『オナニーマスター黒沢』と眼差し、ホルバイン『大使たち』

 『オナニーマスター黒沢』(原作 伊瀬カツラ 漫画 YOKO)というweb漫画を読みました。
 タイトルから容易に想像できる通り、少年マンガ独特の「キツさ」もあるのですが 、とてもよく構成された作品でした。
 放課後の女子トイレでこっそり自慰にふけることを生きがいにする中学生、黒沢。ある日この秘密をいじめられっ子女子の北原にバレてしまい、それから北原に横暴な「取引」を持ちかけられるようになる。それは北原に代わり、ある手段を使っていじめっ子たちに「復讐」することだった・・というお話。
 やっていることは明らかな変態的・犯罪的行為なのですが、少なくとも漫画で描かれる黒沢は「いじめられ」的な存在ではなく、常にメタ的な視点から物事を見ている、良く言えば人と群れない、悪く言えば気取った協調性のないタイプ。クールな黒沢がそんな秘密を握っているなど、誰一人想像していません。
 北原と黒沢の会話は、トイレのドア越しを基本にしています。いくつかの根拠から、北原は「そこ」に隠れているのが黒沢だということを、見抜いてしまうのです。「黒沢くんなんでしょ?」「返事をしないということは、黒沢くんなのね」「いいわ、そのまま聞いて」。
 これは典型的な「世界を覗き見る主体」の構造です。黒沢は別段覗きをしているわけではありませんが、狭い個室に籠って、相手からは見えない位置から世界を「見て」いる。「わたし」は不可視化し、世界は風景としてある。彼の内言の多い性格にも、これが表れています。黒沢への同一化が促されるのは、主体とは「黒沢的」なものだからです。
 しかしやがて、この関係が逆転する時が来ます。
 以下、「ネタバレ」も含まれるため、本編をご覧になってか、覚悟の上でお読み下さい。
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愛国教育と宗教教育は全然違う

 師岡カリーマ・エルサムニーさんの『イスラームから考える』に、エジプトの「愛国教育」が批判される下りがあります。

 (・・・)「国民教育」のおかげでエジプトの文化や伝統芸能について正しい知識を持っているエジプト人など、いないと私は断言できる。
 では、実質的「愛国教育」である「国民教育」は何をもたらすのか。「エジプトはすごいんだぞ。文明の母なんだぞ」という自信を人々の心に植えつけたところで、それが実際にエジプトのためになっているか。残念ながら答えはノーだ。たとえばエジプト人の中には、日本に来て千年の歴史がある寺を見ても、感動しない人が少なからずいる。子供のときから「七千年の歴史を持つエジプトは文明発祥地である。(・・・)」と教え込まれているので、(・・・)千年と聞いただけで「ああエジプトの方が古い。エジプトの方がすごい」と自分の国への誇りを新たにするのである。

 日本人から見て鼻持ちならないばかりでなく、こんなエジプト人を「輩出」してしまって、エジプトにとっても益になるとは思えません。

文化を尊重することを教えるよりはるかに効果的なのは文化を教えることだ。この二つは区別されるべきである。エジプトの愛国教育は、結局はエジプトの文化に対する誇りだけを植えつけて、文化自体を教えることにはあまり成功していない。日本の文化の良さを自ら認識する感性を持たずに文化に対する誇りだけを教えられても、そんな愛国心は空虚な砂の城でしかない。逆に、祖国の文化の素晴らしさがおのずとわかるだけの感性と想像力と教養を育めば、それを尊重するようにわざわざ誘導する必要はない。

 それが「空虚な城」であるのは、失敗というよりは予め織り込まれたものでしょう。
 中身がカラッポであれば、中身に対する批判や内省によってハリボテの誇りが崩されることもないからです。カラッポだから、郷土と国家のすり替えにも気付かれない。
 要するに、愛国教育というのは、頭のカラッポな人々にカラッポのプライドを植え付けて、大衆の不満を誘導するための権力の方策に過ぎません。
 自らは故郷なき者であるにも関わらず、ネイションの戯言により大衆を誘導するファシストとしては、今のうちに日本国のやり方を学習しておかなくてはなりません。あ、言っちゃった。

 一方、宗教教育について、カリーマさんはポジティヴです。
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師岡カリーマ・エルサムニー『イスラームから考える』、「悪の枢軸ツアー」

4560031827 イスラームから考える
師岡 カリーマ・エルサムニー
白水社 2008-04

結局人々は、僕らのことを知らないから僕らを恐れるのさ。彼らのせいじゃない。だって僕らについては善悪二種類のニュースしか流れない。悪い方のニュースは、僕らを「武装テロ集団」と呼ぶ。そしてたまにましなニュースがある時は、僕らは「武装テロ集団の疑いがある」って扱いだ。(ディーン・オベイダッラー)

考えてみれば、ユダヤ教徒とイスラーム教徒ほど共通点の多い宗教は他にないよ。どちらも豚肉を食べないし、どちらもクリスマスを祝わないし、どちらも喉から出す摩擦音を連発する。そしてどちらも、緊急時でもないのに電話口で怒鳴る。ユダヤ教徒とイスラーム教徒で唯一違うのは、ユダヤ教徒は金を使うのが嫌いで、イスラーム教徒は使う金をもっていないということさ。(アハマド・アハマド)

 4月出版予定と聞いて、毎日のように入荷していないかとAmazonで検索をかけていた師岡・カリーマ・エルサムニーさんの新著『イスラームから考える』。
 その冒頭で紹介されるのが、上の中東系アメリカ人コメディアンによるショーツアー、その名も「悪の枢軸ツアー」の一場面です。
 ツカミがコレです。前にも書きましたが、カリーマさんの文章の熱いコブシ、特に詩を紹介する時の嬉しくて堪らない感じがとても愛おしいです。
 「思想」的には必ずしも同意するものばかりではないですし、もしカリーマさんがわたしのことを知ったら間違いなく毛嫌いされると思うのですが、そんなことは大きな問題ではありません。アラブとイスラームのことになると急にしおらしくなるので、カリーマ様の爪の垢ほども語る資格もないワタクシは、ニコニコしながらお話を聞いておきます。

 以下、気になった箇所をいくつかピックアップしておきます。
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『大日本人』松本人志

B000W05NUK 大日本人
松本人志

 友人に薦められて見ました。
 今ではお笑いというものをまったく見なくなりましたが、松本人志は大好きです。ダウンタウンが有名になりかけた頃の勢いは凄かったです。
 評価が分かれる作品だと思いますが、少なくとも前半については十分正しく映画になっています。
 「伝統職人としてのウルトラマン」のような役割を受け継ぐ松本人志。今では省みられることもなく、むしろ冷たい世間の風を浴びる「大佐藤」。妻との別居、跡取問題、祖父の介護問題など、余りにも世知辛い日常を、取材カメラの視点が追っていきます。
 この手法や、描かれる「どうにもならなさ」、「電変場」と呼ばれる変電所のような施設の風景、仰々しくも形骸化した儀式など、美しく映画的です。しかし、後半になって松本は、この映画的構造自体を自ら壊していきます。
 後半部について酷評する声を聞きますし、実際わたしもあまり良い印象は抱きません。
 でもおそらく、松本人志はそう評されるのをわかって、あえて「作品」としてのまとまりをオシャカにしてしまいたかったのでしょう。「映画」になってしまうのが鬱陶しかったのだと思います。
 結果として、松本人志のテレビ的ファンにも映画ファンにもウケない作品になってしまったところはありますが、それも松本人志らしいと言えば松本人志らしいです。
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『迷子の警察音楽隊』 前線、入植地、新浦安

 『迷子の警察音楽隊』を見てきました。

B0016G2U6E 迷子の警察音楽隊
サッソン・ガーベイ カリファ・ナトゥール ロニ・エルカベッツ
Nikkatsu =dvd= 2008-06-13

文化交流のため、イスラエルにやって来たエジプトのアレキサンドリア警察音楽隊のメンバー8人。しかし、空港には迎えもなく、団長(サッソン・ガーベイ)は自力で目的地を目指すが、なぜか別の街に到着してしまう。途方に暮れる彼らを、カフェの店主ディナ(ロニ・エルカベッツ)がホームステイさせてくれることになり……。

 祖国でもお荷物扱いされているらしい警察音楽隊。頑固一徹の隊長、音楽を愛しながらも生活のために淡々と任務をこなす老隊員、「五年も警察学校に通って砂漠で演奏か」とナンパにしか興味を示さない若い隊員。
 八人が迷い込んだのは、イスラエル辺境の入植地。オモチャのようにそっくり同じ形の住宅だけが並ぶ活気のない街で、小さな食堂を営む男勝りだけれどどこか色っぽい女性に、一晩の宿を頼ることになります。八人が冴えない「音楽隊」なら、古いエジプト映画のロマンスに焦がれながら婚期を逃してしまった女性、店を手伝う童貞のイスラエル人男性、一年も失業中で食堂で暇を潰しては夫婦喧嘩ばかりしている男も、皆「パッとしない」面々です。そんな言葉も通じない「普通の人々」が、一晩のロマンスを繰り広げる、というお話。
 リアル・エジプト人を知る人に言わせれば「あんな上品なエジプト人はいない」という通り、八人は(ナンパな若者を除いて)無口で大人しく、あまり「アラブ人らしく」はありません。きっとイスラエル人だって、あんな風ではないでしょう。
 ではつまらなかったのかというと、期待通りにちょっと幸せになれるとてもステキな映画でした。
 この作品はフランス・イスラエル合作なのですが、あくまで「かわいいフランス映画」。「アラブ映画」ではありませんし、素朴なオリエンタリズムが大いに映り込んでいます。
 それでも良い映画であることには変わりありません。アラビア語を学ぶ人間には、アラビア語の響きも楽しめるオマケつき、ということです。台詞の七割方は(下手くそな)英語、残りがアラビア語と現代ヘブライ語です。
 最高なのは、何といっても若いナンパなエジプト人。バス路線を尋ねてくるよう隊長に命じられ、「英語は苦手なんだよ」と渋っていたくせに、いざ美人を前にすると持てる英語力を駆使して口説きだします。辺境に迷い込んでしまったのもこのナンパエジプト人のせいなのですが1、女性を前にすると舞い上がって何もできなくなってしまうモテないイスラエル男にナンパ指南をしたり、最後まで憎めない役回りです。

 そんな「ちょっと心温まる」ストーリーと同時に、改めて印象的だったのが、入植地の風景です。
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  1. アラビア語にpの発音がないため、bとpを聞き違えたのが原因のようです []

WPF & Expression Blend おすすめ本

 たまには日銭稼ぎのことを書きます。
 現プロジェクトはC#とWPFでやっているのですが、WFP関係は日本語情報がまだまだ少ないです。日本語書籍も数えるほどしかないです。
 結局webを彷徨ってトライアル&エラーしかありませんが、ざっと概略を掴んだり原理を理解するのには書籍が便利です。
 個人的に、極力コンピュータに関わりたくないので、開発開始当初は何冊か紙のものを通読しました。
 というわけで、WPF & Expression Blendのおすすめ本です。
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iPodラマダーン

 iPodにカバーをつける愚かさについて

「傷がつくのがいやだ」とか言っている人で、ラバーやシリコーンのカバーをつけている人は矛盾に早く気付け。要は綺麗なまま使いたいってことだろうけど、その大変醜いカバーつけてたら綺麗なiPodが見えませんよね(・・・)シリコーンのカバーは使ったことがあるからわかるのだけど、あれは使うにつれてすごい汚くなる。iPodは綺麗なままだけど、カバーは大変汚い。外見が大変汚い。

 仰る通りです。
 で、ワタクシ、シリコーン製のiPod miniカバーを使っております(笑)。確かに汚なくなっていきます。
 何度もカバーなしにしようと思ったのですが、それでも使っている理由は、ステンレスに爪が当たる音が嫌だからです。
 正確には、本当に音がするわけではありません。ガラスを爪でキキーッってやるのをイメージすると、別段引っかいてなくても歯茎の辺りが痒くなるでしょう。もしかすると、本当にガラスを引っ掻いても、そんな音はしないのかもしれません。でも、考えるだけでのたうち回りそうになります。iPodのステンレスも、そういう音がしそうでならないのです。
 実際はしなくても、恐ろしくて手に取れなくなりそうです。
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もしアメリカ人がアラビア語を話せていたら

 もう一年半も前のエントリですが、心にとまったので訳しておきます1
 予めお断りしてきますが、このエントリで語られているようなややナイーヴな希望を、わたしはほとんど信じていません。それでも紹介したいと思った理由は後述します。

Arabic the language of peace

 アラビア語は平和の言葉でもあり得る。
 もしアメリカ人がアラビア語を話せていたら、現在わたしたちを隔てている深い文化的な溝を橋渡しし、乗り越えられていたかもしれない。
 もしアメリカ人がアラビア語を話せていたら、リアルタイムにリアルな感情をもって、友と語らい、敵を説得することができたかもしれない。
 わたしはヨルダンでもシリアでも、商店の店主やタクシー運転手、大学生、大学教授、警察官、兵士、多くの政府官僚らと、彼らの言語で語らい、時に議論となった。アメリカを擁護する(時には批判する)者の話を聞くというのは、彼らにとってちょっとした「トリップ」だった。多くの者は、彼らの言語でそんな意見を言う人間に会ったことがなかったのだ。わたしたちは多くの問題で激しく対立し、時に白熱する激論となった。しかし最後には大抵友達になったし、尊重しあうようになった。通訳やその他の仲介を経るよりもずっと。
 もしアメリカ人がアラビア語を話せていたら、わたしたちはもっとアラブメディアに影響を及ぼせていただろう。アルジャジーラに出演しているアメリカ人がいることはいるが、稀なことだ。とりわけ、ネイティヴ・スピーカーの子として家庭でアラビア語を身に付けたのではなく、学校で勉強した、というアメリカ人は。
 もしアメリカ人が本当にアラビア語を話せたら、何が起こるだろう? ここに見るべき一例がある。ヒューム・ホーランだ。先頃亡くなってしまったが、彼はアメリカ政府のキャリア外交官だった。レバノンとチュニジアでアラビア語を学んだ(と思う)。彼のアラビア語はとても流暢で、アラブ政府官僚の脅威となるほどだった。サウジアラビアは、通りで地元民と交わり、彼らの文化を理解するほどアラビア語のできるアメリカ人を望んでいないのだ! は! 彼らは、人々に異なる意見を与え、別の視点から考えるきっかけとなりかねない人間を恐れているのだ。
 もしアメリカ人がアラビア語を話せていたら、多くのことが違っていただろう。しかし「かもしれない」ばかり考えるのはやめよう。わたしたちに必要なのは、アメリカと世界で、アラビア語を学び、教えていくことだ。
 もしテロとの戦いについて語らなければならないなら、それが文化的な誤解および生身の人々とのリアルタイムなコミュニケーションの欠落との戦いであることを考えよう。すべての文化間での交流には多くの価値がある。相互理解が未来の戦争を抑止するかもしれないのだ。
(下線引用者)

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  1. 言い訳ですが、仕事中にこっそり訳したので(笑)、かなり「超訳」です。スイマセン。 []

「あの子みたいにかわいくなれたら」、恋愛の賭け金、「あるがまま」

 「奥菜恵さんのような美人でも、離婚のうえ新しい恋人にも浮気され、と苦労している。恋愛とは自らを賭け金に差し出さなければ始まらないゲームなのだ」といったお話。

空中キャンプ:あの子みたいにかわいくなれたら

「あの子みたいにかわいくなれたら/新しい世界で毎日夢いっぱい」と、たくさんの女の子が想像するだろう。私がもし美人だったら。すごくかわいかったら。きっと、もっと夢みたいな毎日が待っているのだろうと。答えはノーである。奥菜さんを見なさい。誰だって、恋愛をするなら、テーブルの上に手持ちのプライドをそっくり置いて、それを賭け金にしないとゲームには参加すらできないのである。奥菜さんはちゃんと賭けている。だからわたしもばんばん賭けていこうとおもっている。

 半分はその通りですが、二点、敢えて混ぜっ返したいところがあります。
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『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』 ノイズと完全な視覚

B000FQWH14 エリ・エリ・レマ・サバクタニ

 「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」1。神様ファンがこの言葉を見つけて、黙って通り過ぎる訳がありません。
 パッケージを手にとって見ると、監督青山真治、浅野忠信主演、そして中原昌也さんが音楽と共に出演。こんなどう転んでもハズレない作品に、三年間も気付かなかったなんて・・映画館で見たかった・・・。

西暦2015年。世界中で正体不明のウィルスが蔓延していた。“レミング病”と呼ばれるそのウィルスは視覚映像によって感染し確実に死に至るというものであった。人々は不安に怯え、絶望感に満ちていた。そんな中、病気の進行を抑制するといわれる唯一の方法が発見される。それは、2人の男、ミズイ(浅野忠信)とアスハラ(中原昌也)が演奏する“音”を聴くこと。やがてその噂を耳にした老富豪(筒井康隆)が彼らのもとを訪ねてくる。息子夫婦をレミング病で失い、たったひとりの跡取りとなった孫娘ハナ(宮崎あおい)までもが病に侵されているという。愛する孫娘の“死”を止めるため、彼らに演奏を懇願する老富豪。意を決したミズイはハナをある場所へと導くが…。

 「レミング病」は、もちろんレミングの集団自殺から来た名称。つまりこれは、自殺を促す病気です。
 一日で四回見ました。
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  1. 「主よ、主よ、なんぞ我を見捨て給うや」。イエスの最後の言葉とされる。 []