『イスラム世界論―トリックスターとしての神 』 加藤博

『イスラム世界論―トリックスターとしての神 (東洋叢書)』 加藤博 『イスラム世界論―トリックスターとしての神 』 加藤博

 「宗教」としてのイスラームより、イスラーム法と経済、イスラーム世界の社会システムについて論じた書。
 サイード批判など、全体的にユニークでスリリングな論調なのですが、特に印象的だったのは、カール・ポランニーによる三つの経済統合形式「互酬」「再分配」「交換」を用いて、イスラーム経済を分析する下り。
 このポランニーの枠組みは、柄谷行人氏も好んで援用しており、「『世界共和国へ―資本=ネーション=国家を超えて』 柄谷行人」で簡単にまとめてあります。
 大雑把に言うと、互酬とは、贈与と返礼による共同体内的経済形式。略取と再分配は共同体間で発生し、国家・帝国的経済形式。交換とは、広義の資本主義的な市場交換を指します。
 加藤博氏は、イスラームを「交換を支配的な経済統合形態とする社会」とします。

より正確には、イスラム社会は、「互酬」、「再分配」機能をも交換を介して初めて実現されるような社会であったというものである。

 この論を展開するにあたり、氏はワクフを例に挙げます。
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ドトールの宗教密度

 昼休みはいつもドトールでアラビア語の勉強かクルアーンの筆写1をしているのですが、最近このドトールで、熱心なクリスチャンの女性と会うことがあります。
 一人でカウンターに座り、一般向けの宗教書(「今日の御言葉」が書いてあったりする系)を広げ、時々小声でお祈りらしき文句を呟いています。わたしが注意しているからわかる程度で、周囲から見て「変な人」では全然ありません。
 合席になったりカウンターで隣り合わせると、クリスチャンの隣でミミズののたくったような文字をひたすら裏紙に書いている女がいて、東京のど真ん中とは思えない異様な宗教密度です。
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  1. 本当は「クルアーンでアラビア語を勉強している」と書きたいのですが、あまりにレベルが低く、クルアーンを写している時は書いてある内容がわかっていないことが多い(涙)。 []

WordPressのカテゴリ表示が変

 WordPressのカテゴリ表示が、今ひとつおかしいです。
 最上位カテゴリのカテゴリページを表示しても、サブカテゴリの設定されたエントリがリストに現れません。
 このブログで言うと、「思想」以下に「イスラーム」「ファシズム」というカテゴリがあります。エントリによって、サブカテゴリまで設定してあるものと、単に「思想」としているものがあります。
 直観的には、「イスラーム」のページを見れば「イスラーム」サブカテゴリのものが、「思想」のページには「イスラーム」「ファシズム」まで含めたすべてが表示される気がしますが、「思想」ページには「思想」のみをチェックしたものだけがリストアップされるようです。
 自分でもどうカテゴライズしたかよくわからなくなっているので、今ひとつ検証不足なのですが、これが仕様らしいです。そもそも、WordPressには「最上位カテゴリ」「サブカテゴリ」という概念がない様子です。カテゴリは単にカテゴリであって、parentを持っているかいないか(parentに0がセットされているか否か)という違いだけ、ということでしょうか。
 「イスラーム」等に入れたものは、「思想」と両方チェックするようにしているのですが、とにかくカテゴリ別表示がわかりにくくて仕方ありません。いっそ全部タグ付けで分類すればよかったです。
 追っていけば修正・改良できるのしょうが、そんな元気もやる気も全然ないので、放置しておきます。

 というわけで、当サイトを閲覧して下さっている方は、「思想」で出てくるのは「思想」のすべてじゃないぞ、ということを頭の片隅に置いておいて貰えると大変嬉しいです。
 こういうのを、システム屋さんはよく「運用で対応」と言います。
 わかりやすく言うと、「頑張ってなんとかする」です。大抵、頑張れずに破綻します。

『アメリカン・コミュニティ―国家と個人が交差する場所』 渡辺靖

『アメリカン・コミュニティ―国家と個人が交差する場所』 渡辺靖 『アメリカン・コミュニティ―国家と個人が交差する場所』 渡辺靖

 地域住民の力でスラムからの再生を遂げたボストンのダドリー・ストリート、中世の要塞のようなゲーテッド・コミュニティから、「アメリカ国民だが市民ではない」米領東サモアまで、アメリカの様々な「コミュニティ」を巡るフィールドワーク報告。アカデミックな深みにはやや欠けるのですが、ジャーナリスティックで躍動感溢れる文体に惹き込まれ、一気に読破してしまいました。
 どの章も大変面白いのですが、個人的に最も興味を惹かれたのが、「しなやかな原理主義」的宗教コミュニティ・ブルダホフ1と、アリゾナ州サプライズの宗教右派の牙城メガチャーチ・ラディアント教会。
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  1. 本書購入のきっかけは、arkanalさんの記事で紹介されていた目次で、この「しなやかな原理主義」というステキすぎるフレーズを目にしたことでした。arkanalさん、ありがとうございます。 []

『一神教の誕生―ユダヤ教からキリスト教へ』 加藤隆

『一神教の誕生―ユダヤ教からキリスト教へ (講談社現代新書)』 加藤隆 『一神教の誕生―ユダヤ教からキリスト教へ』 加藤隆

 「人に感謝しない者は、神にも感謝しない」でもちらっと書いたのですが、神様というのは「お願いごと」をするものではありません。ところが日本では、肯定するにせよ否定するにせよ、こうした「効能を持つ神(機能によって選ばれる神)」のイメージが強く、いつも神様の話をするのに骨を折ります。
 この『一神教の誕生』は、「願いごとをするものではない神」について、非常に平易に書いてくれています。細かいところでは問題もあると思うのですが、信仰を持たない身近な人に是非読んでもらいたい一冊です。
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子供解放

 404 Blog Not Foundさんの「貧乏な社会で子を産むな」が感動的に素晴らしいです。「一人っ子政策」中国での子育てが思いのほか楽で、それが社会の支えによるものだった、という経験が書かれているのですが、特にステキなのが結びのこの一節。

「無責任な大人が多すぎるよ。」
そういうあなたは、自らの誕生に責任を持てるのか?その意味において、我々は一人残らず無責任の結果なのである。生まれて来たことそのものに、我々は誰一人として責任を持っていないしまた持ちようがない。我々が責任を持っているのは、我々がいる社会に対してである。そしてその社会が子供に対する責任を全て親に押し付けるというのであれば、親として社会に対して責任を持つ理由がどこにあるのだ。

 付け加えることは何もありません。

 「貧乏人は子を産むな」。
 そういう意見も、心情的には理解できるのですが、実際に世の中を見渡してみると、「貧乏人」ほど子供を産みます。出生率は第三世界の方が圧倒的に高く、先進国でも一般に低所得者層の方が子沢山です。
 先進国・高所得者で出生率が下がることには、色々な理由があるでしょうが、端的に「割に合わなくなる」事情があるのでしょう。「割に合わない」ということは、一つにはコストがかかり、今一つには見返りが望めない、つまり労働力として期待できない、ということです。
 といっても、社会制度的なことを云々したいわけではありません。子育てを支援する制度等については大いに議論して良いと思いますが、そもそもの問題として、制度の問題なのか、それを言うなら「子沢山」な社会は制度が充実しているのか、という気がします。
 だからといって「物質的に貧しい国の方が心が豊かだよね」などという浪花節が言いたいのでもありません。
 気になるのは、そもそも「子供」が存在するのかしないのか、という違いです。つまり「小さい人」ではない「子供」という概念です。
 もちろん、「子供」は近代の産物です。その背景にはおそらく、識字能力の大衆化と教育の問題があったことでしょう。
 子供が「子供」になればなるほど、それは「特別な時期」「特別な存在」であり、教育コストをかけなければならない、守らなければならない、というプレッシャーが生じます。純粋に「コスト」というなら、貧乏人も金持ちもかかるお金は一緒です。割に合わなくなるのは、「子供」というものの存在感が増すからです。
 先進国では、良くも悪くも「子供」が「立って」います。「子供だから」を理由に様々な敷居が設けられるます。「子供を守れ」「子供を大切に」「子供だからダメ」。
 物質的に貧しい環境では、「子供」がそこまで「立って」いません。もうちょっと緩いです。緩いから、親でもない第三者がなんとなーく近寄って面倒を見たりもし易い。
 一方、先進国では「子供」に大変気を使わなければなりません。丁度昨日ある人とこの話題が出たばかりなのですが、街角で子供のスナップなどを撮っている写真家は、苦労が耐えないようです。アメリカなどでは、それだけでポリスが飛んでくることもあるそうです。
 そんな「腫れ物」な子供、面倒みたくても見られません。うっかり遊んであげたら親が血相変えて飛んできたり、職務質問されてしまうようでは、おいそれとヨソサマの子供に近づけないというものです。
 結果、なんとなーく面倒を見られる度合いが減って、「制度ですくい上げろ」ということになるのですが、「制度」はいつも「なんとなーく」に勝てません。「なんとなーく」を要件定義して「制度」にするより、そのまま「なんとなーく」実行する方がずっと早いです。中間で色々なものがふるい落とされた挙句、よくわからない管理職のようなところにお金が落ちていくだけです。
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元OL、元早大生、途切れない経歴

 草さんが「元OL」って何だで、

OL(サラリーマンって言葉と対で使われる)って日本語、性差別的だよな。何歳までOLなんだろうか。OLって言い方からイメージされるのって、わりと若い女性のような気がするんだけど。

 と書かれていて、性差別云々ということは割とどうでもよいのですが、「元」の方が気になりました。
 この方の場合はつい先日まで「OL」だったのでしょうし「元OL」でも自然なのでしょうけれど、四十歳くらいの新左翼の人が逮捕されて、新聞に「元早大生」などと書かれていることがあります。
 「元早大生」って、早稲田の卒業生全員でしょ。いつまで「元」なんですか。
 逆に、大島渚さんがずーっと映画を撮っていなくて、でもテレビ出演の時には「映画監督」とテロップが出ているのに対し「元映画監督って名乗りなさいよ」としょうもないことをグチグチ言っていたことがあるのですが、ちゃんと映画を撮って亡くなってしまいました(追記:まだ死んでいませんでした。なぜか亡くなったと信じていました。とんでもないことですが、面白いのでこのまま残します。やっぱりわたしって頭おかしいわ)。
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おしゃれベローチェの目印はエクセルシオールっぽいWorldBeans

 独断カフェチェーン比較と「おしゃれベローチェ」の謎で、ベローチェには普通の「オヤジ臭漂う最安カフェ」と「ちょっとオシャレくさいベローチェ」の二種類があることを書いたのですが、「おしゃれベローチェ」の目印は「WorldBeans」という丸い看板にあることに気づきました。
おしゃれベローチェの目印はエクセルシオールっぽいWorldBeans

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オデュッセウスは豚の声を誤解したのか、魔法にかけられたのは誰だったのか、魔法は誰がかけたのか

 sho_taさんが「誤解こそ理解」と「誰が書いたのか問題」についての一考察でとても面白いことを書かれているのですが、今一歩のところで通念に引っ張られて、ミスリーディングになってしまっている感があります。「まだどこかに自律的な主体がある」かのような印象を与えてしまっているのです。

ようは相手に興味を持たせるには、まず自分をミステリアスな存在だと思わせろということであり、ラカンという思想家はこれが悪魔のようにうまかったわけです。

 そのラカンが「エジプト人の謎はエジプト人にとっての謎」といった言い回しをしていたのをsho_taさんは覚えていらっしゃると思いますが、あれほどエロティックで人を狂わせるラカンであれば、自分で何を言っているのかもよくわかっていなかったのでしょう。
 「お前、自分の言っていることがわかっているのか」という非難の表現がありますが、重要なことを口走る時、大抵わたしたちは自分の言っていることがわかっていません。ただ、わかっていないということがわかっていないのです。代わりに「わからない」ことに誰かが気づきます。つまり、誰かが「わからない」とわかります。これがトラップされた方の人です。
 ここで大切なのは、トラップされた人は確かにトラップされているのですが、トラップを仕掛けた本人などというものは存在しない、ということです。魔法は誰もかけていません。喋っている当人は、「わからない」ということすらわかっていないのですから。
 ただ彼または彼女は、「わかっていない」が故に問いを立てない。立てないから、代わりに誰かが立てる。答えのないところに、問いを立ててしまうのです。
 ラカンが「悪魔のように」意味深な語らいが巧みだとしても、魔法はかけていません。かけようとしたのかもしれませんが、多分、わたしたちはその魔法にはかかっていません。強いて言えば、ラカンは魔法の使えない悪魔です。悪魔なので魔法にかからず、彼がスルーした魔法にわたしたちがヤラれているのです。
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