擬似恋愛と本当の恋愛、メッキの逆説

 草さんへの返答も兼ねて、転移ネタを続けます。

 彼が指摘されている通り、転移を「擬似恋愛」としてしまっては、「本当の恋愛」がどこかにあるような幻想を引きずってしまいます。
 また、muse-A-muse 2nd:「えらさ」と「センス」と「面的思考(認識)」について

(・・・)「作品の後ろに『なんかすげぇなコイツ』的雰囲気があるかどうか(その雰囲気に惚れる)」、って話だと思うんだけど、ちょっと思うのはなんか雰囲気ありそげ(頭よさげ)に演出する人とほんとに偉い人の違いって見分けるのめんどくさいだろうな、ということ。
 っていってもそんな感じで演出された偉さ(中身は空っぽ)的なものってしばらく接していればメッキがはげるものだしなぁ。ってか、けっこう一瞬で見分けられるものかもしれない。

 という下りがあるのですが、「メッキのエラさ」と「真のエラさ」を分けて考えてしまっても、同様のトラップに嵌っていきます。

 しかし、言いたいのは「幻想を打破せよ、現象しかないのだっ」などというポストモダンくさいことでは全然なく、むしろこのトラップ自体、「本質的弁別」という夢にこそ、本質的意味がある、ということです。
 擬似恋愛と「本当の恋愛」の間に本質的な差異はありません。しかし「本質的な差異がある」ように見える、ということには本質的な意味があります。

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神様に恋しているから、瞬きしても世界が終わらない

 「バカわかる転移&愛 まとめ」1で「頭のいい人は、難しいことも簡単に書けるはず」問題から「わかる/わからない」へと流れていったエントリ群を列挙してみましたが、特に後半に挙げたいくつかのエントリが面白いのは、「説明対象」と「説明方法(説明自体)」に対し、第三項の果たす役割が意識されているからです。
 「説明対象」と「説明方法(説明自体)」の二者のみの語らいでも、純粋な自然科学的アプローチ、あるいは社会の約束事のような水準での議論なら十分有効でしょうが、この二項のみを独立したものとして最初に立ててしまうと、その時点で箱庭を設定してしまうことになります(逆に自然科学的思考では箱庭の設定が必要になる)。

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  1. このエントリの口調が非常に乱暴で、紹介させていただいたブログ運営者の方には失礼なことをしてしまいました。言い訳ですが、寝ないと凶暴さんがインフレしていきます。 []

抜け駆けた者は全部生きたのか、全部死んだのか

 sho_taさんが「404 Not Found」と、弔辞としてのSBM で、ブログ以外にアクセス手段のない知人のサイトが消えていた、ということを書かれています。向うからコンタクトしてくれない限り、もう連絡する方法もありません。
 webが一般化することにより、こういう「線」だけで繋がっている人間関係というのが増えている気がします。「共通の知人」がいない関係です。仮に当のサイトオーナーと直接に会っていたとしても、出会いのキッカケが「線」だと「共通の知人」がいないままである可能性が高いでしょう。

 伝統的な人間関係では、こうしたケースはかなりレアであって、人間は常に集団の中で出会い、どこかで何かが起こると「風のウワサ」が運んでくれていたものでしょう。「線」な人間関係というのは、どこか気恥ずかしく、秘密めいたものだったはずです。
 ところが、都市化とwebのお陰で「線」な人間関係や出会い方がずっとポピュラーになり、個々人の中で占めるウェイトも高まり、「特別さ」を感じることも少なくなっていきました。web上のコミュニティが様々な形で持ち上げられるのは、「線」のはかなさに対するある種の補完作用なのでしょう。ナショナリズムにおけるネーションの概念を彷彿させます。
 わたしたちは「個人が集まって集団になる」というin-dividual(分割されざるもの)の概念に洗脳され切っていますが、元々ヒトというのはワラワラ~といるところにヒョッコリ生まれてきて、そのワラワラの中で成り行き的な位置づけられ方をするものです。「本当の自分」にうなされる時期があっても、そのうちイイ感じに惰性を掴んで、死ぬまで流されていくのです。
 この「みんな」というよくわからないものこそ大文字の他者であり、神様なわけで、もちろん大文字の他者はそれ自体としては存在しないのですが、何らネーションの想定もない、という世界では不安で不安でヒトはまともに生きていくことができません。
 逆に言うと、文字通りの神様や強いネーションを言いたがるヒトというのは、「ワラワラ感」が希薄な育ち方をしてしまった傾向が強いのかもしれません。また、東アジア的「泥の民」の世界で強い一神教があまり育たなかったのは、密に集まった中で生産性を高める文明では、「ワラワラ感」の不足に悩まされることもなかったから、と想像できます1

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  1. 「泥の民」については以下参照。
    「webは「砂の文明」である」
    「mixiと女社会と「泥の文明」」
    「『民族と国家』ナショナリティ・エスニシティ・パトリ」 []