ish☆数えます

 愛用のイプサ スキンビューティー・ファウンデイションをリピートしようと久しぶりにイプサのカウンターに向かったところ、ファウンデイションがリニューアルしてエッセンスイン・クリームファウンデイションになっていました。

イプサ エッセンスイン クリームファウンデイション

 ずっと使っているコスメアイテムがリニューアルでなくなると、結構動揺します。でも、イプサとは長いお付き合い。ファウンデイションはスキンリニュー・ファウンデイションの時から使い続けています。とりあえず購入してみようかな、と思ったら、カラーの分類も変更になっています。N1を愛用していたのですが、101か100が後継になるはず、とのこと。せっかくなので色味を見てもらうことにしました。
 イプサのカウンターはイプサライザーなどの機械で肌状態を色々測定してくるので、なかなか楽しいです。スペックフリークのコスメ・スキンケアオタクなので、数字が出てくるだけで嬉しいです。
 測定してもらったところ、カラーはやっぱり101が丁度よい、とのこと。
 そういえばこの型番、スキンリニュー・ファウンデイションの時と一緒です。カラー分類が前の時に戻ったみたいです。
 肝心のエッセンスイン クリームファウンデイションの付け心地ですが、歴代ファウンデイションと同じく、カバー力抜群でかつ肌に優しい感触。わたしはかなり薄付けしかしないのですが、それでも十分キメを整えてくれます。スキンビューティーより保湿力が高い気がします。

 それよりも、肌測定の結果がちょっとショッキングでした。

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 先日「『かわいい』と言われること」で話題にさせて頂いた「兎美味し 蚊の山」さんが、お返事のエントリを立ててくれています。こんなに細部にわたって「言及返し」をしてもらったのは初めてだと思います。ありがとうございます。
 その中でも特にハッとさせられたのが、以下の下り。

>(かわいいに対する女性の)「ムカツキ」加減について、逆に少なからぬ男性がほとんど意識化していない(気づいていない)現象があり、これはこれで興味深いです。
あ、これは私の場合違いますねー。意識的です、あの目は。
「ふふん、悔しいか。どうだ?」ってな。

 ぐがっ! そうですか! 「コイツら鈍いなぁ」と思っていたら、鈍いのはわたしの方でした。
 実際には個々人の問題ですし、状況・文脈によっても色々だと思うのですが、わたしの思っている以上にヤツらの方が上手だったのかもしれませんね。勉強になります。

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 GIGAZINE:RPG風のペット用防具より。

最強ペット用防具

 「ペットに服を着せる」ことについては賛否両論あるのでしょうが、ここまで来るともう止められないです。
 「強いんか弱いんかどっちやねん!」な着せられてる感がたまらないです。思わずローカルに保存してしまいました。
 ある意味最強でしょう。

 『イスラーム主義とは何か』で大塚和夫氏も指摘する通り、「イスラーム原理主義」という言葉には予め否定的な含意が織り込まれています(※1)。今日、この語は「テロ」「狂信」「反社会的」といった連想を作動させることを暗黙の前提として用いられており、公平な語と言えないのは改めて指定するまでもありません。
 また、「原理主義」は本来キリスト教ファンダメンタリズムを意味する訳語でしたが、同じく大塚氏が言うように、「原理」抜きの宗教など考えられません。氏は多神教的日本文化に対するエスノセントリックなバイアスを指摘しますが、英語圏においてもFundamentalismには否定的ニュアンスで用いられるもので、一般にFundamentalistを自称する人はいません(※2)。ですから「一神教 - 多神教」といった図式ではなく、むしろ「宗教性 - 世俗性」という枠組みで捉える方がわかりやすいはずです。そして極めて聖俗一致性の高いイスラームにこの語が適用されると、そのまま「俗」の全否定と受け取られ、より一層「俗」の嫌悪感を煽るわけです。
 もちろん、「聖俗分離 > 政教分離」という枠組み自体が特殊西洋近代的である、という視点はストンと抜け落ち、この枠組みの中で「文化としての宗教」として受け入れよう、という姿勢自体がエスノセントリックである、という内省を抱けるアメリカ人など(多分日本人も)はほとんどいないでしょう。

 こうした状況に対し、「イスラーム原理主義Islamic fundamentalism」を用いず「イスラーム主義Islamism」を分析する、という大塚氏の姿勢はもっともですし、現実に存在するIslamismを少しでも公平に人類学的視点から考察するには、最も常識的な選択でしょう。
 しかし、ここで考えたいのは、実際のイスラーム主義ではなく、むしろ「原理主義」の語自体、言わば「イスラーム原理主義」にあって「イスラーム主義」にないものです。つまり「暗黙の否定的含意」そのもの、Fundamentalなものに対するヒステリックな反応、「原理」への恐怖と、これにより防衛されているものです。

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 合コンネタに始まって、愛が盛り上がってますね。

 takisawaさんの「愛する人に出会いたい」

「愛する人に愛されたい」というのと「出会いを増やして愛する人を作りたい」というのは、私には全く別次元の問題に思える。(・・・)
私が草さんの「出会い」を目的化してしまう「合コン」というシステムに嫌悪感を抱くのは当然のことという主張に賛同するのは、「愛する人」は積極的に作るものではなく、勝手に意とは別に愛してしまうものだという愛の神話にロマンを持っているからだろう。

 これに対し、sho_taさんの「恋愛の「どうしようもなさ」に寄せて」

純愛主義者諸君は、「恋愛のどうしようもなさ」を称揚するあまり、「恋愛のどうにかなる部分」を忌避し、嫌悪していないか?(・・・)
「どうにかなる部分」を文脈とせず、それを前提としない「どうしようもなさ」など、成り立ち得ない。いやむしろ、「どうにかなる」と信じ、「どうにかしよう」と努力したぶんだけ、「どうしようもなさ」の価値が高まるのだ。

 言い訳から始めると、わたしはあまり恋愛について語るのは好きではありません。女子恋愛トークがバカっぽくてウザい、というのが一つ(でも自分がすると確かに楽しいw)、「ゴチャゴチャ言ってる間に恋愛行動しようぜ! 喋っちゃったらエロくないやん!」というのがもう一つ。
 でも、少年たちがあまりに熱すぎて、むしろ絡まない方が照れくさくなってきたので、うっかりちょっとだけ喋ります。

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 「宗教から哲学へ」という流れは、少しでも西洋哲学に接したことのある人々にとっては、大変馴染みのあるものでしょう。これは、西洋哲学がキリスト教文化の中で涵養されてきた、ということだけでなく、宗教とこれを包囲する神学それ自体の深化の中で、近代合理主義にも連なる哲学が生み出された、ということです。
 こうした「哲学のルーツ」は別段キリスト教文化圏に限ったことではなく、イスラームにおいても同様に「宗教から哲学へ」の流れがあり、そしていずれの場合においても、哲学は「異端」とされる危険と隣り合わせでした。哲学とは理性に訴えるものであり、合理を極めようとすれば、宗教の教条主義的側面や具象化した戒律等は、いずれ軽視されることが宿命付けられています(※1)。たとえ「神の存在証明」を巡る哲学であったとしても(実際、近代哲学の一大課題はここにあったわけですが)、そこで「証明」を目論まれる「神」は既に宗教的「神」ではなく、往々にして宗教的権威にとっての「危険思想」となってしまうからです。そもそも、宗教的権威における「神」は、理性により存在を証明してもらわなければならないような「弱い」神ではありません。
 以上は大変大雑把なまとめ方であって、不正確極まりないものです。また、「宗教」と「哲学」の関係を語ろう、などという究極の大風呂敷を広げるつもりもありません。ただ少なくとも、現在のわたしたちの社会状況に連なる歴史の中で、「宗教的・因習的・具象的」なものから「哲学的・合理的・抽象的」なものへ、という枠組みが、言わば既定の方向性として、暗黙的に想定されてきたことを確認したいのです。
 これは広義の「宗教」についての、「部族宗教から普遍宗教へ」という、西洋的な視点ともオーバーラップします。そして「世界宗教」のコスモポリタニズムを再-共同体化の楔を振り切り実現するものとして、社会主義的思想が構想されてきたことも事実でしょう。柄谷行人氏は『世界共和国へ』で、「普遍宗教は、商人資本主義・共同体・国家に対抗し、互酬的(相互的)な共同体、つまりアソシエーションを志向するものとしてあらわれた」とまとめています(※2)。

 こんな話題を持ち出したのは、実はその正反対、「哲学から宗教へ」という方向に惹かれているからです。

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 今朝起きてから、妙に地に足の着かない気分です。
 十分に睡眠を取ったにも関わらず、考えがまとまらず、心がザワザワする感じが消えません。
 超情緒不安定で、三日に一回は世界の終わりをリアルに経験する人生なので、別段この感じ自体は珍しくありません。神の声が聞こえないだけ、むしろ静かな方です。訳のわからない脳内物質やら壊れまくった内分泌システムのせいで、宇宙が歪んでいるのでしょう。
 こういう時の典型的なわたしの対応は、「原因を考える」という極平凡なものです。ただ「ヘンな薬キメて、しかもキメたことすら忘れてないかな」とか「内分泌のバランス制御が」とか「マイタケの過剰摂取によりβグルカンが予期せぬ作用を」とか「脂肪酸バランスがn-6系に傾いたせいで」といった妄想科学的な領域にまで救いを求め、またわけのわからない薬物をボリボリ摂取してみたり、断食してみたり、生魚を求めてスーパーを彷徨ってしまうところが少し極端ですけれど。
 今日もまた、いつもと同じように「原因」を求めてグルグルし、とりあえず冷たいコーヒーを注入しまくって覚醒を促してみたりしたのですが、依然シャキッとしません。
 「エストロゲン優位三日目くらいが一番精神状態が良い」マイ信仰などがグラつき、もうアッラーにおすがりするしかないのか、と思ったときに、やっと気づきました。
 二日酔いです。
 ただの二日酔いです。
 わたしはかなりアルコールに強く、学生の頃などは「喉が渇いた」と言ってテキーラをボトルから飲むようなキチガイでした。
 その後色々あって、部屋で飲むということをキッパリ辞め、飲む機会や量も普通以下に制限しました。久しぶりに会った友人に「○○さんと言えば『酒と本』のイメージだったのに!」と驚かれたくらいです。いや、これはむしろ、以前どれだけ酒飲みだったかを示しているだけかもしれませんが・・。
 最近になってまたちょっと増えてきましたが、それでもせいぜい平均的日本国民レベル。とにかく、長い間「二日酔い」というものを経験していませんでした。

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 「兎美味し 蚊の山」さんが「かわいい」と「うつくしい」で、須田英之の独り言:可愛いと称される事は良いことなのかというエントリを引いて、こんなことを書かれています。

「かわいい」って言葉は力関係が下であるものに対して、「保護したい」「大切にしたい」という欲求を発する言葉だと思われる。と言ってもその「力」っていうのは経済的なことや会社での地位だけでもない。表向き会社という場の中で最も正しいロジックはあるけど、それとは別に地位は下でも影響力を持つ人がいたり、そのロジックでの評価が「くだらん」と思っている人が結構いたりするのが世の中だと思う。

 これは上の須田さん(多分男性)が「女性に『かわいい』と言われるのを喜んでいいのか。もしかして馬鹿にされてるの?」といった発言をされていることに対するものです。
 まず、「かわいい」が力関係が下のものに対する言葉である、ということを「一男一女の母」であるusauraraさんがサラリと書いて始めていることに、ドキッとしました。
 こういう身も蓋もない切り方というのを、わたし個人はしばしばしてしまうのですが、「かわいい」使用率が圧倒的に高いはずの女性のほとんどは、大抵こういう言説化をしません。そして「かわいいって弱いものに対する言葉だよね」等とふっても、どこか釈然としないような様子を見せ、それでも「よくわからない、そうかなぁ、言いすぎちゃう」といった反応しか得られないことがほとんどです。
 これは「『かわいい』が下に見る見方」であることがまったく間違っている、ということを示しているわけではなく、むしろ「かわいい」の「下に見る力」を最も効果的に発揮するには、それを意識化しない必要があるためであると思われます。丁度、「良きナショナリスト」がナショナリズムが近代のファンタジーであることを決して認めなかったり、一万円札を本当に紙として扱う人間が日本社会で生きていけないようなものです。

 しかし、「かわいい」は、「表のロジック」を脱臼させるワイルドカードとして用いられるだけではありません。

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 technobahnのバイオ燃料は地球温暖化防止には貢献しない、ノーベル賞化学者が警告より。

バイオ燃料の地球温暖化に対する効果を研究したのはオゾンホールの研究で1995年にノーベル化学賞を受賞したドイツ人大気化学者のパウル・クルッツェン博士を中心とする研究グループ。

 グッときたのは、記事の内容では全然なく、「ドイツ人大気化学者」という文字列。
 最初、「大人気のドイツの学者」というイメージが浮かびました。
 「ドイツ人・大気・化学者」と理解するのに一秒くらいかかりました。

 いいですね、大人気のドイツ人。
 オゾンホールなんかよりずっと気になります。

 家に帰ったら『幕府を作りたいのですが』が届いていました。質問や回答の掲載された人に、見本誌を送ってくれているようです。
 そういえば、「掲載の際にIDを表示してよいか」等のメールのやり取りがありました。
『幕府を作りたいのですが』が届く

 一つ、ちょっと気になることがあります。

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 大野さんが「合コン」はやめようで合コン批判?をされています。エントリの主題は合コンの劣悪さ、「合コン」という言葉のかっこ悪さなどを巡るものなのですが、例によって本題とは全然関係のない細部に吸い寄せられました。

学生時代、周りに狩猟民族は少なく、定住型の農耕民族が多かった。恋愛も、畑を耕し種を蒔き、肥料をやり雑草を取り、ジワジワ育てるタイプ。だいたい普段の格好がツナギとか首にタオルとか、農民と同じである。飲み会も多かった。一つ課題が終わると終了コンパ。近くで酒を買って来て、作業着のままでアトリエでコンパ。農民の男女が収穫祭をしているようなものだ。

 ここで、暗黙的に「狩猟民族=合コン派」とされているように思うのですが、合コン派というのは狩猟的なのですか?
 わたしの中では、合コンこそ百姓的会合、下世話な箱庭的ゲーム、というイメージなのですが、大野さんにとっては違うようですね。
 言うまでもなく、合コンが「狩猟的」か「農耕的」かなどというのは話の本筋とは関係なく、さらに「狩猟的」「農耕的」という言葉遣いそのものがチープなイメージにすぎません。また、リアル狩猟採集生活は絶対「狩猟的」などではなかっただろう、ということは「採集民のススメ」でも書きました。ですから、ここでやりたいのはただの混ぜっ返しの言葉遊びで、筋も理屈も全然通っていません。

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 小鳥さん「小突いただけで骨が折れそうなほど弱そうな子が、アメリカのスラムでラップ」で紹介しているノリアキというラッパーがマジでヤバいので(色々な意味で)、わたしも貼っておきます。

 何度見ても、ホント弱そうでムカムカしてきます。ある意味、真に怒りを呼び覚ます魂のHipHopです。

 でも、一番グッと来たのは小鳥さんの次のコメント。
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 「岩明均『ヘウレーカ』 科学のディスクールと< 真理>の鏡」で、『ヒストリエ』の4巻が発売されているので何か書くかも、と追記しておきながら、放置していました。非常に好きな作品であり、未完でもあることから、なかなかまとまったことが書けません。
 代わりに、ものすごいしょうもないところにツッコんでみます。
 ヒエロニュモス家の執事的存在ヘカタイオスと『ドラゴン桜』の桜木建二って、ちょっと似てません?

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 はじめにお断りしておきますが、このエントリは客観的に「中国とアメリカ」を論じるものではまったくなく、「自分の奇妙な考え」を振り返る極私的なものです。ですから、冷静な政治的分析など全然なく、極めてナイーヴな部分もあると思います。
 気になるのは、なぜわたしがアメリカがそれほど嫌いではないのか、ということです。

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『イスラーム主義とは何か (岩波新書 新赤版 (885))』 大塚和夫 『イスラーム主義とは何か』 大塚和夫

 すばらしい良書です。
 著者はまず、「イスラム原理主義」という用語が作動させているコノテーションを批判することから始めます。

「原理主義」という言葉は、多神教的な日本の宗教文化の肯定的評価を背景に、それと対立する否定的な意味合いをもった運動を指すものとして一般に流通しているのではないだろうか。つまり、寛容で神々の和を尊ぶ平和的な日本文化に対し、他者を承認しない偏狭で不寛容で戦闘的な一神教的「原理主義」、という対立を際立たせるという効果をともなっているのではないか。これは夜郎自大的な、自民族中心主義にも通じかねない発想である。

 その上で、「イスラーム主義」を以下のように定義します。

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 随分前から欲しい欲しいと思いつつ、手が出せないでいるものがあります。バナジウム整水器です。

バナジウム整水器 V-POTバナジウム整水器 V-POT

 大分前にバナジウムのことを書いて、以来しばらく忘れていたのですが、最近になって突然また物欲が沸いてきています。
 バナジウムはミネラルの一種で、糖質の吸収を抑える働きがある、と言われています。古い記事ですが「体重の増加が有意に抑制され、脂肪組織のインシュリン受容体数が増加するなど、臓器・組織の病変を改善することが確認」とあります。
 ミネラルウォーターによってはバナジウムを多く含むものがあり(前に比較したところでは飲む酸素α700が一番含有量が多い)、食品だとパセリ、黒コショウ、マッシュルーム、貝類やエビ・カニに多いそうです。
 バナジウム整水器を使えば、自宅でバナジウム水を作れる上、残留塩素を取り除くこともできます。
 でも高いんですよねぇ。安いところでも18,000円はします。
 ランニングコストを考えると絶対お買い得だと思うのですが、つい二の足を踏んでしまいます。

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  「『音を楽しむ』って書いて音楽っていうじゃないですか」とか言う人が嫌い

じゃあお前は人の間と書いて人間だな。よかったな。あっぱれだよ。

 まったくです。
 むしろ「音が楽する」くらい言ってやりなさい。

 ちなみに、わたしは「物語」という単語を初めて見たとき、「モノ語? モノにも言葉があるの!? すごいすごいすごい!!」とワクワク妄想をスパークさせて、その後大人たちから真実を知らされ、ものすごいションボリした思い出があります。

 人間たちはいつも、意味に目が眩んで、言葉がわからなくなる。

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 ファンケルからリニューアルした無添加スキンケアDXのサンプルが届きました。

ファンケル無添加スキンケアDXを試す

 「生産終了のエヴァンテをまとめ買い」で書いた通り、今ひとつリニューアル後のラインが信用できなかったのですが、タダでもらったものなのでとりあえず試してみました。

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 コメント欄を閉じています。
 「なぜコメントの敷居を高くするのか」で書いたように、一定の敷居を設けつつコメント欄はある、という状態を求めていて、Movable Typeの時はType Key認証が丁度良い面倒臭さを発揮してくれていたのですが、WordPressにしてから運用に迷っています。

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 今日、「非モテ」というのは、「非-モテ hi-mote」と合成語的に分けて発音するのではなく、「シブヤ」のように平坦かやや尻上がりに読む、ということを知りました。
 最初は「紐手」「干物」を連想してしまい、何のことだかわかりませんでした。

 また、「リア充」という言葉も覚えました。
 「リアルで充実」という意味だそうです。
 これも音を聞いた時は「リア獣」だと思い、

リア獣 > リア王 + 獣 > 百獣の王 > らいおん

 というイメージがスパークしてしまいました。

 「干も手」と「リア獣」は、多分こんな感じです。

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 なんとなく、自分の語学学習歴を振り返ってみます。

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『はじめてのアラビア語』 宮本雅行 『はじめてのアラビア語』 宮本雅行

 アラビア語に興味を持って最初に買ったのがこの本。
 タイトル通り、まったくアラビア語学習経験がない人に「アラビア語ってどんな言葉?」を紹介する一冊です。微妙に恥ずかしいのですが、わたしこそ正にその「未経験者」なので、頭を垂れて教えを請いました。
 面白いです。
 この手の「語学系新書」にありがちな通り一遍の説明ではなく、ツカミからの持って行きかたが上手です。アマゾンのレビューにもありましたが、著者が語学教師ではないこともプラスになっているのかもしれません。この本でますますアラビア語に惹かれ、何気に次の小さな一歩を踏み出しています。
 『はじめてのアラビア語』ではありますが、文字通りの純初心者にとっては、この本一冊みっちりマスターするだけでもかなりの前進です。

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 「オフ会で会った人の容姿について言及すること」の話題がちょっと面白いです。多分、始まりはひーらーちゃんぷるー:文章からルックスを読むで、大野さんがOhno blog:ブロガーのルックスを云々することで反応し、そのコメント欄で議論が盛り上がった、という展開っぽいのですが、草日記:オフ/ルックス/非暴力的抑圧が一番まとまっている、というかここでまとめられていることにしかわたしは興味ありません。
 まず、そこで引用されているsho_taさんのコメントを孫引き。

例えばオフレポで瀧澤なりマサオさんなり草さんなりについて、大野さんが「思ったとおりのイケメンでした」と書いたとします。本人たちはそりゃあ喜ぶでしょう。けれどそれを読んだ、自分の顔にまったく自信のない人、遠隔地に住んでいる人、もっと直截に書いてしまえば、顔に傷や病気のあとが大きく残っている人、それでも瀧澤やマサオさんや草さんや大野さんらに「会いたい」と強く思っている人は、どう思うでしょうか? それは「抑圧」と言えるでしょう? 草さんが射程に入れているのはこういった部分なんじゃないでしょうか(「非コミュ」な人はたぶんオフ会に出てこれないでしょうし、その契機さえないわけで)。

 これに対し、ご本人の草さん。

私が言いたかったのは、だいたいこういうことです。言及された本人が感じる抑圧のことではなく、不特定多数の人が感じるものについて。もっと絞れば、「オフに出たけど言及されなかった人」のことよりも、「オフに出なかったけど、オフレポ*1を読んだ人たち」のことが気になります。前者については要するに「特定の人を誉めるのは、他の人を貶すのと同義」という話であって、これは当たり前と言えば当たり前かな、と。私が特に関心を持っているのはルックスについてのアレコレであって、遠隔地でオフに行けないとか、そういう問題は措いておきます。「会いたい」と思っているかどうかも、さほど重要ではないかも。

 面白いですね。
 草さんという人はこの手の状況を本当に公平に認識できる人だなぁ、と常々感じているのですが、その認識を得た上で取る行動というのがわたしとは180度違う。だから面白い。
 わたしは褒めるのが好きだし、容姿についてもポジティヴな面なら(詳述はしませんが)、割と平然と言及してしまいます。それで容姿に劣った人が接触し辛くなるなら、なお結構。一石二鳥じゃないですか。
 ただし、「容姿に劣っている」というのはあまり客観的に判断できることではなく、誰しも一つや二つはコンプレクスを抱えているものです。ですから、実際の容姿がどうであるかは別問題として、容姿という重力に負けて敷居をまたげないような根性ナシには用はないし、敷居は高くしておきたい、という意味です。
 自信は結果としての現象により得られるのではなく、そこにかけたエネルギーから身につくものです。「これだけやったんだ」というか、むしろ「もうこれ以上無理です、殺してください」ぐらいまでいけば、誰でも侠道を歩いて敷居をまたげます。個人的に「自然が一番だよ」とかいう大嘘つきが心の底から憎いので、人工的気合を第一に生きている人としか関わりたくないです。気合は会えばオーラが見えるので、すぐわかります。結果は問題ではない、というよりオーラという一番重要な結果がちゃんと得られています。
 それでも問題が一つ残ります。「空気が読めない者、その罪状と判決」で触れた「そもそも壁が見えない人」です。こういう人には、どういう防壁をはってもムダです。ハイパスがかけられるのは結構なのですが、超重低音もパスしてしまうところが難点です。

 と、ここまで来たのですが、実は容姿がどうこうという流れよりむしろ、「オフ会」なるもの自体の方が気になっています。

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『ムスリム・ニッポン』 田澤拓也 『ムスリム・ニッポン』 田澤拓也

 危険なまでの面白さです。
 「イスラーム」「亜細亜主義右派革命勢力」という、わたしのために選ばれたような素材であるから、というだけでなく、ジャーナリストらしい実に読ませる文章です。いずれか一つ、あるいは「イスラームと日本」ということにだけ興味のある方でも、必ず面白く読める、とお約束できます。
 イスラームと亜細亜主義と言えば大川周明で、当然ながら本書でも紙数が割かれているのですが、王道すぎて初見のエピソードもほとんどなかったため、むしろ無知だった東京モスク設立の経緯が特に印象に残りました。

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 主に「はてな」界隈で「モテ/非モテ」に関する議論をしばしば目にします。たまたまわたしの巡回しているブログでそういう話題が多いだけかもしれませんが、以前からこの話がさっぱり面白くない、というか、一体なぜそんなことに少なからぬ人(少ないのかもしれないし、よく知らない)が関心を持つのか、理解できないでいました。
 でも、ひーらーちゃんぷるーさんの「さよならオナニー」はちょっと面白かったです。
 「振った女を殴る代わりに社会運動にした」というフルカツ氏、それを政治的DVと読む大野氏、さらにこれに対し「それを言っちゃぁすべての政治がDVでしょ」とツッコみつつ「フルカツさんは本当に振った女を殴りたかったのか?」と微妙に話の焦点のズレたところに頭を使ってみる瀧澤氏。この話のズレ加減だけでも興味深いです。

 「モテ/非モテ」ということが話題にされている度に疑問に思っていたのは、そもそも「モテる」という基準というかパラメータのようなものが存在するのか、ということです。
 わたしも「モテ」という言葉を使うことはありますが、それは「モテを上げるっ!」とかハシャいでハイになってみる、といった程度のことで、ネタとしか思っていません。
 仮に「意中の異性とお付き合いできる率が高い」ことを「モテ」だと考えてみると(多分この還元はズレていますが ※1)、「うまくいく」かどうかはその人に本性として備わった「モテ」なる属性が決めるのではなく、ただ単に行動するか否か、そしてその時その時の行動で「首尾よく」振舞うか、あとは運が決めることです。
 瀧澤氏は、「好意を持った女性には、常に口説きまくりんぐ」だそうですが、イロコイなどというものは九割方勢いで決まるもので、「口説きまくりんぐ」で行けば結果的に「うまくいく」ことも多いでしょう。もちろん、失敗することもあるでしょうが、口説かなければ、男性の場合ほぼ100%失敗です。大抵の女は押しに弱いですから、押して押して押しまくれば、そのうち洗脳にかかってなんとなくコロッといってしまうことも多いのではないかと思います。失敗したらどんどん次に行って、成功体験を積んでいけば、成功率も高まっていくことでしょう(※2)。
 技術も重要ですが、技術は実践と成功体験から獲得するものなのですから、行動しなければ始まりません。すべてとは言いませんが、多くの自称「非モテ」な人は、単に行動しないだけなのではないか、と想像します。
 ただ、これで話が終わるわけではなく、すぐに思いつくポイントが三つあります。「思い入れ」と社会的抑圧、そして容姿の問題です。

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 黙読と音読、そして「内面」について、ハッとさせられることがありました。きっかけはマイケル・クック『コーラン』の次の一節です。

(クルアーンが詠唱されることについて)他の宗教と比較すると、これはまったく珍しいことではないと分かる。ヘブライ語聖書やヴェーダも詠唱される。ブッダは弟子に、ヴェーダのような様式で聖典を詠唱しないようにと言ったが、それでも彼らは詠唱している。実際のところ、自分の正典的テクストを詠唱しないプロテスタントのキリスト教の方が、風変わりなのだと考えるべきだろう。

 シャリーア(イスラーム法)的には「クルアーンの読誦は善、音楽は悪」らしいですが、詠唱は明白に「音楽的」です。つまり、

黙読 < 音読 < 詠唱 < 歌 < 音楽

 というラインが考えられます。
 わたしたちは「読む」というとまず「黙読」ですし、小学校か中学以外の場面で「音読」する機会はあまりありません。というか、電車の中で音読していたらかなり迷惑です。
 黙読と音読の差異は「音として聞く」段階にあります。音読している人がいたらその声は聞こえる、ということですが、同時に「自分の声を自分で聞く」ことでもあります。
 重要なのは、「自分の声を自分で聞く」時、「発声する自分」と「聞く自分」の間に論理的時間差がある、ということです。読む< わたし>と聞く< わたし>にはズレがあります。< わたし>が読んでいる時、その< わたし>は聞いていない。聞いている< わたし>はただ「声」に身を預ける< モノ>となっている。つまり、思考としての< わたし>とモノとしての< わたし>、という主体の分裂が、音読には潜んでいます。詠唱や歌における恍惚感は、< モノ>になる享楽とつながっています。

 しかし実は、黙読であってもわたしたちは「声」を聞いています。

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 昨日、数少ない友人の一人(というか義兄弟)と電話していた時のこと。
 彼女はまだ学生で、しかもド田舎に住んでいてほとんど電車に乗らないで済む素晴らしいご身分なのですが、こんな話題になりました。

「あのね、わたしこないだ電車に乗っていて思ったんですけど」
「ん?」
「カッターシャツ着てお腹の突き出た太った人とかいるじゃないですか。ああいう人って、どうしてあれで電車に乗れるんでしょうね。わたしやったら、引きこもるか何かすると思うんですけれどね」

 素晴らしい! さすが我が同胞!
 わたしが毎日毎日毎日毎日ハラワタ煮えくり返るような思いでいることを言ってくれました!
 わたしが絶賛し、「とりあえず30kg痩せるまでは選挙権剥奪すべきやね」と言うと、

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 クルアーンと並んでイスラームにおいて重要なテクストに、ハディースがあります。ハディースは言わば「ムハンマド言行録」で、預言者の身近にいた人々の証言を様々な伝承で伝えるものです。ハディースについても、気に入ったところはクルアーン筆写にポストしようかと思っていたのですが、余りにも魅力的な一節があったため、ここに引用しておきます。なお、文中「ムーサ」とは、ヘブライ語聖書のモーセのことです。

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 クルアーンを読んでいて目についたポイントの一つに、ベドウィン(アラブの遊牧民)の扱いがあります。
 クルアーンでは何度か、ベドウィンについて今日的に言えば「差別的」表現が表れ、「信用ならない者」として記述されています。
 わたしたちはイスラームというと「アラブ、砂の民」を連想してしまいますが、ムハンマド自身はマッカの商人であり、都市生活者です。そしてイスラームはベドウィンの部族的信仰の否定として始まったのであり、安易に「イスラーム=砂の思想」と位置づけることのできない複雑な背景がここにあります。
 クルアーン翻訳者の井筒俊彦さんも、『イスラーム文化 その根柢にあるもの』(※1)で次のように仰っています。

砂漠的人間とは、具体的にはひとつの場所に定住せず、広漠たる砂漠をたえず移動しながら遊牧生活を送るいわゆるベドウィンのことでありますが、イスラームを興した預言者ムハンマドは(・・・)、決していま申しましたような意味での砂漠的人間ではなかったのであります。彼は商人でした。マッカとマディーナ(*)という当時のアラビアとしては第一級の国際的商業都市の商人であり、商人としての才知をいろいろな局面で縦横に発揮した人間であります。(・・・)同じアラビア人といいましても、砂漠の遊牧民と都市の商人とでは、メンタリティーも、生活感情も、生活原理もまるで違います。砂漠的人間であるどころか、預言者ムハンマドはまさに砂漠的人間のいちばん大切にしていたもの、砂漠的人間観の価値体系そのものに真正面から衝突し、対抗し、それとの激しい闘争によってイスラームという宗教を築き上げたのであります。
(*最初「メッカとメディナ」という旧来の表現をしたあと、本来の発音に近いこちらに言い換えられているため、この表記とさせて頂きました)

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