議する生徒は確かに「ナイーブ」で馬鹿かもしれない。しかし、本当に問題にすべきは学生が馬鹿であることではなく、まさにそうした「抗議」すらも「権力」(あえて権力者とは書かない)が自身の権力を保つために要請したものかもしれないということであり、「純粋な子供」は「汚い大人」の潜在的な味方かもしれないということだろう。
 では、「かわいそうなぞう」に対して我々サヨクが為すべきことは何か?言うまでもなく、経営学者たちが「かわいそうなぞう」の話に拍手し始めるよりも早く、哀れな象の顔面に散弾銃を叩き込むことである。

 素晴らしい。まるでわたしが書いたようです(笑)。

 「汚い大人」と「無垢な子供」がいて、「無垢な子供」は少数派だけれど確実にいて、彼・彼女が「かわいそう」と言い、しかし象は殺される。この全体が、恐ろしく強力な吸引力を持ったトラップでしょう。経営学者に対抗するとしたら、それは「かわいそう」と言うことで、純粋だけれどバカなのだ、という囲い込みがここにはあります。
 「かわいそう」と口にしてしまうことには、実は麻薬的な気持ちよさがあります。わたし自身も時々口にしてしまうし、正直とても気持ちよいです。いや、「かわいそう」を使う人々の多くは、必ずしも「かわいそう」の麻薬性に自覚的ではありません。彼・彼女たちの心の中を覗けるわけではないので、もしかするとわたしの認識より自覚しているのかもしれませんが、ここで「無垢な子供」の側を選択するということには、自らの心に対する慰撫的な効果があるばかりでなく、一定の戦略性があるのです。「無垢な子供」「馬鹿な学生」「純粋だけれど不適応な人」「弱者」、これらには、上手く使うと大変得なことがあるからです。
 別段、「戦略的弱者」などと揶揄したいわけではありません。経営者が戦略を謳うなら、女子供だって持てる特権を駆使して戦略くらい練るでしょう。戦略、大いに結構。
 では何が言いたいのかと言えば、そこに「戦略的有利」ができていること自体が、トラップの吸引力なのだ、ということです。「かわいそう」の入り口には、「今入会すれば30%OFF」と書いてあるのです。
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ジョジョの件

 空き箱:ジョジョ話に関する英語報道

問題の悪役ディオ・ブランドーはイギリス人孤児であり劇中に彼がイスラム教徒になった描写は存在していないし、犯罪性向としてもマニアックではあってもテロリストとはいいがたい。
つまり、ムハンマド風刺画問題等のイスラムバッシング表現で過敏になっているところに悪党がコーラン読んでいるシーンを見せられたので「悪意ある宣伝」と解釈して怒っているだけなわけで「悪意があるわけじゃなくてバカなんです」という集英社の言い訳はそれ自体としては正しいと思う。
正しいとは思うが、だったら内容を(しかも日本国内のプロダクトの内容を)泥縄で修正するより前にもっときちんと実際に描かれている内容を説明したらどうなのか。むしろ正式にライセンスして内容に対する誤解を受けないようなかたちで広く読んでもらうようにすべきではないのか。

要するにこの記事は意識的か無意識的かにかかわらずこの事件自体を「信仰」と「表現の自由」の対立というムハンマド風刺画事件で結果的にでっち上げられたステレオタイプに当てはめようとしている。

 この問題について、ヒステリックな反応(ヒステリックな反応に対するヒステリックな反応)が多く見られる中で、かなり冷静な目の付け所をされていると思います。「『信仰』と『表現の自由』」の対立とステレオタイプ」とは正にその通りで、この対立軸に乗ってしまった時点で、どちらに与する以前にある意味「負け」なのです。
 ジョジョ問題は、ムハンマド風刺画問題とは、そもそも本質が異なります。ジョジョの描写は別段カリカチュアを狙ったものではなく、そもそもそれがクルアーンだという認識すら持っていなかったのでしょう。正に「悪意があるわけじゃなくてバカ」です。
 ただ、集英社が内容を説明すべきか、という点については、いささか疑問です。主張はまったくもっともですが、はっきり言って、今の時点でどう内容を説明しようが、焼け石に水です。彼・彼女らは、ジョジョそのものには何の興味もないのですから。クルアーンがいかに位置づけられていたかではなく、とにかくネタにされてしまった時点で、ムスリムにとっては怒る理由が色々あるのです。それを極端な宗教バイアスと非難するのは簡単ですし、わたしも少しだけそう思いますが、集英社は別段宗教戦争がやりたいわけではないでしょう。
 ほとんどのムスリムは、もしもことの次第を理解したならば、闇雲に怒ったりわめいたりするほどアホではありません。ただ、主に欧米のイスラームに対する姿勢について、疑心暗鬼なまでに過敏になってしまっている、ということです。その原因について、ただ「アメリカが悪い」とだけ言うつもりはありません。ムスリムの側にも問題はあるでしょう。ただ、それを言ってどうにかなる状況ではありませんし、現在集英社が取っているように「バカなんです」と謝り倒して一旦事態の収束を見るのが先決です。その先に「内容」についてまで言葉を交わせる領域があれば素晴らしいことですが、その時はおそらく、ジョジョの内容にまで踏み込んでくれるムスリムを介して、「ムスリムがムスリムを説く」形にしなければ、まず真意は伝わらないと思います。

 ジョジョを全巻読破していて、かつクルアーンを読誦しない日が一日もない、というおそらく稀有な日本人として、この騒ぎはとても心が痛いです。本当は何も言いたくありません。ひたすら悲しいです。ただ、「『信仰』と『表現の自由』」の対立」という図式自体が、既にトラップなのだということ、それを強調するためだけに一応エントリを立てておきます。

奥行きの不安

 奥行きが不安です。
 このことを思い出したのは、アラビア語の発音がキッカケです。アラビア語には喉や口蓋の奥を使う音が多く、似た音を弁別するのに、口の「前」と「後」というのを意識しないといけません。依然として(おそらく一生)キチンと発音できないので、気張っていると意識に合わせて顔が前後していたりします。まるで初めてテレビゲームをやった子供が、画面のキャラクターに合わせて身体を動かしてしまうようです1
 かつて離人症的症状がひどかった時、奥行きが気持ち悪くてたまらなくなりました。正確には、奥行きというのが「わからず」、にも関わらず奥行きの概念を備えている、という状態が叫びだしそうなほど怖かったです。
 この感覚を表現するのは難しいのですが、ものに実体感がなくなると、机は机で確かに見えているのに、何か全部が平べったいカキワリのように見えて、いちいち触って裏側がないか確かめたくなります。別段、視覚が変わるわけではないのです。「生気がなくなっている」とでも言えばよいのですが、何が足りないのだろう、と考えると、奥行きがないのです。
 立体視ができないわけではありません。「モノに奥行きがある」ということも理解しています。ですが、「別に奥行きがなくて立体っぽく描いてある絵でも一緒なんじゃないか」というか、奥行きの意味がわからなくなるのです。
 全然伝わっていないですね。すいません。
 「実体感」と概念として括り出してしまうと、抽象的すぎて違う気がしてきます。その欠落が実際に感じられるとき、「奥行き」なるものの形をとって表れる。明らかに物理的な意味での「奥行き」ではないのですが、なぜかそれが「奥行き」の身を借りてやってくる。
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  1. 今の子供はそんなことないですか? わたしは動きました。 []

旅美人 馬油のシャンプーとトリートメント

 大久野島の国民休暇村に泊まった時旅美人の馬油のシャンプーやトリートメントがお土産コーナーで販売されていました。
 最近会社の人と傷跡ケアについて話していた時に「馬油が良いらしいよ」と聞いていたので、気になりました。
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聖俗二元論こそ政治と宗教を癒着させる

4061498320 「イスラムvs.西欧」の近代 (講談社現代新書)
加藤 博
講談社 2006-03

 以前に『イスラム世界論―トリックスターとしての神』をご紹介した加藤博氏による近代エジプト思想史。
 「イスラムvs.西欧の近代」などという安っぽいタイトルを付けられてしまっていますが、実際の内容は日本で言えば幕末から明治に至る時期における、エジプト人思想家を取り上げたものです。ナポレオンの東方遠征時代の歴史家ジャバルティー、近代教育を受けた行政官僚アリー・ムバーラク、後のイスラーム復興にも多大な影響を与えた知の巨人ムハンマド・アブドゥが主題ですが、関連して何人かの思想家も紹介されています。日本と一緒で、「外圧としての近代」に出会った時代というのは、飛びぬけた人物が活躍するものです。
 特に興味深かったのは、アリー・ムバーラクが小説『アラム・アル=ディーン』の中で、主人公の口に語らせている「聖俗二元論こそ政治と宗教を癒着させる」という議論。
 『アラム・アル=ディーン』は、アラビア語では最初の対話形式の小説で、主人公はアズハル学院のシャイフ。イギリス人オリエンタリストの求めに応じ、長男と共にヨーロッパに渡ったアラム・アル=ディーンが、旅先で出会う人々と語り合う、という形式となっています。
 アラム・アル=ディーンは、「イエスは神の化身である」という信念をヨーロッパ人が主張するのは、ローマ教皇権と教会の力を維持したいからではないのか、と批判します。三位一体説とは、地上に「神の領域」が現れうる、という考え方です。イスラームにおいてもイエスは預言者の一人ですが、預言者はあくまで人間であって、神の子供でも何でもありません。それを神聖化するのは、「聖別化された領域」を認め、聖職者を特権化するためではないか、と言うのです。
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