ish☆数えます

 Internet Explorer 7で、ctrl+Fで表示される検索ボックスが途中で切れる現象があります。おそらくバグです。
IE7の検索ボックスが途中で切れるバグ カシーダとタトゥウィール
 ただし、この現象はアラビア語入力をインストールしていなければ、多分発生しません。
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 あれほど避けていた大学書林のアラビア語教科書に、とうとう手を出してしまいました。しかも二冊。
 内記良一先生の『基礎アラビヤ語』『くわしいアラビヤ語―語形と構文』です。王道ド真ん中です。
 最初に購入したのは『くわしいアラビヤ語』。おそらく、日本語で書かれた唯一の「中級以上向け」アラビア語教科書です。
 基礎の基礎を一応学び(身に付いているかは別)、「もうちょっと詳しい構文論などが欲しいなぁ」と思った時に、他に選択肢がなかったわけです。
 選択肢がないといっても、『くわしいアラビヤ語』がよろしくない、という意味ではありません。この教科書が十分な完成度を持っていて、かつアラビア語教科書の需要の少なさから、類書が出版されてこなかった、というだけの話でしょう。独学でアラビア語を学んでいる人間には、こうした情報源はちょっとでも大変有り難いです。
 『くわしいアラビヤ語』を読み進めて痛感したのは、そもそも基礎がまだまだできていない、ということです。
 まだ半年余りなので勘弁していただきたいですが、とにかく広大無辺なアラビア語文法の世界、基礎の基礎を何度でも学ばなければ、到底身に付けられるものではないようです。『基礎アラビヤ語』を購入したのは、そうした経緯からです。
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4121018664 シーア派―台頭するイスラーム少数派 (中公新書)
桜井 啓子
中央公論新社 2006-10

 前にご紹介した酒井啓子さんの『イラクは食べる』に言及があったので、手にとってみました。なんだかこの手の「イスラーム系お手軽新書」は目につくととりあえず読んでいる気がするので(笑)、前から気になってはいたのですが、シーア派の誕生から現代イランの抱える苦悩まで、平易にまとめられた良書です。マーケットプレイスでも値段が下がらないわけです(笑)。
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 信仰について言及することが多いこのブログですが、それをどう受け止めるのかは人によってかなり違うでしょう。そもそも、このブログを読んでくれている方には、会ったことのある人、継続的にチェックして下さっている方もいる一方、エントリ単位の一見さんもいるわけで、書いているわたしを何者と見るか、そのコンテクストによってまったく意味が変わってくると思います1
 「あなたの読解がわたしの真意、神のネタには全力マジレス」で書いた通り、すべてが字面通り、あるいは字面以上に表面的に受け取られても、わたしはそれを「わたしの言葉」としたいと思っていますが、気まぐれで自分と宗教についての極個人的なことを、素朴に書いてみようと思います。
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  1. ついでながら、いつわたしに会ったのかによっても、かなり印象が違うと思います(笑)。 []

 『文明の接近』のエントリで触れた、識字化の進んだ社会が脱宗教化される、というトッドの指摘について、もう少し考えてみます1
 お断りしておきますが、トッドは識字化が脱宗教化をもたらし、その結果出生調整がなされる、と言っているのではありません。脱宗教化は近代化の一側面にすぎませんし、出生調整に影響はしますが、それだけで出生調整が行われるわけではありません。
 また、脱宗教化は「無宗教」や「無神論」を意味しません。脱キリスト教化されたキリスト教圏や脱仏教された仏教圏は可能ですし、現に存在します。
 ここでの脱宗教化とは、「個々人に付きまとって寝台の中にまで忍び込んでいた、自分とは別の者がすべてを律する他律の世界の崩壊」です。「現在静かに進行している」とトッドが考えるイスラーム圏の脱イスラーム化と、ラマダーンやザカートといった宗教的行為が盛んに行われている事実が「矛盾しない」と指摘されているように、識字化による脱宗教化を経験しても、社会から「宗教的」行為が消えることはないでしょう。
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  1. 念のためですが、わたしはトッドのシンパでも何でもありません。基本的にただの胡散臭いオッサンだと思っていますが、胡散臭いオッサンが大好きなので、絡みたいだけです。 []

 Enemy of the Sun:「かわいそうなぞう」を殺せ!

 「かわいそうなぞう」に涙し、「象がかわいそうだ(からトリアージやめろ)」と抗議する生徒は確かに「ナイーブ」で馬鹿かもしれない。しかし、本当に問題にすべきは学生が馬鹿であることではなく、まさにそうした「抗議」すらも「権力」(あえて権力者とは書かない)が自身の権力を保つために要請したものかもしれないということであり、「純粋な子供」は「汚い大人」の潜在的な味方かもしれないということだろう。
 では、「かわいそうなぞう」に対して我々サヨクが為すべきことは何か?言うまでもなく、経営学者たちが「かわいそうなぞう」の話に拍手し始めるよりも早く、哀れな象の顔面に散弾銃を叩き込むことである。

 素晴らしい。まるでわたしが書いたようです(笑)。

 「汚い大人」と「無垢な子供」がいて、「無垢な子供」は少数派だけれど確実にいて、彼・彼女が「かわいそう」と言い、しかし象は殺される。この全体が、恐ろしく強力な吸引力を持ったトラップでしょう。経営学者に対抗するとしたら、それは「かわいそう」と言うことで、純粋だけれどバカなのだ、という囲い込みがここにはあります。
 「かわいそう」と口にしてしまうことには、実は麻薬的な気持ちよさがあります。わたし自身も時々口にしてしまうし、正直とても気持ちよいです。いや、「かわいそう」を使う人々の多くは、必ずしも「かわいそう」の麻薬性に自覚的ではありません。彼・彼女たちの心の中を覗けるわけではないので、もしかするとわたしの認識より自覚しているのかもしれませんが、ここで「無垢な子供」の側を選択するということには、自らの心に対する慰撫的な効果があるばかりでなく、一定の戦略性があるのです。「無垢な子供」「馬鹿な学生」「純粋だけれど不適応な人」「弱者」、これらには、上手く使うと大変得なことがあるからです。
 別段、「戦略的弱者」などと揶揄したいわけではありません。経営者が戦略を謳うなら、女子供だって持てる特権を駆使して戦略くらい練るでしょう。戦略、大いに結構。
 では何が言いたいのかと言えば、そこに「戦略的有利」ができていること自体が、トラップの吸引力なのだ、ということです。「かわいそう」の入り口には、「今入会すれば30%OFF」と書いてあるのです。
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 空き箱:ジョジョ話に関する英語報道

問題の悪役ディオ・ブランドーはイギリス人孤児であり劇中に彼がイスラム教徒になった描写は存在していないし、犯罪性向としてもマニアックではあってもテロリストとはいいがたい。
つまり、ムハンマド風刺画問題等のイスラムバッシング表現で過敏になっているところに悪党がコーラン読んでいるシーンを見せられたので「悪意ある宣伝」と解釈して怒っているだけなわけで「悪意があるわけじゃなくてバカなんです」という集英社の言い訳はそれ自体としては正しいと思う。
正しいとは思うが、だったら内容を(しかも日本国内のプロダクトの内容を)泥縄で修正するより前にもっときちんと実際に描かれている内容を説明したらどうなのか。むしろ正式にライセンスして内容に対する誤解を受けないようなかたちで広く読んでもらうようにすべきではないのか。

要するにこの記事は意識的か無意識的かにかかわらずこの事件自体を「信仰」と「表現の自由」の対立というムハンマド風刺画事件で結果的にでっち上げられたステレオタイプに当てはめようとしている。

 この問題について、ヒステリックな反応(ヒステリックな反応に対するヒステリックな反応)が多く見られる中で、かなり冷静な目の付け所をされていると思います。「『信仰』と『表現の自由』」の対立とステレオタイプ」とは正にその通りで、この対立軸に乗ってしまった時点で、どちらに与する以前にある意味「負け」なのです。
 ジョジョ問題は、ムハンマド風刺画問題とは、そもそも本質が異なります。ジョジョの描写は別段カリカチュアを狙ったものではなく、そもそもそれがクルアーンだという認識すら持っていなかったのでしょう。正に「悪意があるわけじゃなくてバカ」です。
 ただ、集英社が内容を説明すべきか、という点については、いささか疑問です。主張はまったくもっともですが、はっきり言って、今の時点でどう内容を説明しようが、焼け石に水です。彼・彼女らは、ジョジョそのものには何の興味もないのですから。クルアーンがいかに位置づけられていたかではなく、とにかくネタにされてしまった時点で、ムスリムにとっては怒る理由が色々あるのです。それを極端な宗教バイアスと非難するのは簡単ですし、わたしも少しだけそう思いますが、集英社は別段宗教戦争がやりたいわけではないでしょう。
 ほとんどのムスリムは、もしもことの次第を理解したならば、闇雲に怒ったりわめいたりするほどアホではありません。ただ、主に欧米のイスラームに対する姿勢について、疑心暗鬼なまでに過敏になってしまっている、ということです。その原因について、ただ「アメリカが悪い」とだけ言うつもりはありません。ムスリムの側にも問題はあるでしょう。ただ、それを言ってどうにかなる状況ではありませんし、現在集英社が取っているように「バカなんです」と謝り倒して一旦事態の収束を見るのが先決です。その先に「内容」についてまで言葉を交わせる領域があれば素晴らしいことですが、その時はおそらく、ジョジョの内容にまで踏み込んでくれるムスリムを介して、「ムスリムがムスリムを説く」形にしなければ、まず真意は伝わらないと思います。

 ジョジョを全巻読破していて、かつクルアーンを読誦しない日が一日もない、というおそらく稀有な日本人として、この騒ぎはとても心が痛いです。本当は何も言いたくありません。ひたすら悲しいです。ただ、「『信仰』と『表現の自由』」の対立」という図式自体が、既にトラップなのだということ、それを強調するためだけに一応エントリを立てておきます。

 奥行きが不安です。
 このことを思い出したのは、アラビア語の発音がキッカケです。アラビア語には喉や口蓋の奥を使う音が多く、似た音を弁別するのに、口の「前」と「後」というのを意識しないといけません。依然として(おそらく一生)キチンと発音できないので、気張っていると意識に合わせて顔が前後していたりします。まるで初めてテレビゲームをやった子供が、画面のキャラクターに合わせて身体を動かしてしまうようです1
 かつて離人症的症状がひどかった時、奥行きが気持ち悪くてたまらなくなりました。正確には、奥行きというのが「わからず」、にも関わらず奥行きの概念を備えている、という状態が叫びだしそうなほど怖かったです。
 この感覚を表現するのは難しいのですが、ものに実体感がなくなると、机は机で確かに見えているのに、何か全部が平べったいカキワリのように見えて、いちいち触って裏側がないか確かめたくなります。別段、視覚が変わるわけではないのです。「生気がなくなっている」とでも言えばよいのですが、何が足りないのだろう、と考えると、奥行きがないのです。
 立体視ができないわけではありません。「モノに奥行きがある」ということも理解しています。ですが、「別に奥行きがなくて立体っぽく描いてある絵でも一緒なんじゃないか」というか、奥行きの意味がわからなくなるのです。
 全然伝わっていないですね。すいません。
 「実体感」と概念として括り出してしまうと、抽象的すぎて違う気がしてきます。その欠落が実際に感じられるとき、「奥行き」なるものの形をとって表れる。明らかに物理的な意味での「奥行き」ではないのですが、なぜかそれが「奥行き」の身を借りてやってくる。
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  1. 今の子供はそんなことないですか? わたしは動きました。 []

 大久野島の国民休暇村に泊まった時旅美人の馬油のシャンプーやトリートメントがお土産コーナーで販売されていました。
 最近会社の人と傷跡ケアについて話していた時に「馬油が良いらしいよ」と聞いていたので、気になりました。
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4061498320 「イスラムvs.西欧」の近代 (講談社現代新書)
加藤 博
講談社 2006-03

 以前に『イスラム世界論―トリックスターとしての神』をご紹介した加藤博氏による近代エジプト思想史。
 「イスラムvs.西欧の近代」などという安っぽいタイトルを付けられてしまっていますが、実際の内容は日本で言えば幕末から明治に至る時期における、エジプト人思想家を取り上げたものです。ナポレオンの東方遠征時代の歴史家ジャバルティー、近代教育を受けた行政官僚アリー・ムバーラク、後のイスラーム復興にも多大な影響を与えた知の巨人ムハンマド・アブドゥが主題ですが、関連して何人かの思想家も紹介されています。日本と一緒で、「外圧としての近代」に出会った時代というのは、飛びぬけた人物が活躍するものです。
 特に興味深かったのは、アリー・ムバーラクが小説『アラム・アル=ディーン』の中で、主人公の口に語らせている「聖俗二元論こそ政治と宗教を癒着させる」という議論。
 『アラム・アル=ディーン』は、アラビア語では最初の対話形式の小説で、主人公はアズハル学院のシャイフ。イギリス人オリエンタリストの求めに応じ、長男と共にヨーロッパに渡ったアラム・アル=ディーンが、旅先で出会う人々と語り合う、という形式となっています。
 アラム・アル=ディーンは、「イエスは神の化身である」という信念をヨーロッパ人が主張するのは、ローマ教皇権と教会の力を維持したいからではないのか、と批判します。三位一体説とは、地上に「神の領域」が現れうる、という考え方です。イスラームにおいてもイエスは預言者の一人ですが、預言者はあくまで人間であって、神の子供でも何でもありません。それを神聖化するのは、「聖別化された領域」を認め、聖職者を特権化するためではないか、と言うのです。
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400431125X イラクは食べる―革命と日常の風景 (岩波新書 新赤版 1125)
酒井 啓子
岩波書店 2008-04

 イラクをご専門とされる国際政治学者酒井啓子氏による、最新イラクリポート。
 「シーア派・スンナ派・クルド人」などという単純な図式でイラク情勢が切れるわけもなく、宗教・宗派ではなく単なる諸政治勢力の混沌としたパワーゲームが支配していることが示されているのですが、もう、余りにも複雑になりすぎて、簡潔にまとめられているであろう新書本であるにも関わらず、ここにざっと図式を書き出すこともできません(笑)。パラパラと読み返して、ポイントを一つ搾り出そうかと思ったのですが、それすら難しいです。「シスターニーすごい」とか、子供みたいな感想ばかりです。
 『イラクは食べる』というタイトル通り、本書の構成は「シーア派諸勢力」「スンナ派諸勢力」などについての各章の冒頭に、それぞれの地域や人々に密着した料理が紹介され、その由来やレシピが添えられています。食べ物の話は必ずしも内容と自然に連続しておらず、本論に入るとやはり一般的な政治情勢の文体が支配しています。
 それでもこうした構成を採用されたのは、「混沌とした情勢の中でも、人々は食べ、日々を生きているのだ」という生活感を、少しでも伝えたかったからでしょう。状況が込み入っていればいるほど、外部にいる人間はその分析に振り回され、Excelで組織関連図を作るような発想に嵌っていくものです。しかし、どんな組織も実体は生きた人間であって、その人間が毎日食べなければならないのは、どこでも一緒です。
 イラクに密着して仕事されている酒井氏にとっては自明なはずのこうした「地続き」感が、なかなか伝わらないもどかしさから、敢えて試みたものではないのか、と推測されます。
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4894346109 文明の接近―「イスラームvs西洋」の虚構
エマニュエル・トッド ユセフ・クルバージュ
藤原書店 2008-02

 『帝国以後』で知られる人口学者エマニュエル・トッドによるイスラーム世界分析。識字率、とりわけ女性の識字率と出生率の相関性を軸に、諸国家・民族を「近代化」のライン上に並べ、過激なイスラーム主義の勃興やテロリズム等が、イスラーム世界個別の問題ではなく、「移行期危機」の表れとして捕える相対化が、主旨になっています。
 「移行期危機」とは、住民の過半数が識字化された社会が見舞われる一時的な社会的混乱を指します。こうした社会とは「息子たちは読み書きできるが、父親はできない」世界であり、家庭内での権威関係から政治的権威までもが揺さぶりを受けます。トッドはイングランド革命、フランス革命、ロシア革命などをその例証として挙げます。また、こうした社会において自殺が増加し、「脱宗教化」が進むことも指摘されています。
 こうしたラディカルな模式化・解釈が問題含みであることはもちろんですし、トッド自身も万能だとは思っていないでしょう。加えて「近代化」という、「ヨーロッパ的」なるものの上で「ヨーロッパ的」なものが解体されることには、疑問の余地がないわけではありません。相対主義は、常に相対化を可能にさせる共通の普遍性を前提とします。
 いかにも扇情的なタイトルですが、原題はLe rendez-vous des civilisations、「文明の待ち合わせ」。これも見方によっては、「進んだ」ヨーロッパが「遅れた」イスラーム圏を待っていてやる、とも読めます。
 しかし、何かと「イスラーム本質主義的」な還元をされているイスラーム関連の諸問題については、こうした相対化による認識の揺さぶりが概ねポジティヴに働くのではないのか、と思われます。加えて、本書では「イスラームの性質」と捉えられている要素の多くが、イスラームそのものというよりは地域文化に由来するものであり、普遍的でも本質的でもないことが指摘されています。また、イスラームと同時に輸出された「アラブ的なもの」も、受容されることもあれば根付かないこともあります。アラブ的内婚システムはボスニアでは採用されていませんし、世界最大のイスラーム国家インドネシアは妻方居住を原則とする母系社会です1
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  1.  師岡カリーマ・エルサムニーさんも『イスラームから考える』で、サハラ以南のアフリカの伝統である女子割礼が、あたかもイスラームの伝統であるかのように喧伝されていることを批判されています。 []

 大久野島(おおくのしま)の廃墟に続いて、うさぎ篇です。
 この島には軍事施設跡の他にもう一つ見所があります。うさぎです。
 元々は実験用に飼われていたうさぎが繁殖した、ということだと思っていたのですが、Wikipediaでは「1971年に小学校で飼育されていた8羽のウサギが放されるとたちまち繁殖して野生化」とあります。うさぎと毒ガスは全然関係ないのかもしれません(笑)。とにかく、この島には野生のうさぎがそこら中にいて、うさぎファンの間では「うさぎ島」として聖地化されているのです。
 廃墟とうさぎ。わたしのためにあるような島じゃないですか。この二点だけで、飛行機に乗って東京から遊びに行きました。
 現在島を訪れる人々の大半は、うさぎ目当てのファミリー層と年配の方。うさぎファンの女の子二人連れ、というパターンもいくらか見られます(カップルもいますが数は少ない)。廃墟がメインの男の子は、ぐっと数が少なくなります。廃墟組はほとんど日帰りらしく、島を回っている時には大きなカメラを抱えた方と何人か擦違いましたが、大久野島唯一の宿泊施設である国民休暇村にはほとんどいませんでした。もちろん、女一人で泊まっているのはわたしだけです。
 島には小さなテニスコートなどの施設がある他、釣りを楽しむこともできるので、お子様連れの方々にはもってこいです。

 大久野島は、うさぎ保護のため自動車はわたることができず、犬の連れ込みも禁止。船着場から国民休暇村までのバスが往復しているのが、島で見られる唯一の自動車です。
 このバスに乗っている間にも、道端でうさぎを目撃。船着場附近は結構数が多いです。普通にその辺にうさぎがいます。


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 「うさぎ島」こと大久野島(おおくのしま)は、瀬戸内海に浮かぶ周囲4キロ余りの小さな島。
 1929年から大日本帝国陸軍よる化学兵器の開発が行われていたことで知られ、戦前から戦中にかけて、軍事機密保持のため地図にも掲載されなかった、という歴史があります。
 大久野島で製造されていたのは、イペリット、ルイサイトなどの毒ガス。当時の技術では製造工程での作業員の被害も守ることはできず、戦争が終わっても呼吸器系疾患などに苦しみ続ける方が多かったと言います。また、毒ガスの廃棄作業中にも、多くの被害があったそうです。もちろん、最大の「被害者」は、この毒ガスを兵器として使われた中国大陸の人々だったわけですが。
 島には当時の兵器製造施設の跡の他、日露戦争当時に設置された砲台の跡(使用はされなかった)などが残されています。

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 尾道に行ってきました。
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 「差別、仲良し、喧嘩上等」で、ポジティヴなんだかネガティヴなんだかよくわからないことを書きましたが、「敢えて短い目で見る」ことについて、少しだけ補足しておきます。
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4582481345 イスラームに何がおきているか―現代世界とイスラーム復興
小杉 泰
平凡社 2001-12

 初版は1996年と十年以上前ですが、9・11を受けて2001年に増補・改訂されたイスラーム復興を巡る概論集。
 お目当ては最近お気に入りなのに単著は読破してしまった保坂修司さん1だったのですが、小杉泰、鈴木董、大塚和夫、私市正年、飯塚正人、吉村慎太郎、保坂修司、酒井啓子、小松久男、佐藤考一、中村緋紗子、川島緑、内藤正典、中田考、臼杵陽と、日本のイスラーム研究の主な面々が勢ぞろいしているところもあり、なかなかお買い得です。
 増補版で追加された『「アメリカ同時多発テロ事件」への視座』二編については、確か池内恵さんが批判されていて、実際「慌てて何か言った」感じも否めません。そうした「思想」寄りのテクストより、地域研究の方が魅力的でした。
 エジプトやサウジアラビア、あるいはインドネシアといった、イスラームと言えば必ず取り上げられる地域だけでなく、中央アジアやアルジェリア・モロッコ、さらにフィリピン辺境の「少数派」イスラームについても触れられています。
 個人的に、一番興味を惹かれたのは、過激なイスラーム救国戦線(FIS)が台頭し無政府状態に近いアルジェリアと、経済状態では似た苦境にありながら比較的政情の安定している隣国モロッコを比較研究した私市正年さんの『反体制と体制のはざまで』。イスラームの「普遍的二元性」という、宗教秩序において非常に重要なポイントから分析されています2
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  1.  以下参照。
    「『サウジアラビア―変わりゆく石油王国』保坂修司」
    「『正体―オサマ・ビンラディンの半生と聖戦』保坂修司」
    「『乞食とイスラーム』 ストリートと貴種流離談」 []
  2. この構造は世俗化したキリスト教とか自民党でも一緒な気もしますが(笑) []

 arkanalの日記:懸念すべき心性について、一般論で異論を呈しておきます

「自分と違う人達」に対して、何となく身構えてしまうのは、人間の本性であり、もっと言えば動物の本能のようなものだと思います。「自分と違う」→「今までの経験則が通じない」→「何をするのか予測できない」→「不安・警戒心」ということで、「情報が足りないもの」については、油断ないように身構えるのはある種自然な行動だと言えます。
(・・・)
同じ人間をして、「こっち」と「あっち」に分けてしまうことは、後々大きな悲劇を生みます。(・・・)人々の間にポンと一本線をひくだけで、独特の「場」が生まれます。
(・・・)
で、どうなるかというと、差別が始まってしまう。また、差別される側も、何か気に食わないことをされると「これってもしかして差別?」と疑心暗鬼にもなります

 このエントリの主旨について議論したいわけではなく、かつ、この文章にarkanalさんが意図されているであろう働きをしてもらうためには、こうした平易な語り口の方が効果的だとは思うのですが、「自分と違う」「自集団と違う」から「線が引かれる」というのは、端的に順序が違います1
 最初に、一本の線が引かれます。< わたし>が世界を識る、ということは、わたしと世界の間に線を引く、ということです。
 正確に言えば、線を引いたのは< わたし>ではありません2。わたしたちが「気が付いたら」この世に生まれていたように、むしろ線が< わたし>を焙り出すのです。< わたし>が線を引いて「ここから先は他所だ」というのではなく、寝ているところを担ぎ上げられて、いきなり柵の外に放り出されたのが< わたし>です。
 ですから、正確にはこの線は単なる「わたしと他人の間の線」ではないのですが、ここでは敢えて不正確に素朴に考えておきます。
 さて、夜も開けやらぬうちに柵の外に掘り出された< わたし>にとって、周囲は未知と危険で満たされています。とりあえず丸くなって夜明けを待ちますが、物音一つでも不安です。とても太い「線」が引かれています。
 「こっち」と違うから「差別する」のではありません。むしろ、arkanalさんが指摘されている「不安」が最初にあるのです。
 ですから、「差別しない」という考え方より、まず線が至るところにあるのだけれど、この線とどう付き合っていくか、とアプローチしなければなりません。
 こんなことは自明事で、arkanalさんも、

クッキリと「線」があるように見えていても、「線がある」とは口が裂けても言ってはいけない。そんなものないように振る舞うこと。

 と仰っているのですが、こういう理性的なアプローチというのは、はっきり言って大抵うまくいきません。
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  1.  例によって他人の文章の些事をネタに自分の言いたいことだけを言っています。わたしは説得や啓蒙にはまったく興味がないし、百害あって一理なしだと考えているので、テクストは常に限られた人々のみが理解すべき、あるいは誰にも(本人にも)理解されるべきではない、と考えています。何でも能力の限界で作り上げたようなものは、一晩経つと解読不可能になっていたりするものです。それでも、その瞬間だけは地平を見渡すような知がありましたし、神様だけはずっと読んでくれていますから、覚えておくべきことは神様にお任せしています。プログラムでこれをやる人とは、極力一緒に仕事したくないですが(笑)。 []
  2.  ですから、実はそもそもの始まりから、ことは「わたし」と他人の問題ではないのです。「自集団」というものがあったとしても、それが「自」であるかどうかを決めたのは「わたし」ではありません。誰かが線を引き、わたしは目覚め、少しずつ世界に馴染みます。 []

 クロネコヤマトの「機密文書リサイクルサービス」。

クロネコヤマト

クロネコヤマト 気密性

 水も漏らさぬ気密性とは、これいかに。

 全然関係ありませんが、「クロネコヤマトの宅急便」と「人間モーセと一神教」は似ています。

いつも行くスターバックスに、よく話しかけてくれる店員さんがいる。
スターバックスの「フレンドリー」な演出は好きではないし、店員に話しかけられるのも苦手だ。
天真爛漫な人間も嫌いだ。
でもなぜか、彼女だけはほっとして、つい気をゆるしてしまう。
いかにも社交的な雰囲気ではないからかもしれない。
かといって、機械的にマニュアルに従っている風でもない。
わざとらしくはないが、何かがぎこちなく、しかしそのぎこちなさが、彼女の本性に根ざしているように見えるのだ。
兎は後ろ足が長いので、登りは速くても下り坂ではうまく走れない。階段を降りるときは実にぎこちない。そういう「自然なぎこちなさ」を感じる。
折れそうなほど細い腕で、ただその細さは病的なまでで、もしかすると摂食障害かもしれない。
可愛らしく純朴そうな容姿にも、涙ぐましく、時にグロテスクな裏面があることがしばしばなのは、大抵の人間より知っているつもりだ。
もちろん、ただ単にスリムでまだ子供なだけかもしれない。本当のことはわからない。
ただ、彼女と話す時、気が付くと心の中で神の名を唱えている。
全身の筋肉で自らを抑えつけるように、必死で祈っている。
なぜ、わたしは祈っているのか。
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